第八話
予想通りというかなんというか、ベンチに座ってぼんやりしていると、慌しい足音が近付いてきた。明らかに焦っているような靴と地面が擦れる音と、息づかい。案の定、音の主は育実くんだった。
公園出入り口から真正面。奥側に位置するベンチからは出入り口がよく見える。外灯が照らすほのかな明かりでも、彼の表情はじゅうぶん確認出来た。
無言でまっすぐこちらへ足を運ぶ育実くんは少し怖い。公園の敷地内に入ってからは早足だけど、ほとんど走ってるみたいだから、その中途半端な足取りもちょっと怖い。
「……どうしてそんな顔をしてるの」
少し息を切らしながら呟いた育実くんの声が、静かに水面を揺らす。凍りかけていた上辺はすっかりそんな気配もなく、彼が家にやって来たその日からいとも簡単に波紋が出来る。
――わかっていたよ、きっと、最初から。
「そんな顔って?」
先ほどまで視線を合わせず俯いていたのだけれど、育実くんのスニーカーが視界に入ったから顔を上げた。途端に言われた。
お。片眉を上げるなんて珍しい表情。育実くんが、冷ややかな空気を発している。
「……俺が必死なの、見て嬉しいの?」
「えっ……」
なんだそれ。目を丸くして私が顔を横に振ると、育実くんが今度は目を眇める。ななななんでそんなどんどん苛立った表情になっていくのでしょう?
「笑ってる」
むに。
私の両頬めがけて伸びてきた手は照準を外すことなく捉え、私の頬を思い切り引っ張った。びよーんという擬音が付きそうなほど左右に引き伸ばされている。
……はい、とても痛いです。
ぱちん。
引っ張ったと思ったら今度は突然それを離して軽く打たれた。育実くんはたいして力を込めずにやったのに、ひりひりした頬だと地味に痛い。
自分の頬を労わるように撫でていると、育実くんは私の隣に腰掛けながら、静かな声で問いかける。……深いため息はオプションか何かでしょうか。
「どうして、笑ってたの? 俺見て」
「え? わ、笑ってた?」
にやにやするの止めようと頑張っていたんだけど、すぐに表情筋がゆるんじゃって、引き締めようと頑張って、だけどまたにやけて、の繰り返しだったからなあ。育実くん見たら思わず笑っちゃったんだろう。頑張ったんだけどね、頑張ったんだけどね!?
「その……まあ、嬉しかった、から」
「……やっぱり」
「え?」
私の気持ちを、育実くんは理解してくれていたのかな。でも、それにしては、なんか……表情が険しい。
「俺が夢中で走る姿見て、笑ってたんだ……」
「は?」
「この間、手を差し出してくれたのも、からかっていたの?」
「……それって、コンビニの前での話?」
こくり、と無言で肯定する育実くんは、俯いて正面を向いてしまっている。全然こちらを見ていない。というか。
そんな性格だと思われてたのか。そっちのがものすごく衝撃だ。しばし無言で、私はうなだれた。
ああ、でも。
ちらり、と少しだけ上げた目線で彼を盗み見ると、本当に辛そうな顔をしていた。それって、私が好意ではない悪意でもって育実くんに接した可能性にショックを受けたって事なんだよね? さっきはちょっと哀しくなったけれど、私の存在が彼の中でけっこう大きいって事なんだよね? た、多分。育実くんももしかすると今はあまり冷静ではないのかもな。まさしく、トラウマと戦っている最中の私たちだ。色んなことを妙な方向に疑ってしまっても仕方がない。
「あの、さ。ちょっと恥ずかしいんだけど正直に打ち明けてもいい?」
改まった声で私が育実くんに問いかけると、真正面を向いていた彼が私の方へと顔を傾ける。私は私で彼の方を向いていたから、いやに距離が近い。至近で見ても人形とまではいかずとも一般的な男性よりも整っている彼の顔を視界に入れると、かなり緊張してしまう。なんていうか、過ぎると人間萎縮したりするじゃないですか。そんな感じ。
と。そうではなくて。
少し間が開きすぎてしまった私に訝りつつも瞳を逸らさない育実くんにまた若干緊張しながらも、なんとか続きを口にした。
「コンビニの時も、今も、すごく嬉しかったんだよね。こうやって、探して見つけてくれるのが」
「…………」
さすがに恥ずかしくなって、私は正面を向いた。育実くんにちらりと視線をやれば、少し呆気にとられたような顔をしている。
「私はさ、もう育実くんも気付いていると思うんだけど、お母さんに捨てられるのがすごく怖いんだ。育実くんがこの家にやってきたら、もう家事の手はこれ以上いらないのかなって考えちゃって、必要とされない家に帰るのが怖かった」
「今日子」
「でもさ、この間も、今日も、育実くんが来てくれた」
「!」
「私を必要としていない家に住んでるはずの育実くんが、私を心配して迎えに来てくれた。それが単純に、すごく嬉しかったんだ」
面倒な奴でごめんね、と、確かに声に出して伝えた。育実くんの方を向こうと思って首を動かした。それなのに、何故か彼の顔が視界に入らない。
「やっぱり俺たちは似ているね。そして、足りない」
「…………」
抱きしめられているのだとわかったのは、しばらくしてから。この温もりは妙な気分になる。
きっと家族に対して多くの人は、漠然とした信頼感のようなものがあるんじゃないかなと思う。いつまでも、何年経っても明日が来るという感覚と同じように、明日もそこに在るんだろうという、漠然とした、信頼感。けれど、私たちにはその感覚がない。圧倒的に、自分自身へ大丈夫だと言える自信が足りない。
育実くんも私も、何故だかその原因がどこか自分にかかってくるような気がしているのは、環境というより性質の話なのかもしれない。私は捨てられるのではないかって不安。育実くんはきっと、自分のせいで林さんが過労を溜めて、倒れてしまうんじゃないかって不安だ。形は違うけれど、きっと単純な形、その輪郭は一緒なのだろうと思う。
「帰ろうか?」
「うん」
身体を離して、私が微笑めば、育実くんも同じように微笑んで頷く。当たり前のように繋がれた手はけっこう照れくさい。
――でも、妙に落ち着く。
まあ、お互い、なんとなくわかっているんだ。どうすればこの先に進めるのかということは。ためらうのは、まだ少しある親への遠慮と、多分これが真実なんだけどっていうのに気付いたんだけど、わかったらわかったで複雑というか。どうしたものか。
でも。
「育実くんは、今どう思ってる? 多分、林さんは休憩する場所をみつけたことになるよね」
私の問題って、ひょっとすると解決するかもしれない。出来るかもしれない。けれど、育実くんはちょっと違うよね。林さんが無理をしていない状態だと確信できて、自分ていう存在が重荷じゃないって実感出来ないことには難しいもの。
「……俺は、実はけっこう前から美佳子さんと会ってた。……だから、そんなに再婚も抵抗はなかったし、今も親父の相手があの人でよかったと思ってる。だから本当は、もうこんなに必死で働かなくてもいいかとすら思っていた、けど」
「…………私に気を遣ってくれてたんだ」
「……べつに」
そうか、もうずいぶん前から知っていたんだ。私が育実くんをどんな風に思っているのかを。だからこそ、あまり家にいないようにしてくれていた。私の居場所を奪わないように。
「なんか私、何から何まで情けないね。育実くん、本当にごめん」
公園を出て、駅前まで歩いていた私たちはいったん足を止め、向かい合う。繋いだ手を離した私は、勢い良く頭を下げた。
いや、本当に。なんと情けないことだろう。育実くんはもうとっくに色んな事を乗り越えていたのに、私がこんな具合なもんだから家に居辛かったなんて。
やっぱり私は――
「居てね」
「! え」
育実くんの一言に、思わず驚きの声を上げると、育実くんは私の右手を先ほどよりも強く握りしめた。
「俺がそんなことしてたのも、今日子に居てほしかったから。居ないほうが良い人間とか、思わないで。あの家で、俺の居場所は今日子だから」
「育実くん」
「きょうだい、やろうよ。偽者だとか、傷の舐めあいだとか、もうどうだっていいから。俺は、今日子だから形から入るのもいいと思った。初めて見たとき、直感でそう思えた」
「…………」
うん、とも、嫌、とも、言えなくて、ただ無言で家路を歩いた。
ああ、やだなあ、どうしよう。これはもうかなり決定打だよね。育実くんが、好きだ。家族としてではなく、きょうだいとしてではなく。
――ひとりの男のひと、と、して。
「今日子! どこに行ってたの!?」
「お母さん……帰ってたの」
家の通りに入る角を曲がった所で走り寄って来たのは、お母さんだった。どうやら家の前で待っていたらしい。後ろには林さん。表情は暗くてよくわからない。あ、険しい。近付いたら険しい表情していらっしゃる。何々、ちょっと怖い。
「きょうちゃん。お願い、いなくならないで」
「お母さん……?」
ゆっくりと抱きしめられたその腕が、震えている。どうしてなのかわからずに、私は困惑した。「今日子ちゃん。もしも不満があるのならば、なんでもいいから、言葉にして、伝えてほしいんだ」
林さんの言葉に少しぎくりとして、私は視線をさまよわせる。私の横に立つ育実くんは、私と林さんを交互に見て、やがて私をまっすぐとみつめると、小さく頷いた。
「……育実ばかり、今日子ちゃんをわかっているようでとても悔しいよ。私も、美佳子も、親失格だ」
「え、いや……あの」
どうしよう。本当に伝えていいのかな。ちらりと育実くんを見ると、励ますように頭をぽんぽん、と二回叩いてくれた。ここまで整った舞台ならば、踊らねばならない、ということか。うう……緊張する。
「駄目なのは、私じゃないんですか……?」
なんとか振り絞って言葉にすると、林さんは驚いたように目を見開いた。え、なんですかその表情。
「今日子、今までそんな風に思ってたの……?」
それはお母さんも同じ。少し身体を離して私をみつめる瞳は潤んでいた。なんだか、とても悪い事をしているみたい。だけど、伝えなくては始まらないようだから。
「……お父さんが家を出た日、お母さん言ったよね。なんだこんな簡単な事だったのね、って。私、思ったの。今まで暮らして来た日々は、そんな言葉で終わらせてしまえるほどの価値しかなかったんだって。ほんの少しのすれ違いでお父さんとお母さんが離婚したなら、私が今みたいな家事を完璧にこなす私じゃなくなったら、きっと私も捨てられるんだろうって思った」
「それは……!」
私の言葉に、反論しようとしたお母さんは、しかしどうしたというのか、唇を噛んで俯いてしまった。何かを呑み込んだのだと、すぐにわかった。
「美佳子さん。今日子はもう、嘘で繕える年齢じゃない。今は、本当のことを知っても傷つかない」
本当のこと? 私が問うような視線でお母さんを見ると、口を噤んでいた母はやがて重いため息を吐いた。
「……すれ違って、相手の存在がどんどん小さくなっていったのは本当よ。でも……修復出来なかったのはね、お互いがそれを望んでいなかったからなの。出来なかったのではなく、しなかった、が正しいのかな」
遠い目をした母を見て、私のもしかしては確信となった。
「やっぱり、お父さんもお母さんも、あの時、他に好きな人がすでにいたんだ」
「! どうして」
「お母さんの反応、いくらなんでも変だなって、当時のことを思い出して感じたの。理由にしても、そういう事はなくはないと思うんだけど、それにしたって具体的なきっかけとかずいぶん曖昧にぼかして話すし、お父さんと別れて気落ちするどころかどんどん元気になっていくのを見て、あの頃の私は荷物を捨てて軽くなったんだって思っていたけど、そうじゃなかったんだね」
「当たり前でしょう! 別れたあの人にしたって、お互いが嫌いになったわけではないし、まだ大切だと思う感情だってあるのよ。あの時は、そうね。色々な体裁だとか、子どもの為だとか詭弁を言って平気な顔しながら共同生活している自分自身が嫌で仕方なかったの。彼もそうだったと思うわ。だからね、離婚するまでの生活が簡単だなんて意味では決してなかったのよ。あれは、お互いが頭でっかちになって、本当に大切なものを大切にすればいいっていう簡単なことを忘れていたから、そう言ったのよ」
「本当に、大切なもの?」
「今日子に決まってるでしょう」
「! お母さん」
「どんどん家の空気が重くなって、全然寛げる空間じゃなくなって、それでも最後まで離婚は出来なかった。あなたに片親だからっていらない苦労をさせたくなかった。しかも、ふたりとも他所に好いた相手が出来たなんて、そんな自分勝手な理由だもの」
「自分勝手なんかじゃないよ! 少なくとも当時は、反発したかもしれないけど……今は、そう思う」
「ありがとう。……でもね、結局離婚を選んだのは、今日子のおかげなの。出張だってお父さんが家を出た事があったでしょう? あれね、しばらく別々で暮らしてみたら何か変わるかもしれないってふたりで話し合って決めた事だったのよ」
「そうだったんだ」
「今日子は寂しいんじゃないかって思ったら、あなた、すごくたくさん笑うようになったの。もちろん、お父さんと会えないのを寂しがってもいたけれど、ああ、最近ずっと無理させていたんだなって、改めて感じた。わが子の笑顔さえ奪って、一緒にいる意味ってなんだろうって、ね」
「そうだったんだ……てっきり、もっとあっさり決めちゃったんだと思ってた」
「そんなわけないでしょう。家族の形が決まる瀬戸際だもの。そうそう簡単に決断出来るものでもないわよ。……でも、理由を話したら今日子が傷付くんじゃないかって思ったの。幸治さんとは、いつか家族になりたいって気持ちが当時からあったし、かといってすぐそのまま新しいお父さんです、なんてわけにはいかないでしょう」
苦笑するお母さんに、確かにそうだな、と思う。ていうか、そんな昔からってことは、ずいぶんと前からふたりの関係は続いていて、もしかしなくても私のせいでふたりは一緒になれなかったのだと思うと、それはそれで複雑だ。私は、林さんが母を大切にしていることはとうにわかっているし、私のこともある程度尊重してくれていることもわかっている。こんないいひとを、母としばらく引き離してしまったことに、新しい罪悪感が芽生えた。
「……でも、本当の本当はね、怖かったの」
「え?」
「きょうちゃんに、軽蔑されるのが。お母さん、きょうちゃん大好きだから。嫌われたら生きていけないから。だから、嘘を吐いたの。ごめんね、汚い母親で」
「お母さん……」
目を丸くしてまじまじと母を見る。
軽蔑、かあ。どうなのかな。当時の私はあるいは、反発したのかもしれないけれど。……ううん、今の自分が考えたって、わからないな。あの頃より少しは自分も成長したってことなのか。
「結果、今日子をこんなに追い詰めて、最低の母親よね」
「ううん。私がもっと素直に色々伝えていればよかった。お母さんの私に対する気持ちを疑って、ごめんなさい」
「きょうちゃん……きょうちゃん!」
また抱きしめられて、お母さんは子どものように泣き出した。そのうち私も涙を流して、私たちはお互いにごめんねごめんねと泣きながら叫んでいた。
やがて林さんが家の中へ入ろうと微笑んで、母をそっと私から引き離す。泣くと体温が下がるから温かい飲み物をいれようね、とまっすぐに私を見て微笑むので、私は頷きながら、育実くんと並んで家へと歩き出す。玄関を照らす灯かりに、安心を覚えた。
お母さん。
私は、前を歩く母へと呼びかける。玄関の扉を開ける林さんと母は、同時にこちらへと顔を向けた。
「これからは和食中心のごはんにしてもいい?」
「美味しそう」
私の問いに微笑んだ母の顔を見て、私の中にある塊が完全に氷解していくのがわかった。私は嬉しさから、思わず育実くんへ顔を向ける。育実くんは、微笑んで頷くと、そっと私の背中に手を添えてくれた。うながされ、再び歩き出す。
そういえばあとちょっとで六月になる。さすがに上着はいらなくなってくるかな。新しい家族を得て、初めて季節が変わろうとしている。桜はすっかり緑になって、その葉もやがてなくなっていくんだ。そうやって消えていく景色と、芽吹く景色を、育実くんと並んでこれからも見ていくのだろうかと思うと、どうしたって私の心は弾んでしまった。