第五話
ううん? なんだろう、なんだか痛い。腕? じゃないな、もっと局地的というか……あ、手か、手が痛いんだ。なんか圧迫されてる。なんだろう。
「んんー……?」
「――今日子? 今日子!」
短く呻き声みたいなものを上げた私に、誰かが叫ぶ。きょうこってなんだっけ。
あ、私の名前。
認識したとたん、ぱち、と瞳が開いた。急速に私の意識が浮上したのだ。
「――育実くん?」
「……か」
ん? なんか今言ったみたいだけど、聞こえない。わからなくてまだぼんやりした頭を抱えながら彼を見つめれば、どうやら苛立っているらしい事がわかった。珍しく、無表情ではなく眉間に思い切り皺を寄せている。
「馬鹿!」
ええっ!? いきなり寝起きに馬鹿って言われた!
驚きで目を瞠りながらかたまっていると、育実くんはますます眉間に皺を刻みながら、私を睨み付ける。こ、怖い。
「そんなに頑張らなくていいって言った!」
え? あ、ああ。引越しの日のことか。まあ、確かに言った、なあ。
「今日子、なぜ買い物に行ったの?」
「え?」
「父さんが、車を出す」
「ああ……うん、だって別にわざわざ休日にそんな事をしてもらわなくても、今日済ませてしまえばいい話で」
「倒れた」
「え?」
「今日子が、倒れた!」
なんだろうその、クラ(一部省略)が立った! みたいな響き。ん? 倒れた?
「晩ごはん!」
ひょっとしてひょっとしなくても、育実くんがここに居るという事は、もうけっこうな時間。まだ晩ごはんの支度は済んでない! その事実に慌てて、私は上半身を起こした、瞬間。
うっ。
「馬鹿!」
ま、また馬鹿と言われた。こんなに言われると、馬鹿が私の中でゲシュタルト崩壊しますよ、いいんですか。じゃなくて。馬鹿な事を考えている場合じゃない……って自分で言ってるし。
――育実くん。ものすごいこちらを睨んでいらっしゃる。
「まだふたりは帰っていない。俺も料理は出来る」
「でも、それじゃ」
「今日子」
名前を呼ばれたその響きは、まるで幼子に何かを言い聞かせる大人のようで。私はそれ以上口を開けなくなってしまう。
「今日子が無理して晩ごはんを作るのは、嬉しくない。こんな風に倒れられたら、ただ、哀しい」
――だから、おとなしく寝ていなさい。
きしり、とマットが沈んだ音がして、その後耳元で囁かれた言葉。私の脳に直接響くかのように浸透した、彼そのもののように真摯な言葉。
嬉しい。育実くんの優しい声音が嬉しい。でも、なぜ? なぜ、そんなにしてくれるの。私たちはまだ出会って間もない。本当の家族になんて、とうていなれていない。私にとって育実くんが他人としか認識出来ないように、彼だって同じなはずなのに。理由がわからずに、その優しさが怖くて、そしてとても不安だった。
それに、ここで私が倒れたら。
こんなに温かく介抱してくれる育実くんを疑うように最後まで抵抗していたけれど、とうとう私の意識は再び沈んでいった。目を閉じる直前、額に感じた冷たさはなんだったのだろう。それが気持ちよくて、抵抗むなしく眠りに落ちてしまった。
「……熱、高いな」
私は気付かなかった。その心地よいものが育実くんの手であったことも、私を心配する声も。
「…………ばか今日子」
苦しそうに、私を呼んだ、育実くんの声も。なんにも、気付かなかった。
うん、私は馬鹿だよね。もっと早く、あなたの声をきちんと心に届けていればよかった。そうすれば、後々に起こるいざこざも、回避できたかもしれないのに。
ああ、でも。
――それがあったからこそ、私たちは家族になっていけたのかもしれないと、今よりも大人になった私は、思うよ。
あれ、でも。育実くんは、家族を望んでいたのかな。今の私がそれを訊いたら、なんて返ってくるのかな。……やぶへびかな。なんてね。
「きょうちゃあん! 今日子!」
「大きい声を上げたら、起きる」
「美佳子、心配なのはわかるけど、医者にもきちんと見せたから大丈夫だよ。ただの風邪だと言っていたし、疲れも出たんだろう。ゆっくり寝かせていてあげよう」
なんか、妙に騒がしい。なんだ?
「んん……」
強制的に浮上する意識の不快感で眉根が寄る。まだ起きたくないような、もう起きてもいいような。さざ波のように夢現をいったりきたりしていると、耳元で名前を呼ばれた。この声……お母さん?
「……おか、さ」
「! きょうちゃん」
どうしてだろう、かすれた声が出た。寝起きにしてもちょっと酷い。ああ、そうか、喉が痛いから声が出ないんだ。……でもなんで喉痛いんだっけ?
「家に帰ったら、いっちゃんがきょうちゃんが倒れたって言うからびっくりしたのよ! 良かったわ、いっちゃんが昔からお世話になってるお医者さまを呼んでくれて」
「……おいしゃさま?」
どうして? なんで医者なんか。誰か具合が悪いの? 疑問符の浮かぶ顔で三人の顔を見ると、大きなため息が部屋全体を包んだ。林さんだ。
「今日子ちゃん。君は今日、倒れたんだよ、リビングで。憶えていないかい?」
「……」
倒れた? ぼんやりとした頭が、段々とクリアになっていく。そういえば、私……
「晩ごはん!」
そうだ! 晩ごはんの途中でなんか眠くなって寝ちゃったんだ! 倒れたんじゃない。ただうとうとしちゃっただけだ。そう思って起き上がろうとするのに、なぜか育実くんがそれを阻んだ。上体を押さえつけて、私が身動ぎ出来ないようにしてしまう。
育実くん、と私が名前を呼ぶと、彼の私を拘束する力が増した。
「……今日子は、倒れた」
ものすごく睨まれながら言われた。……あれ? どこかでこの会話をしたような。
「うたた寝なんかじゃない。雨に打たれて、高熱を出して、倒れた」
「家に着く直前に降ってきたからって、帰ってからもろくに身体を温めもしなかったんですって? いっちゃんが、倒れる前にきょうちゃんがそう話したって言ってたわよ」
育実くんが私を押さえつけていた両手をどけて後ろに下がる。お母さんがベッドに縋るようにして私の顔を覗きこんだ。
――どうして。
「……その、タオルで拭いたりはしたんだけど」
「もう! お風呂に入らないと駄目じゃない! 夏でも冬でも濡れたら身体は冷えるのよ!」
ごめんなさい、と呟いたら、お母さんと林さんが困ったように微笑んだ。
「それじゃあ、もう少し寝てなさい。まだ熱も下がってないわ」
「家事はお休みだよ、今日子ちゃん。いいね?」
ふたりに畳み掛けるように言われて、仕方なく頷いた。そんな私を確認したからか、安心したように頷き返したお母さんと林さんが、部屋を出て行く。
「――育実くん」
ふたりに続いて部屋を出ようとする彼を呼び止めた。育実くんは無言で振り向くと、じっと私をみつめる。
「あの、ありがとう」
ベッドに運んでくれて。お医者さまを連れて来てくれて。
――本当の事を黙っていてくれて。
「……おやすみ」
色々な意味を含めたお礼の言葉に、育実くんはゆっくりと微笑んで、蕩けるような優しい声で囁いた。
ぱちん、という電気を消すスイッチ音と同時に、私はふわふわとした心地でまた意識を沈ませる。
段々と近付く距離に、戸惑っているのか、喜んでいるのか、よくわからないままに。
目覚めると、もう窓の外から明かりが差し込む時刻になっていた。正確な時間はわからないまま、私はゆっくりと上体を起こす。
「…………」
ゆっくりと喉元に手をあててみる。痛みはずいぶんなくなった。夜中に一度枕元にあった水を飲んだらすごく沁みた。今もう一度手を伸ばして恐る恐る飲んでみたけれど、やはりそこまでの痛みはない。倦怠感はあるものの、熱もずいぶんと下がったみたいだ。
ベッドから出て、一階の様子を見ようとリビングへ足を向ける。扉を開いた瞬間に飛び込んで来た光景に、思わず固まった。
お母さんと、林さんが、ダイニングテーブルに隣同士で並び、椅子に腰掛けている。リビングにはコーヒーの香りが漂い、明るい陽が部屋全体を包み込んでいた。
「ああ、ありがとう、育実」
「いっちゃんもお料理上手で嬉しいわー」
キッチンから出てきたのは、育実くん。まずはコーヒーを注いだマグカップを差し出すと、次には朝食のようなものを運んでくる。
気付けば私は、慌ててリビングの扉を閉めて、ガラスの扉越しに笑っているふたりと、無表情ながら楽しそうにしている育実くんの様子を窺っていた。
――なにやってんの、私。
堂々と、入ればいいのに。あの食卓に、私も加わればいい。そうして、一緒に笑えばいいじゃないか。
そう考える頭とは別に、身体はゆっくりと音を立てないように階段を上る。自室に着いたら部屋着を脱ぎ捨て、簡単なしかし外出してもおかしくはない服を選んだ。
財布をポケットに入れて、再度階段を下りた。
コンビニに、欲しいものを買いに行こう。あんなに楽しそうなのに、邪魔をしたら悪いもの。そう理性では考えて、けれど妙に寒々しく私の内に響いた。自分でもわかる。何かに言い訳をしているって。肝心な理由は、私自身にもわからない。変なの、私の事なのに。
玄関を出て歩き出す。明るい光に少し安心して、息を吐いた。
スポーツドリンクみたいなものって、あの家にあるのかな。育実くんはお医者さまを呼んでくれたくらいだし、あれこれ買っておいてくれたかもしれない。
「でも、ないかもしれないし、ね」
呟いた独り言の寂しさに、少し歩調を速めた。
家から歩いて数分の場所に位置するコンビニの中をうろうろする。のど飴も欲しい。お腹はへったような、へらないような。……ゼリーとかなら食べられるかな。定番の桃缶も好きだし。
そこそこの品数をカゴに放り、会計を済ませる。用事もなくなって、店を出たはいいが、足取りはどうにも重い。
「…………帰りたくない」
――え?
口をついて出た言葉は、間違いなく本音らしい。しかし私には、理由がわからない。それに。
本音だとしたって、私にはあの家以外に帰る場所はない。あの、粘土細工のような、おままごとみたいな場所にしか、今の私には拠りどころがないのだ。そう考え至った時に、ぞっとした。
そう、か。私は――嫌なんだやっぱり。
お利口さんのふりをして、再婚を承諾した。育実くんが男の子だとわかった時も、何も言わずに暮らし始めた。けれど心の中じゃ納得なんて微塵もしていなかったのだ。自分でも、少しは渋っているのは自覚していたし、乗り気じゃない事もわかっていた。けれどもここまで新しい家族を拒否しているなんて知らなかった。無意識下で押し殺していたものが、思ったよりもたくさんあったんだって、知らなかった。
「……ガキくさ」
細腕一本で育ててくれた母の新しい幸せも祝福出来ず、嫌だ嫌だと拗ねて。表面上繕っているだけだとしたって、新しい家族は私を心配してくれた。じゅうぶん良い人達なのに。歓迎するに値する人達なのに。
ああ、嫌だ。こんな自分は嫌だ。何をやってるんだろう。そもそも何がそんなに嫌なのかもよくわからない。お母さんを取られてしまうとでも思ったのだろうか。ひとりきりだったから、急にいつでも感じる人間の気配に緊張してストレスを感じているのだろうか。けれどどんなに考えても、それらが一因であるだろうと感じたけれど、原因だとは思えなかった。
「今日子!」
「!? え」
コンビニの前で佇み難しい顔をしていると、急に大声で名前を呼ばれた。それだけでもびっくりしたのに、私は思わず持っていた荷物を落としてしまった。
「い、くみ、くん……?」
私を抱きしめるその腕の力強さに、ただただ戸惑った。
――ていうか、痛い。そんなにぎゅうぎゅう力込められると、苦しい。……ん?
育実くん、震えてる……?
「あ、あの、育実くん」
「……ばか今日子」
腕の力は相変わらず強すぎるままに、耳元で呟かれた言葉に私は少し苛立ちを覚えた。
昨日の記憶は起きてからは、はっきりしている。またもゲシュタルト崩壊せん勢いで人を馬鹿馬鹿と!
「……っ、出会い頭に何を」
「消えちゃったかと、思った」
――母さんみたいに。
強くなるばかりの両腕。しかしそれとは裏腹に、か細く、今にも消え入りそうな声。
「……育実くん、ただの風邪だよ」
「ふらふらだった。そんな状態で表を歩いたら、危ない」
「いや、うん、まあその、ごめんなさい」
弱まった腕から抜け出して、一歩引いた私は、育実くんに頭を下げた。
そうか、そうだった。私たちは、似ているのだ。突然の消失がどれだけ恐怖であるか、知っているのだから。
こんなくだらない感傷で、彼を暗闇に突き落としてしまった。それは、私の本意じゃない。育実くんをどこか苦手だと思っている。きっと、彼を無意識に遠ざけたい私がいる。けれど。
今目の前で不安そうにこちらをみつめる彼を、放っておくなんて出来ない。
「……帰ろう」
気付いたら、呟いていた言葉。私は、左手で荷物を拾い、自身の右手を彼に差し出していた。
一瞬驚いたように目を丸くした育実くんは、次には私の左手から荷物を奪うと、差し出した右手を彼の大きな手で握りしめた。
「今日子、いっしょに、帰ろう」
微笑む育実くんに頷いて、ふたり並んでゆっくりと歩き出す。
繋いだ彼の手はとても冷たいのに、身体の真ん中からじわじわと温まっていくようだった。