第四話
「育実くん、はいこれお弁当」
手渡したそれを、育実くんが無言で受け取る。
家族が増えた分、負担が大きくなると思った家事は、意外な事に昔より楽な仕事になっていた。私たちが同居に至るまで、林家では時折家事代行サービスを頼みながら、親子ふたりでなんとかやってきたらしい。男の子だけど、育実くんもある程度のことは出来るようで、包丁さばきも危なげない。ひょっとしたら、私よりもあれこれ上手にやってのけるかもしれなくて、どこか複雑だった。
私が作った朝食を、育実くんが前の家よりもずっと広いリビングへ運んでくれる。キッチンは対面型だし、冷蔵庫もテレビもずっと大きいし、ダイニングテーブルとは別に四人は座れるソファが置かれていて、なんだか四人がぴったりおさまっちゃうこの家は粘土細工のようにもろい私たちを少しずつかためてくれているようで、落ち着かない。いいことなのだろうけど、どこか違和感と、むずがゆさがある。戸惑いと、気恥ずかしさ、なのかな。
「今日はアルバイトの日だっけ? 夕飯何時に用意しようか?」
なんとなく持て余した感情が嫌で、私は育実くんにコーヒーを注ぎながら訊ねる。こんな風に朝支度しながら誰かと会話するのも、不思議な感じだ。
「俺の分は冷蔵庫に入れておいてくれればじゅうぶん」
あ、ちょっと笑った。普段笑わないから、ふとした瞬間の表情が目立つ。育実くんて本当に優しいなあ。最初はとっつきにくい人なのかなと思ったんだけど、全然違ったみたいで、緊張感も徐々に薄れつつある。それでも、女の子じゃなかったっていう事実にがっかりしている私はまだ健在だけれども。
「今日子」
不思議なもので。そんな私の感情を知ってか知らずか、育実くんはひょっこりと男の顔を見せる時がある。
「さっきこの大皿取ろうとしてたでしょう? そういう時は俺を使えばいい」
「あ、ありがとう……でも夜に使おうと思ってたから、帰って来て台に乗って取ればいいかと思って……」
キッチンの上部分に収納してあるそれをいとも簡単に取っては私を見つめる育実くんは、なんだか男で良かったでしょう、と言っているみたいに思える。
……さすがに気のせいかな。
少し会話に困りながら曖昧にへらへらしていると、リビングの扉を開く音が耳に届いた。
「おはようー。おお、今日も美味しそうだねえ」
「きょうちゃんの朝食が美味しくないはずないじゃない」
にこにこしながら入ってきた林さんに、少し遅れてお母さんも続く。一気に賑やかな食卓となるこの瞬間が、いちばん違和感だ。私はまだ記憶にだってあるし、経験していないわけじゃないんだけど、お母さんとの二人暮らしにもずいぶん慣れていたし、自我というか、自分の意識がはっきりしてからの記憶はいつもお母さんと二人だったからなあ。いつか慣れるのかな、なんてぼんやり考えてると、向かいに座った育実くんと視線が合う。
大丈夫だよ、と伝えるように、彼は少しだけ目を細めていた。
「で、どうなの? 新生活は」
昼休み、先生たちが車を停める駐車場の隅でごはんを食べながら、堀の言葉に一応の相槌を打つが、心の中はわりかし落ち着かない。暖かくなってきたから、最近はもっぱら外だ。ここは案外穴場で、いつも閉め切られてる校舎から外に出られるドアを開くと三段だけの階段があって、そこに座ればベンチの役割になる。屋根もあるから、日差しもあたり過ぎなくていい。鍵は閉まってるから、きちんと開放されてる出入り口から出て回ってこないといけないからちょっと面倒なのだが、だからこそ穴場なのである。車とにらめっこしながらごはんを食べるので、景色は良くないけどね。
来るだろうなと思っていた堀の言葉に、私はどうしたものか、と考える。育実くんとは高校は別々だし、よしんばいっしょだったとしても苗字はそのまま別々だから自分から話さなければ何かの拍子に漏れる事もないだろうけれど、とにかく今の状態ならば彼女に嘘をつき通すのはそう難しいことではない。しかし、変な話、彼女に嘘をつくメリットも、真実を話すデメリットも特にないのだ。だから隠さずとも良いのだけれど、なんだか実は男の子だったんだよ、とは言い辛かった。
「……まあ、ぼちぼちやってますわ」
気付けば口を衝いて出た言葉に、あれ、と思いながらも私は特に訂正しようともしない。
「そう? 気は合いそうなの?」
「うん……どうかな。無口だけど、優しいのはわかるし。家事も少し楽になったし、今のところ問題ないかな」
お弁当のサンドイッチを頬張りながら、堀はそう、と呟いたきりその話題に触れる事はなかった。
放課後になって、そういえば買い物をしなくてはそろそろ食材がなくなるという会話を朝していたと思い出した。お母さんと二人暮らしの時にはなかった車という文明の利器が林家には装備されており、林さんが土曜日にでも買い物に行こうと言ってくれたのだけれど、たまの休みをそういう時間に使わせるのはどうも申し訳ないし、新婚なのだしせっかくならばお母さんとドライブとかそういう、有意義な時間を過ごす道具にしてほしいな、なんてことも思う。金曜日だから明日は私も学校がお休みだし、林さんもお母さんも週末は遅くなる傾向にあるからごはんの時間がいつもよりずれて、その分凝った物も作れる。本当はまったくの空というわけではないけれど、せっかくならば材料を買って帰って美味しいものを作ろうかな。買い物にわざわざ行かなくて済むし。
電車に揺られながらそう決めて、最寄り駅に着いたその足で家から徒歩二十分のスーパーへ向った。
店内を物色しながら、どうしようかなあ、と考える。大きいから色んなものが売ってるんだけど、さすがに徒歩だと持ちきれないっていうのはある。お米とか、瓶ものとか。今日は何にしよう。そういえばこのあいだ、洋風メニューでなおかつお子様ちっくなものが食べたいだのなんだの母がわめいていたな。いっそお子様ランチでも出すか? いや、それもどうなんだろう。うーん……あ、オムライスとかいいかも。そしてコーンスープも出しちゃおう。あとはサラダを何にするかだなあ。アボカドもあの母は好きであるし、そうしようかな。うん、じゃあ卵を追加で買っていこう。あ、マッシュルームも買っていかないと。少し浮かれながら、私はぽいぽいと買い物カゴに材料を放っていった。
ううう。買いすぎた。自覚はある。でも……これで土曜日は何も買い足さずに済んだ。お米はまだ大丈夫だけど、そのうちに自転車を出せばいい。後ろにお子様を乗っけられるような立派な荷台が付いてるのがあって、お母さんとふたりのときはそんなに大きなお米は買わなかったけれど、今は男性ふたりが追加された生活だからか昔以上にそのママチャリが活躍してくれそうだ。がしかし、今日は歩きだ。多少ふらふらしながら、私はスーパーを出た。
えっ!? という声が思わず口から衝いて出たのは、空から降ってきた雫のせい。まさかまさかの、雨って……なんですかそれ。今日、降るってお天気お姉さん言ってたっけ? ああもう、荷物抱えてるから走るのも無理じゃないか。待っていればその分、晩ごはんの支度は遅れる。買ってきた食材を冷蔵庫の整理をしつつ入れる作業だってあるし、お風呂掃除だってしたい。そう考えたら、ここでしばらく雨宿り……なんていう選択肢が私にはなかった。
二十分よりも時間をかけて、私は家までの道をただひたすら歩いた。通り雨というような可愛らしいものでもなく、ざあざあと帰り道を濡らし続け、私は荷物もさることながら水分を含んで重くなった制服が憂鬱で仕方なかった。
「ううう……早く制服を乾かさないと臭くなる……」
帰宅して、鍵を取り出すのにもまた苦労した、まずダイニングテーブルに荷物を置き、脱衣場へ走る。制服はほっておくと強烈な臭いを発するので、とにかく脱いでハンガーにかけなければ。今日はブレザーじゃなくて助かった。被害に遭ったのはスカートだけだ。とりあえず脱衣場でスカートだけ脱ぎ、置いてあるハンガーを手にして脱衣場に備え付けの手摺りに引っ掛けた。ワイシャツとパンツ姿になった状態でそういえば身体を拭かないとな、と気付く。籐カゴのバスケット、二連になってレースが付いてて可愛いのですよほぼ箪笥みたいなもんです、からバスタオルを取り出して紺のハイソックスを脱ぎ、汚れ物を入れる脱衣かごへ、ぽい。足だけしっかり拭いてから、二階の私室に着替えの服を取りに向う。さすがにシャワーでも浴びないと風邪を引きそうだよなあ、なんて暢気に構えながら、のろのろと歩く。
私の部屋は、大きな本棚が二つある以外はあんまり特徴がない。学習机は小さい頃から大きくなっても使えるようにっていうデザインだからずっと変わっていないし、ベッドは少しくすんだ青色のカバーで、カーテンもおそろいの色。柄はない。鏡台とかがないから、あまり女の子らしくない。机に置いてある少し大きな卓上鏡があればじゅうぶんですよ。うん。あ、そうじゃない、今はそうじゃない。クローゼットから下着と、ティーシャツに、スウェットパンツ。ああ、そういえば、お家の中でノーブラじゃないのちょっと辛いよ。男の子がいるから、なんか付けないのもあれだよねえ、と思って一応している。もちろん、襲われるなんて思ってないんだけど、身だしなみとして。なんだかんだ、育実くんてモテる気はしている。
って。そんな下世話な事を考えている場合じゃない、身体は冷える。風呂風呂。行きよりも落ち着いたからか、気持ち早足でまたお風呂場へ向った。ぽいぽいと今度はすべての服を脱いでいく。最近やっと違和感がなくなった広いお風呂場のシャワーをひねって、温かいお湯を頭から浴びた。
「……なんでだろうなあ」
ぽつ、と思わず漏れた声。そう、なんでだろうなあ。妙に落ち着く。
圧倒的な孤独。こんなとき、慌ててタオルを持って来る家族が私には居ない。今まではそれが普通だった。実は父が居た頃から母はキャリアウーマンだったから、しばしば学校帰りは独りだった。もちろん帰宅は今よりもずっと早かったけれど、それでも一般家庭のような、普通、みたいな基準で語れないものがいくつかある。もちろん寂しいけれど、それといっしょに生きてきたからか、なんだかずっとそわそわして、落ち着かなかった。育実くんが先に帰宅しているときなんかは、特に。晩ごはんはどうしようか? なんて、そんな相談をする相手もいなかったのだから。暮らし始めてからまだ一ヶ月が経過するかどうかだから、アルバイトに明け暮れている彼と共有している時間はそう多くはないけれど、だからこそ、時折なくなる孤独感に、酷く焦りをおぼえたりもしていた。どうしてだろう、理由なんてわからないのだけれど。
ああ、そうだ。ついでにお風呂掃除をしておこう。頭が痛くなってきたので、考えることをやめた。
夕食の支度は、なんとか終えた。卵に包むのは皆の帰宅に合わせようと思ったから、コーンスープにアボカドと海老のサラダだけ先に完成させた。チキンライスを作り終えたところで、一気に身体に疲労感を覚えた。なんだろうな、考えすぎだと思ってたけど、これ普通に、不調からの頭痛なんだろうか。ちょっとぐらぐらしてきた。さっき、身体を冷やしすぎたかな。掛け時計に視線をやれば、いつも通りなのだとすればもうすぐ三人が帰宅する。育実くんは大体、午後九時までには帰ってくるし、林さんとお母さんもそんな感じだ。たまに、ふたりのが遅くなる。
「うー……現在時刻は午後八時半……とな……」
卵。室温に戻しておいた卵を、溶かなきゃ。そんで、卵で、包まないと。あれ、変だな。ソファから起き上がれない。ぐるぐるしてる、なんでだろう。ああー、晩ごはん……お願い、最後までやらないと、私は、私は。
立ち上がろうと、足に力を入れたのだけれど、無謀だったのか、どさり、という音が耳に届いた。自分自身が倒れた音だなんてわからないから、何かが落ちちゃったのかなあ、見に行かなきゃ、なんて馬鹿みたいなことを考えながら、私の思考は沈んでいった。