第三話
「へえ、そうなの? でも、いいじゃない。あんただけよりも」
「そうかもしれないねえ。ただちょっと、緊張しちゃって」
はは、と笑う私に、堀は、まあ緊張しないほうが変なんじゃない、となぐさめているのかよくわからない言葉を口にしてくれた。
驚いたことに、林さんには連れ子――つまり私と同じ存在の人間が居るのだという。それを聞いて、妙に安心してしまったのは事実なんだ。
だって、ねえ? 簡単に私を受け入れると言ったあの人の瞳はそりゃあ真剣だったよ。けれど胡散臭いとも思った。だって、今まで子どもなんていなかった人間が、可愛い盛りをすっ飛ばしていちばん難しいお年頃の娘を家族として受け入れるだなんて、並大抵のことじゃない。それだけ母を愛しているんだ! なんていう、美談で済ますような陳腐な問題でもないだろう。だからこそ、私はならばお邪魔虫は退散するか、と思っていたんだけれどね。新婚家庭にたんこぶがいるのもどうかなあ、って話さ。
だけれど。
私と同じ立場、所謂、同志がいるってんなら、私の抵抗もぐっと減るし、林さんが子どもを受け入れられる、子育て経験のある現在進行形のお父さんだと知ってすごく安心したんだ。腑に落ちたっていうかね。
しかもしかも! 同じ年齢の女の子だって言うじゃないか。こんなにイレギュラーなシリアスともいえる展開なのに、ちょっと心躍っているんだ。兄弟ってやつに憧れていた。でもそれは叶わない憧れだった。それなのに、ぽんと手に入ってしまうなんて。誕生日はあちらのが早いから、お姉さんらしいけど、姉妹になるのはとりあえず無理だろうなー、と思う。だって高校生にもなって急にお姉さんだよ、妹だよ、なんて受け入れられるはずもない。
だったら。
だったら、友だちになれたらいいなあ、と思う。いつしか家族になれたら、もっといいなとも思う。友だちが常にお泊りしてる状態って考えたらちょっと愉快だ。ルームシェア気分? それもいい。ひょっとしたら、不器用な自分の、なにがしかの拠りどころになってくれるかもしれないなんて、そんな過ぎた期待も抱きながら。
私は、明日の夜、初対面の瞬間に思いを馳せた。
「名前、なんていうんだっけ?」
「ああ、育実ちゃんだって」
微笑みながら、無理に仲良くならなくてもいいと思うよ、と言ってくれた堀の少し曲がった優しさが、妙に嬉しかった。
「なんか、こんなところ初めて来た」
「一応ね。ふふ、きょうちゃん、その服似合ってるわよ」
ホテルでディナーという響きだけでも気後れするのに、初顔合わせがこんな場所だなんて。定番といえば定番なのだろうか。私は、黒いハイネックでノースリーブのふわんとしたウエスト部分に大きいリボンが付いているシフォンドレスと、ピンク色のボレロを合わせた人生で初めてともいえるような格好に身を包んでいた。足元も淡いピンクの靴はローファーみたいな形と合わさって可愛いけれどハイヒールだから落ち着かない。母もばっちりとドレスアップしている。近くに寄ると青だとわかるけれど遠目からだと黒く見える不思議な色合いのパンツスーツだ。上半身がふんわりとしていて女性っぽいライン。コサージュも上品で、大人にならないと着れないようなデザインをしていた。
「すまないね、今日子ちゃん。育実のやつ、肝心な日に遅刻をして」
まったく、とため息交じりに林さんに言われて、私はとんでもないと首を振る。林さんの話では育実ちゃんはアルバイトをしていて、いつも忙しないと聞いている。今日だって、そのアルバイトが原因だというのだから、仕事で遅れるのならば何を責められるだろう。土曜日という休日に働いているなんて、育実ちゃんはとても偉いと思う。そう話せば、林さんが私に今日子ちゃんだって、と微笑んだ。
「土日だって家事をこなしているんだろう? 君だって、高校生という職業と同時進行で頑張っているじゃないか。そんな風に育実ばかりじゃなくて自分ももっと労ってあげたらいいのに」
「いやあ、私の場合は日課に組み込まれているから……改めて労働と呼ぶのも大袈裟というか」
「何言ってるの、きょうちゃん。清潔に毎日を保つって、とっても尊いことよ」
「……う、うん」
なんか恥ずかしい。思わず赤くなって俯いたら、お母さんと林さんが目を細めて私を見る。なんだか妙に、くすぐったい。
「あ! 育実」
私がちょっと気まずげに視線をさまよわせていると、林さんが手を振りながら声を上げる。ああ、着いたんだ。どきどきする心臓をなだめながら、私は林さんの視線を追って育実ちゃんの存在を確認する。
え。
「……お母さん」
「? どうしたの、きょうちゃん」
目を見開いて身体を強張らせながら、なんとか口を開く私を訝りながら声をかける母に、私は錆びたロボットのようにぎぎぎ、と首を動かして隣に座る母へと顔を向けた。
「育実ちゃんて……ず、ずいぶんたくましい?」
「いっちゃん? そうねえ、アルバイトで鍛えてるのかしら。ねえ、幸治さん、あの子のアルバイトってなんだったっけ?」
「ああ、確か宅配ピザだったかな。黙々と作業するから楽だと言っていたよ」
「ですって、きょうちゃん。あんまり関係なかったかしら?」
いやいやいや。今そういう、そういう趣旨で訊ねたんじゃなくて。そうじゃなくて。
「どうも、遅くなりました。息子の育実です」
息子?
今、息子とおっしゃいました?
目の前に立ち、ばっちりとスーツに身を包んだ彼女、ではなく――彼は、間違いなく、男の子。
「紹介するね、今日子ちゃん。俺の息子の育実。育実、こちら美佳子さんの娘さんの今日子ちゃん」
「……どうも」
ぺこり、とお辞儀をして私を見つめるその瞳は、林さんとよく似ている。当たり前だけれど。色素の少し薄い髪の毛は量が多いのか少しぼさっとしている。無造作な髪型の隙間から二重の大きな瞳がこちらを見つめていて、その瞳から受ける印象が、林さんとそっくりなのだ。
恐らく、誠実であろうということがわかる、色。
「……樋口、今日子、です」
なんとか平静を保とうと、私もお辞儀をした。
まさか、まさか。こんな空気じゃ言えない。今更、勘違いしてました、なんて。お母さんは育実くんとかじゃなくいっちゃんと呼んでいたし、林さんは育実としか言ってなくて同い年の子どもがいるとしか言ってなくて、息子ってどうして言わないんだ! 名前の印象からしか人物像を描けなかった。だからって、だからって。
多感な年頃だから男の子と同居なんて出来ませんなんて、今更。こんな、お膳立てもぜんぶ済んじゃった状態で、駄々こねるみたいなことできないよう! 私の新しい家族生活は、どうやら前途多難のようです。……ちょっと泣いてもいいですかと言いたくなる。
コース料理を楽しむ余裕なんてもちろんなく、食べた事もないような高級食材が並んでたのに、しかしデザートがやってきた頃にほんの少しぷつんと切れた魂が戻りつつあった。現実逃避している場合のようなそうでもないような状況で、さてどうしたものだろう、と目の前にあるアイスを突っつく。
あ、美味。悲壮感漂う私の表情がちょっと柔らかくなるほどに美味しい。
――くすり。
気付けば微笑んでいたらしい瞬間、私の横から空気が振動する音が聞こえた。
「……笑ったね」
びっくりしたのと、意外であったのと。だから思わず声に出してしまった。
お母さんと林さんが何やら込み入った話をしている最中だったので、まさかこちらに注目しているとも思わずに油断して発露してしまった表情。それを目撃した彼――育実くんが、笑ったのだ。今もしてやったりみたいな顔して私を見ている。笑うのね。まあ人間なんだからそれはそうだよね。でも、ほとんど表情がないと思っていたのに、けっこう豊かじゃん。
「ごめんね。……わかりやすくて」
また少しくすくすと笑って、育実くんが呟く。……わかりやすい? 意味がわからずに、疑問符を浮かべた顔をしていると、育実くんがちょいちょい、と手招きをする。……距離を詰めろということですね。なんだ?
私はわからないまま、しかし好奇心で身体を近付ける。育実くんが、そんな私の耳元に顔を寄せた。
ぽつり。
落とされた言葉に驚愕して固まると、お母さんの声が耳に届いた。
「ああ! 幸治さん見て! きょうちゃんといっちゃんがなんだからぶらぶよ!?」
「美佳子さん、人を指さすのは良くないよ」
苦笑する林さんに注意されて、お母さんは、そうね、と言いながら腕を下ろす。
「まあ、らぶらぶはちょっと問題かもしれないけど、ふたりが仲良くなってくれたら俺としても嬉しいよ」
頷いて微笑む林さんと、同じく微笑むお母さん。そして――微笑む育実くん。
「よろしくね、今日子」
こちらこそよろしく。
よろしくと言った育実くんに引き攣りながらもなんとか返した言葉。彼は、どうして。
――俺のこと、女だと勘違いしていたんでしょう?
どうしてわざわざ、あんな事を耳元で囁いたのだろう。私を、困らせたかったのかな? でもそれにしては、やけに優しくこちらを見るものだから、混乱する。
どうやら。
やっぱり私の新しい家族生活は、前途多難なようです。
助かるわあ、なんて暢気な声を上げながらお母さんが荷物を運ぶ男――育実くんを見て微笑んだ。
食事会から一ヶ月ほど経って、とうとう私たちは一緒に住むことになった。お母さんと林さんの再婚も成立し、今はお母さんと林さんは婚姻関係、つまり戸籍上も夫婦になった。お母さんの苗字は新しいものになったのだけれど、私は一度変わった苗字がまた新たに変わるのが若干の抵抗もあり、樋口姓のままになっている。お母さんも林さんも、私の意思を尊重してくれるとのことで、今のところは様子見という感じだ。もちろん、林さんはいつでも養子縁組をするつもりでいる、と言ってくれた。手続き上色々と問題が出たりするのだろうかと思ったら、保険やらなんやらも特に大丈夫らしい。同じ世帯に住む家族として、林さんを世帯主とした一員という立場にはなるようだ。戸籍とかってよくわからなくて難しい。
「今日子。これは? 運ぶ?」
「! あ、ああ。大丈夫だよ、自分でやるから」
目の前にあるダンボールを指して育実くんが言ったので、私は慌ててかぶりを振る。ていうかなぜに彼は私を呼び捨てるのだろう。兄として? いや、まあいいんだけど。そんな事を思う私を数秒不思議そうに見つめて、育実くんは無言でダンボールを持ち上げた。
ちょ、けっこう重いぞそれ! 本が入ってるのに!
「い、育実くん! それは」
「大切なもの? 自分で運びたい?」
慌てて彼を止める私に、育実くんが私の顔を覗きこむようにして言うから、私は慌てて返答する。
「え、ああ、ええと、そ、そうそう! うん!」
こう言っておけば、彼の手を煩わせないだろうと思ったから、別にそう大切ってわけでもないけれど、話にのっかってみる。
「……わかった、大切に運ぶ」
「え!? いやいや、だから自分で」
「重いよ」
だ、だから自分で運ぶと言うに! また私が荷物を引き受けようとしても、彼はそれを許すつもりはないらしく、そのまますたすたと車まで運んでしまう。表情が少ないぶん、何を考えているのかよくわからないけれど、育実くんが基本的に心優しい青年であるのはわかる。今みたいな感じとか。でもだからこそ、なんだか申し訳なくなる。自分で出来ることは、なるべく自分で処理してしまいたいと思うから。こうやって接せられると、どうしたらいいのかわからなくなってしまう。このあいだの一件は驚いたけれど、単なる軽い悪戯心だったのかな、と今は思っているくらいだし。
「そんなに頑張らなくていい」
ぽつん、と呟かれた言葉。その静かな声は、私の心に沈んでいった。
頑張らなくて、いい?
その優しいはずの言葉に、私の心は軋んで最初の悲鳴をあげていたのだけれど、そのときの私にはまだ気付けなかった。




