第九話
「……と、いうわけで。堀に避難場所になっていただかずに済みました」
深々と頭を下げて、堀に礼を言う。放課後の教室で、顛末を話しているところだ。特に隠したいわけでもないから誰かに聞かれても別にいいんだけど、かといっておおっぴらに話をする内容でもないし、昼休みに終わるか怪しかったので結局、放課後を待ってお話させていただいた次第。
「ふぅん、まあよかったじゃないの。ていうかそこは別に報告しなくてもいいわよ、どうでも」
「ひとんちのわりとシリアス事情をどうでもいい呼ばわりする堀を私は嫌いではないと思う」
「持って回ったような言い方はくどくて私は嫌いよ。で? いつまで誤魔化すの?」
自然な茶の髪を鬱陶しそうに後ろへ払う仕草は、椅子に斜め構えで座り足を組む姿と相まって、まるで一国の女王のようだ。王女じゃないよ、女王様だよ。どうでもいい情報だね!
「……今日、可愛い彼とデートとかないの?」
「いつでも会えるからいいのよ、家は徒歩五分圏内だって前に話したでしょ」
ぐう。ちくしょう、もう回避出来る術がない。ていうか別に隠すつもりもないんだけど、単に照れ臭いというかなんというか、今までこういうことに無関心を装ってきた身としましては、なんともいえないものでして。
「もじもじするんじゃないわよ気持ち悪い」
言い辛くて確かに身体のあちこちを擦り合わせてこしょこしょしてたのはたしかですよ。わかっていますよ、気持ちが悪いですよ。でもさ。
「それが初めての恋に戸惑う乙女に投げかける言葉なの? 冷たいなあ!」
「あらあら。恋しちゃってるのはもうお認めになるのね」
「…………別に、堀に隠すつもりとかなし」
「ふうん。……で? どうなのよ、家族間の問題が解決してから」
堀の問いに、私は思い出して少し頬を赤らめる。堀がそれを意味深に捉えたらしく、いやらしい笑みをこちらに向けるので、私は慌ててたいしたことはない、と否定した。
そう――私が勝手に喜んでいるだけなのだ。
「仕事を辞めた!?」
驚きに目を剥き、叫ぶ私の反応を他所に、育実くんはいつもの無表情でこっくりと頷いた。
新しい家族を始めようと思えたあの日から、一週間後。衝撃の事実を告白する育実くんに驚いて絶句していると、育実くんは今日子、と私の名を呼んだ。
「分担、する」
ふ、と笑んだ彼の瞳にはっとして、私はその意味を理解した、途端、申し訳なさが胸いっぱいに広がった。
台所に並んで私が食器を洗い、育実くんがそれを拭ってくれていた。まだ残っている汚れ物をいったん置いて、私は育実くんの方を向く。育実くんはただ淡々と作業を続けている。私は軽く手を拭って、本格的に彼へと身体を向けた。
「それって、私の負担にならないように家事を分担しようって事だよね? それってつまり私のせいで育実くんが仕事を辞めちゃったって事だよね!?」
焦りながらも詰め寄る私に、育実くんは再度、今日子、と名を呼んだ。
やめてほしい。それだけでけっこう心配停止状態に陥りそうな心境だ。
「父さんには居場所が出来て、俺も取り繕わなくて済むようになった」
「…………」
「仕事は、義務だった。でも今の俺にはそれがない。だから、年齢相応に自由を満喫するのもいいかと思って」
育実くんの言葉はよくわかる。つまりは、ある種異常なほどに詰め込んでいたお仕事を辞めたのは、誰でもない、ただ自分のためにやったのだということだ。きっと、私があんな状態でなければもっと早く仕事を辞めたかったのかもしれない。彼が家に居る時間が増えた事を、今は嬉しく思えるけれど、きっと前なら自分がどんどん追い込まれていっただろう。
自由を満喫。いいじゃない。青春を謳歌とかさ。すごく、いいじゃない?
でも。でもだよ。
「だったら――家事を分担なんてしなくていいよ。私はこれが好きでやってるんだもん。いや、嘘くさく聞こえるかもしれないんだけど。元々の性分でもあったみたいって最近、気付いたの。なんていうか、美味しいって言ってもらえるの嬉しいし、みんなが快適に過ごす手伝いをするのってやりがいがあるっていうか……辛い時は手抜きしていいって今はわかっているし、時々ラクもさせてもらえてるよ?」
そう、これは本当の話。なんと、私は主婦業がそう嫌いではないようだった。大好きってわけではないよ? やっぱり面倒くさいなあ、て思う事もたくさんある。でもね、手抜きもしていいんだっていう余裕が出来てからは、毎日が前よりも明るいし、楽しい。堀と放課後ゆっくり話したりなんかも出来るようになったし。クラスメイトとも、ちょこちょこと交流が持てるようになった今、確実に私の青春は輝きだしている! と、勝手に思っています、はい。
ちら、と育実くんの顔を見てみる。うん、無表情。なんだろう、何考えてるかな。やっぱり疑われてるだろうか。
「あの、たとえばさ、遊びたい時なんかは、育実くんにその日の家事を代わってもらうから。そ、そのくらいのわがままは許してくれたらなー、なんて……」
えへら、と笑いながら言ってみるも、育実くんの表情は変わらず。ていうか、食器拭く手も止まってないし。こっちに視線向けてくれてはいるんだけどさ。な、なんだよう、話すらきちんとさせてくれないのかよう。いいですよー、私も食器洗い再開しますよー。
なんでだか、不貞腐れているような感情を抱きつつ、私はシンクに身体を戻しスポンジを手に取る。
「今日子」
耳元へダイレクトに伝わる声、吐息。あまりにも近いその距離に、身体も思考も固まった。
「だったらなおさら、分担しよう? そうすればお互いに予定を立てやすいよ」
よていを、たて、やすい。
ええと、ええーと、それは、ええと。遊ぶ予定とか、そういう、その、あれよね。
「当番制とか。ふたりでいっしょに家事をやる日も作ろう」
「げ、げ、月曜日は私とか、火曜日は育実くん、とか、そういう、あの、そういう、こと?」
「そう」
「う、ん、でもさ」
「これからは頼るって言った」
あれ、なんか、これ、あの、背中に生温かい感触が、なんだ、育実くんちょっとあなた密着してません? ねえ、耳元で囁くだけでは飽き足らず、ぴったりくっついてません? シンクに両手ついてるから抱きしめられてはいないけどさ、なんかこれ閉じ込められたみたいになってないかな、なんかこう、甘い檻みたいなそういうあれになってないかな、ねえ、これちょっと。どうしてそんなに平然とくっつけるの!? 手が震えて、まともに食器を洗えるわけもありません!
「と、とりあえず、片付けてから話そう? ていうか、離れて、そんなにくっつかれたら食器洗えない、から」
なんとかこう、少しでも平静を保って話そうとするんだけど、まあ、声はうわずるし、挙動不審にはなるし、多分、顔真っ赤だし。これよっぽど鈍くないと気付かれるんじゃないかなって思うんだけど、大丈夫なのかな。育実くんは、どうしてこんなに私にスキンシップを施すのだろうか。ひょっとして女として見られてないから? それとも、私と同じような感情を――
「今日子」
「ひえっ!?」
ま、間違いなく抱きしめられた。後ろから、抱きしめられております。待って、待って待って、ちょっともう、とにかく待って!
「俺が全部やるから休んでていいよ。顔赤い。風邪ぶりかえしたかも」
「へ、わっ」
腰に回された手が、私の身体を持ち上げる。なぜか荷物を運ぶように私は直立したまま持ち上げられた。マネキンか何かになったようだ。……あ、リビングのソファの前で降ろされた。
「座ってなさい」
ぽん、と頭に柔らかく触れる手。私は小さくお礼を言って、おとなしく従った。
ちらり、と育実くんを見ると、彼はこちらを振り向かずそのまま台所へ踵を返す。少し見慣れてきた横顔は、慌てふためく私とは違い、平静そのものだった。
「――それ、付き合ってる恋人同士でもなんでもないのにやってるわけ?」
「……そうだけど」
少し前のやり取りの話を、まあ、全部ではないけれどざっと話した。堀が目を丸くする理由もまあ、わかります。私だって、育実くんのあれってどうなんだとは思う。嬉しいから文句なんて言えないけど、心臓いくつあっても足りないし。
「それって考えられるのは二通りよね」
あ、核心をつかなくていいんですよ、堀さま。わかってるんだよ、私だって。
「あんたのことを女として好きで、ついつい可愛くて触ってしまうか、あんたのことを妹として好きで、ついつい可愛くて触ってしまうか」
はい、撃沈。私、撃沈しますよ、いいですかね。
机に突っ伏した私の頭頂部を、堀が指でつっつく。顔を見ずともわかるわ、心底楽しそうな顔をしてるんだろう、この女王様は。
「……ほんの一文字だけ変えただけなのに、意味合いが全然違うなんて、残酷だね」
「恋だの愛だのが絡む場合、得てして残酷なものよ」
「そんなの知りたくなかった」
机に真正面からくっつけた顔が苦しくて、横向きに変える。視界が黒から教室の風景に切り替わると、私は特大のため息を吐いた。
「けど、その『育実くん』とやらが相当鈍いのだとしたら、あんたこれからやっかいね」
「……彼にとって、あのスキンシップは特別でもなんでもなく、日常ってことだもんね」
「よくわかってるじゃない。元々、気持ちに余裕がなかっただけで鈍くもないのね、今日子は」
「そう、だったの、かな」
自分の気持ちにも、ずいぶん早く気付いた。でもだからって察しが良いのかといえば、それはわからない。自分自身の事だし。なかなか客観的に見るのは難しいよ。物事を俯瞰して見るのは、きっと下手なんじゃないかなあと思っているし。今までのことからいって。
「まあ、気張りなさい。したいようにしたらいいわ」
「……したいよう、に」
「わがままじゃないと、こういうのはけっこう難しいわよ。早い者勝ちみたいな所あるしね。まあ、そういうの苦手な人間だってたくさんいるけれど。あんたに余裕が出来たように、向こうにも出来たってことは、今まではなくてもこれからは恋人が出来るかもしれないじゃない?」
さらりと、意地の悪いことを言う。まったく、楽しそうにしちゃってさ。
まあ、他人のそういうの、無責任に見るの、嫌いじゃないけどね、私だって。当事者には迷惑な話ですよ、ちくしょうめ。
「でも、これでここ数日の今日子がなんでそんなに急いでないのかよくわかったわ。家事を当番制にしたからなのね」
「うん。なんか結局、要求を受け入れる形になって。今日は育実くんが当番なんだ。休日は、お互いに用事がなければいっしょにやろうって」
「……ふうん」
何かを考え込むような仕草をする堀に、どうしたのか、と問うと、堀はちらりと私に視線をやる。
「……案外、向こうに自覚がないだけなのかしら」
呟く声が小さくて聞き取れずに首を傾げる私に、なんでもないわよ、とにっこり微笑んだ堀の顔は若干怖かったです。
「ただいまー」
「おかえり」
帰宅すると、家の中は温かい光。リビングの扉を開けば微笑む家族。当たり前のように、ただいまと唱えればおかえりが返ってくる。きっと私は、ずっとこれが欲しかったんだ。シンプルだけど、一度失くすときっと取り戻すのは難しいもの。
「手伝うよ。今日は何作ってるの?」
「着替え」
「……たら、手伝うから」
確かに最近暑くなってきたし、汗かいてるし、まず制服を着替えたほうがいいのは確かですけど。ですけども。それにしたって無表情でそんな追い払うみたいにしなくても。いや、わかってるんだけどね、育実くんがお母さん的な感情で言ってるのはね。会話すら遮らなくてもいいじゃない。ちぇ。
二階の自室で制服を脱ぎ、部屋着を身に付けていると、壁にかかったカレンダーが目に入った。そういえば、あと一ヶ月ちょいで夏休みなのか。
「……何か家族行事的なものをしたりするのかなあ」
林さんとも、前より距離が近くなった。彼は彼で、私に歩み寄る努力をこれでもかとしてくれるから、その気遣いは単純に嬉しかった。でもなんていうか、妙に過保護っぽいところもある気がする。先日は絶対に車を出すと言って譲らなかった買い物。その時はまだ育実くんは仕事をしていて、お母さんも休日出勤という珍しい日だったから、ふたりきりでスーパーへ赴いたのだ。せっかくだから、と、少し遠いけれど大きい方へ向った。
やれ重いものは持つなだの、今日の服は可愛いけれどちょっと丈が短いんじゃないかだの、ぶつぶつとそういうお小言なのか要望なのかよくわからない事を言っては、あまりうるさいと鬱陶しいよねごめんね、と慌てて訂正したりする。なんというか、ちょっと可愛い人だなあ、なんて思ってしまったよ。
これからは、なっていくのかな。いけるのかな。
――家族に。
「今日子」
ノック音と共に、部屋の外から私を呼ぶ声がした。
「は、はい!」
「ごはん出来たから。着替え終わったら下りてきて」
え、もう!? 淡々と告げた育実くんの声に驚いて時計を見ると、帰ってからそこそこ時間が過ぎていた事を知る。慌てて脱いだものを畳んで、汚れ物を抱えながら部屋を出た。
洗濯は私がやるからね、育実くん。……洗われたら恥ずかしいものもあるし。
心の中で唱えた言葉は妙に間抜けで、しかしずいぶんと幸せな響きを含んでいた。