第六話
帰宅すると、けっこう大変だった。お母さんは泣いてるし、林さんは険しい表情。どうして黙って出て行ったんだとか、何か不満があるならなんでもいいから言ってほしいとか。私は、ただコンビニに必要なものを買いに行っただけだって伝えたけれど、ふたりともそれを鵜呑みにしたりはしない。しばらく問答は続いたけれど、疲れたと一言漏らせば慌てて部屋のベッドに寝かされた。熱はないのか、どこか苦しくないか、喉は渇いていないか、とベッドの横でちょろちょろするふたりは実に鬱陶しく、私は半ば強引にふたりを部屋から追い出した。ふたりに続こうとした育実くんだけ呼び止める。
名前を呼べば、ゆっくりと振り向いてくれる。彼の、物静かなところがひどく落ち着くと今、気が付いた。楽しいときも、哀しいときも、彼が隣に居ると、邪魔にならない。とても自然で、それはとても貴重なことなのだと私は知っている。
「……枕元に、ペットボトル置いてくれたの育実くんだよね」
無言で頷く育実くん。頷きながら、出ていこうとしていた身体を戻し、扉を閉める。ベッドのすぐ傍にあるキャスター付きの椅子へ腰掛けて、私の顔をじっと覗きこんできた。
彼の瞳は、不思議だ。なんだか吸い込まれそうになる。
「……育実くんは、なぜ私を家族だと思ってくれるの」
ずっと、疑問だった思いを、伝えた。風邪を引いて馬鹿なことを口走ったと言い訳も出来る今だから。……自分でも卑怯だと思いますよ、ええ。
しばらくじっと彼の瞳を私も見ていたけれど、少し恥ずかしくなって、やがて視線を逸らした。育実くんは、まだこちらを見ているようだ。視界の端に、こちらを向く彼が見える。
「俺たちは、足りない」
足りない? って、何が? 訊こうと思ったけれど、なんとなくそれは憚られた。ものすごく野暮な気もしたし、自分自身の頭で理解しなければいけない気もしたから。
「今日子に会って、それが埋まった」
そう、育実くんが言った瞬間。私は目を瞠る。
喜色満面。まさしくそんな感じの笑顔だ。今までも笑う育実くんと何度か遭遇していたけれど、今回いちばん破壊力がすごい。
どうしよう、顔赤くなってないかな。あ、熱がまたぶり返したって言えばいいのか。風邪って便利だな。
「それは……あの、家族が揃ったってことなの?」
「? 元々、揃ってはいた。いなくなってしまっただけで、ないわけではないから」
ああ、お母さんていう存在そのものが無であったわけではないから、彼にとって父ひとり子ひとりの状態は何かが欠けている状態ではなかった、ということね。なるほど。
そうか。でも、私もそうかな。寂しいって感情と、足りないって感情は、何か微妙に違う気がすうる。わかんないけど。感覚的なものかな。
「今日子を見ていると、俺はどうしようもない」
「え?」
首を傾げつつもう少し詳しい内容を求めれば、無表情のままじっとこちらを見つめる育実くんと視線が合う。
「放っておけない」
って、育実くんが私をってことだよね。
「……それはまたどうして」
「…………愛おしいと」
呟かれた言葉は、途中で切られたけれど、まだ育実くんは口を閉じていない。声を発しようとしているけれど、出ないようだ。と、冷静に解説していますが。
ちょっと私、今、多分だけど顔が尋常じゃないほど赤いのではないか。なんですかねその、あの、ちょっと、どういう意味それ。その言葉にかかる人物ってえのはひょっとしなくても私ですか? え? 私って言ってしまうつもりですか?
ぐう、と胸が締めつけられる感覚の後に、ぐぐぐ、と温かいものが上へせりあがってくる。今はかゆい。なんか表面じゃなくて体内がむずむずしている。なんですかこれ。
「今日子が、他人に甘えられない性格で、それなのにそんなに強くない性格で、そういうの、が」
ん? パニック直前までいってたら気付けば育実くんが続きを話してくれている。え、なんかいつになく頑張って言葉にしてくれてる。
「そんなところが、その、さっきの、言ったやつ」
「…………真っ赤」
「っ、――うつっただけ」
「……それは、私の風邪がってこと?」
ちょっと楽しくてからかうような声になったのは自覚していた。しかしますます赤くなった育実くんは突如勢い良く立ち上がると、慌てた様子で部屋を出て行ってしまった。扉も彼らしくない乱暴な閉め方だった。
――耳まで赤かった。
「……って、ちょっと待って」
さっきのは結局どういう意味なの。愛おしいってなに、待って、どういう意味なの。
まさか、まさか? いやいやいや、それはないでしょ、そんなわけないよ。いやでももしかして本当にそういう意味だったりして? いやいやいやいや。家族愛って可能性が大だって。そもそもが本当にそういう意味だったらどうすんのさ。いい年頃の男女がひとつ屋根の下ですよ、あなた。
「……っ、あんなシャイボーイがいかがわしいことするかって」
口にしてしまうと、自意識過剰さがひどくて、私はどうにもいたたまれなかった。
その日の夜、私は再度発熱してしまったのだけれど、確実に知恵熱だったと思う。お母さんと林さんが心配しきりで大変だった。
「なんかそろそろ容量不足になりそう」
机に頬杖をつきながら、ぽつんと呟いた言葉は、誰に言うでもなくただ教室を漂って流れた。
土日は風邪で何も出来なかった私の代わりに、大体の家事を育実くんがこなしてくれた。それはとてもありがたかったけれど、同時に沸く感情。そろそろ、向き合うべきなんだけど、私自身がそれを拒否している。
放課後になって、教室から生徒が段々と減っていく。普段ならば真っ先に私もその群れに加わるのだけれど、どうにもこの席を立とうと思えない。家に帰りたくないのかもしれないし、育実くんに会うのが気まずいのかもしれない。
「やっと少し弱音を吐いたわね」
「堀、いたの?」
けっこう早くに教室を出て行った気がしたけど。目を丸くして言えば、堀は呆れたようにひとつため息を吐いた。
「ちょっと飲み物買ってくるけど帰るんじゃないわよって声かけたはずだけど」
じろり、と睨まれながら、堀が私の目の前に差し出した紙コップ。お礼を言って受け取り一口飲むと、中身はカフェオレだった。丸みのある味が今はありがたい。気持ちが落ち着く。
「あんた、性格的に誰かにあまり相談しないタイプだとは思ったし、あまりお節介焼くのも好きではないのよね」
堀はペットボトルのアップルティーを飲みながら、またひとつ息を吐く。
「ふうん? じゃあ今日のこれはどういう意図で?」
私が質問すると、先ほどと同じように彼女の瞳が鋭く光った。なんだ、怖いな。
「好奇心ね。家族間のシリアスな話だったらとてもじゃないけど私は訊けない。自分自身がそうでかい器を持ってるとも思えないから」
「……家族間のことで悩んでるつもりなんだけど」
「あらそう? じゃあ一杯奢った礼にかこつけて根掘り葉掘り訊こうと思っていた私の目論見は外れたかしら」
なにか、にやにやしながら言う堀がものすごく憎たらしく見えてきた。なにかなそのすべて存じ上げておりますよみたいな表情は。
「今日子」
名前を呼ばれて、ぎくりとする。真っ直ぐな瞳は、嘘をつけばどうなるかわかっているのだろうな、と言っているように思える。とんとん、と指先で机を叩く仕草が妙に迫力があり、尋問でも受けている気分だ。
まだ具体的に何も訊かれていないけど。
「新しい『お兄ちゃん』と、何か色っぽいことでもあったんじゃないの?」
ごふっ。
なんともべたにカフェオレを逆流させてしまった。堀め、タイミングはかって質問したな? ってもう呑気に考えてる場合じゃない、むせてます、今私ものすごくげっほげっほ言ってます。
汚いわねって呟きながらボックスティッシュ丸ごと渡された。なんで持ってるのボックス。しかしありがたいので使わせていただきました。
「……っ、なんで」
「なんで知ってるの? なんてこと訊かないでよ。あんたの態度そばで見てればそんなもん誰でも気付くから。普段はわりとポーカーフェイスっていうか、動揺しない性格のくせに、目に見えてうろたえてたらなんかあるって思うじゃない」
「そ、そんなに?」
「それはもう。でも、ものすごく深刻な顔をしているというより、困ってる感じだったから。新しい家族が悪い人間だったというよりも何か不測の事態が起こったと考えてかまをかけたわけ」
「! ってことは、確信なかったんじゃないの」
「まあ、ほぼそうだろうとは思ってたからいいじゃない」
そ、そういう問題? 脱力して恨みがましく堀を見ると、まあいいじゃないの、と楽しそうに笑っている。……くそう。
「でも、引き止めておいてなんだけど、あんた家事とか大丈夫なの?」
「ああ……母も林さんもここしばらくほとんど定時で帰ってたら仕事が溜まったから今週は遅くなるって言ってたんだ。だから急いで帰らなくても大丈夫。それに――」
「? なによ」
言葉を濁した私を訝り、続きをうながす堀に、私は曖昧に微笑んで首を振る。堀は少し不思議そうな顔をしたけれど、追及はしないでくれた。
「で? 育実くんと何があったのよ。告白でもされた?」
「そ、そっちはずいぶん躊躇ないね」
「当然よ、面白半分につっこんでいい話題かそうじゃないかの見極めくらいは出来る年齢だもの」
え、他人の色恋沙汰ってそんなライトにつっこんでいい感じだっけ。……うんまあ、そうか。
「ううーん……あの、その、ね」
一昨日言われたことを相談するのもいいかもしれないと思い、口を開こうとしたけれど。
改めて自分で言葉にするとか無理! もんのすごく恥ずかしい! 羞恥心の海を泳ぎそうなほどにっ!
しかし、そこは堀大先生である。力の限り私の頭部をすぱんとはたくと、言え、と短く一言いただきました。痛い。
「……い」
「い?」
「愛おしい、と、育実くんに、言われました……」
ぎゃああああ恥ずかしい! なんて恥ずかしい! もういたたまれない! どうしたらいいかわからない!
走り出しそうな私を冷ややかに一瞥し、堀は頬杖をつきながら、ふうん、と呟く。なんなのだろうこのクールビューティー。いっそ殺意も芽生えかねない。馬鹿みたいじゃないの私。ああ、実際問題馬鹿なのかな? この場合。育実くんにもてあそばれ、ているわけではないだろうけどね。そういう性格ではないよね、彼。
「それが、どういう意味合いなのか悩んでるってところ?」
「! う、ん。まあ、そうかな」
「本人に訊けばいいじゃない」
「出来るわけないでしょ、こっぱずかしい」
「恥ずかしいからってのが理由じゃないでしょ」
探るような堀の瞳に、私はどきりとして肩を揺らした。先ほど濁した言葉の先を、ひょっとしたら掘は知っているのかもしれない。その上で、しらんぷりしてくれたのだろうか。
「もしも家族愛ではない理由だとしたらあんたは困るかもしれないわね。でも、家族愛であったとしても、あんたにとったら困るんじゃないの? むしろ、家族愛じゃない方が良かったのかしら? そうすれば、そんな単純な動機で優しくしてくれていた相手なんだって安心できる」
「堀!!」
半ば悲鳴のように叫んだ。とてもじゃないけれど、彼女の言葉を私は聞いていられなくて。今、いちばん触れられたくない部分に侵入されて、私は恐らく顔を青褪めていたと思う。私を見た堀が、はっとしたように口を噤んだから。
「……ごめん、ちょっと踏み込みすぎたわね」
「…………」
謝られる理由もないから、私は無言で首を振る。
「ねえ、今日子。覚えておいてほしいことがあるの」
「?」
「私は、あんたの逃げ場所になる覚悟が出来てるわ。嫌味ったらしく聞こえるけど我が家はそこそこ裕福で、しばらくなら厄介者扱いもしないでいてあげられるから」
「! 堀……」
「どうしてもどうしようもなくなったら、恥も外聞も捨てなさい。常識的に迷惑を被る行為だとわかっててもよ。誰かに頼るのは罪じゃない。それよりも追い詰められて最悪な選択を勝手にされるほうがよっぽど周りに迷惑よ」
「……わかった。ありがとう」
微笑んで、お礼を言った瞬間。
少しだけ心が軽くなったと同時に、重いものが落とされた。向き合わなくてはいけない自分の弱い部分を探り当てられて、それと対峙して砕けても、拾ってくれるとまで言われた。なら、ずっと知らないふりは出来ないんだ。
私は、憎い。
心の底から、私は林育実の事が、憎くて憎くてたまらなかった。