第二話
少し遅くなるという連絡を受けて、それに合わせた晩ごはんを用意すると決めた。大体がこういう時って付き合いでちょっと飲んだりしてくるんだよな。でもお母さんは必ず私のごはんを食べようとするから、晩ごはんはいりませんって文を添えない。私は別にかまわないんだよって言うと少し哀しそうな顔をするので、私はもうそれにたいして何か言うのをやめた。
「今日はお茶漬けかあ」
お酒のあとには必ず欲しくなる、といつだったか言っていた。その発言以降、こういう日は決まってお茶漬けを用意している。たまに母から違うリクエストをもらうこともある。今日は特にないから、いつも通りでいいのだろう。
何茶漬けにしよう。私もそれでいいや。別のもの作る気力もあまりない。ひとりだとどうも、そういう意欲は失せていくものだ。冷蔵庫を覗いた結果、ベタだけど鮭茶漬けにしようと決め、焼いて海苔をちぎって昨日残った小松菜のおひたしもいっしょに入れてひとり寂しく夕飯を終えた。
洗い物を自分のだけ先に済まそうかどうしようか、風呂に入ろうかどうしようか、と悩んでいる時だった。
「え?」
耳に届いた我が家のチャイム。一応はオートロックマンションだから、入り口の番号をわかっていないと玄関チャイムは押せない。ということは。
「きょうちゃーん、開けてえー」
あ、ちょっと酔っ払ったときの母の声だ。リビングにある掛け時計を見ると現在時刻は午後七時を少し回ったところ。いつもより一時間以上も早い帰宅時間に首を傾げながらも、小走りで玄関へ向った。開錠して、母を迎え入れようとドアノブに手をかけようとしたが、がちゃりという音と共に勝手に扉が開いた。
あれ、声の調子よりは酔っていないのかな? そう思って後ろに下がる。つっかけていたサンダルも脱いで、靴脱場から上がり母を待つ。――え?
「こんばんは」
扉を開けた人物らしい紳士、に見えるからそう呼ぶ、は私に向って夜のあいさつをしながら微笑んだ。
ビジネススーツをぱりっと着こなし、長すぎず短すぎない黒髪を真ん中で分け、二重の誠実そうな瞳がこちらを窺っている。
どちらさまですかコノヤロー。
「……あの、もしかして母が何かご迷惑を?」
この人がここに入ってきたってことは目の前でロックを解除したって事だ。番号が万が一わかっても問題ないと母が判断した相手。つまりはそれなりに親密という事なのだろう。だからなのか、私の中である種の危機感が出来る。
ひょっとして、ひょっとするとこの人は――母の恋人、なのだろうか。
なんとか子どもなりにポーカーフェイスを装いながら、紳士にうかがえば、紳士は困った顔で微笑んだ。
「とんでもない。こちらこそ、こんな風に酔っ払うまでお連れして申し訳ない」
言って、母を私に預ける彼の瞳は、経験値の少ない私ではわからないにしろ優しく見えた。誠実な人柄なのかもしれないと思わせる程度に、真っ直ぐな視線を私に向けてくる。
にしても、こんな風になるお母さん見た事がない。酔っ払って誰かに連れられてくるというのがもう異例の事態だ。何か嫌なことでもあったのだろうか。
しゃがんで、玄関に座らせ、靴を脱がせれば安心してしまったのか、まだ意識のあったお母さんが全体重を私に預けてくる。体格がほぼ変わらない私であるから、彼女を支えきるのは難しく、ぐらついてしまう。しまった、ベッドに運べるかな。
「ご迷惑でなければ、私が運びます」
私の様子を見守っていたらしい紳士が、静かな声で発言する。タクシーを待たせているとしたら悪いなと思ったが、呼気から酒臭さが感じられない。ひょっとしたら紳士は車なのかもしれない。一応その旨を訊ねてみれば、紳士は思った通り車だと答えた。普通ならば知らない男性を家に上げるのは憚れるが、お母さんがここまで信頼しているらしい人ならばおそらく問題はなかろう。実際問題、私ひとりではとうてい母を寝室まで運び込めない。
「すみません、それではお願いします」
私の言葉を聞き終えると、紳士はうなずいて母に寄れば危なげない様子で抱き上げた。スーツの上からではわからないが、かなり筋肉質であるようだ。
しかしまさかの。まさかの姫抱き。自分の母親がどこの馬の骨ともわからない男にそんな事をされているのを眺める日が来ようとは。人生とはわからんものである。出来ればもうこういう機会はなしの方向で進めばありがたいのだけれどもね!
寝室へ案内してその扉を開けば、母をそっとベッドへ横たわらせる。
ううーん。私はそういう経験がないから男女の機微なんかもわからないのだけれど、本とかテレビで得た知識と照合するにやはり親密な仲っぽいんだけど。なんていうか、お母さんを見る目が愛おしいものをとらえてるそれであるし、今何気に髪撫でたし。ていうか撫でるなよ髪を、さすがにそればればれじゃねえか。
まあ、見なかったことにしてあげよう。と心の中で思いつつ私は廊下へ出る。紳士も私に数秒遅れて出てきた。
「どうもお世話になりました。お時間大丈夫なら、コーヒーでもいかがですか?」
にっこりと微笑んで言ってみると、紳士も同じく微笑んでよろしいんですか? だって。よしよし、ちょっとした探りを入れるチャンスかもしれない。
こぽこぽと音を立てるコーヒーメーカーを眺めつつ、いっしょに待つのも居心地が悪いので先ほど後回しにしていた食器を洗う。あ、そうだ。
「あの、お名前をおうかがいしても大丈夫ですか?」
手をタオルで拭いながら訊ねれば、失礼しました、と紳士は座ったまま頭だけ下げる。
「林幸治と申します。美佳子さんとは、仕事上の関係で親しくさせていただいています」
「ええと、同僚の方ですか?」
「いえ、取引先です」
取引先! なんか大人な響きだね。お母さんの仕事はよくわからないけれど、なんかそこそこ大きな会社でそこそこ重要なお仕事をしているらしいです。母いわくですけども。私はよくわからないながらに、そうなんですか、とうなずいておく。
「林さん、お腹は今特にすいてないですか?」
「え? いや、特には」
と言った途中で室内にぐううう、という大きな音が響いた。おやおや元気なお腹の虫ですこと。ちなみに私じゃないですよ。
「……お母さんと何か食べたわけではないんですか?」
「軽くつまむ程度で。ちょっと、真剣な話し合いをしていたのであまり食べるという雰囲気じゃなくて」
「え? でもお母さんはあんなに酔っ払ってるのに?」
「悩むと何も食べずにお酒ばかり呑むのが彼女の癖でね。結局、そういう時はすすめても何も食べないんですよ。その悪癖には私も困っています」
身体に良くないし、と苦笑する林さんに、私も同じような表情で返す。うーん、そうか、外だとそうなのか。
「家だと悩んでる時にかぱかぱ呑んじゃうのは変わらないんですけど、私が無言で目の前にお皿を並べていくと食べるんですよ。まるで機械みたいに。オート機能っていうか」
くすくすと笑いながら台所に向うと、林さんはそうなんですか、と声を上げる。
「じゃあ、何も言わずに目の前にお皿を持っていけばいいのかな……」
「外だとそれでも駄目かもしれませんね。母は、私が作ったものは絶対に残さないと決めているから、どんな状況でも平らげるのが癖になってるので」
言いながら、丼によそったご飯の上に鮭、海苔、小松菜、ごま、をのっけて、温めた出汁をかける。わさび……は、好みがあるから丼のふちのところに添える感じにしよう。
リビングに戻って、私はどうぞ、と林さんに鮭茶漬けをすすめる。温かい緑茶付きだ。コーヒーは食後にまわせばいいし、林さんがいらずとも私が飲むからかまわなかった。
少し困った顔をしつつも、私が再度すすめれば、林さんはためらいながらもお箸を持った。
「! 美味しい」
ああ、好きなんだな、この瞬間。目を丸くして、次にはほにゃりと顔がくずれて。幸せって顔をしてくれる。主婦冥利に尽きますな。林さんは実に良い食べっぷりで、みるみるうちに平らげてくれた。
「ごちそうさまでした。本当に美味しかったよ、ありがとう」
気付けば敬語もなくなって、でも全然嫌ではない。私はお粗末さまでした、と微笑みながら食器を下げる。コーヒーはどうしますか、と訊いてから、明日も仕事なのだろうしあまり引き止めるのも良くないだろうかと思ったが口にしてしまってからでは遅い。林さんはにこにこしながらいただきますと言ってくれたので、まあいいかと思い直してミルクと砂糖を添えて結局はお出しさせていただいた。
しかし、失敗したかもしれない。なんだか、気まずい。
常ならば漂う香りに少しの苦味が私の心を穏やかにしてくれるはずなのに、目の前に座っている見知らぬ存在が沈黙している事によって、妙な緊張感をもたらしていた。コーヒーを誰かと飲む時、その一口目はどうしたって空白の時を生む。気の置けない相手ならばそれはまったく苦ではないけれど、こういう場合はなにかと相乗して更に心がかちこちになりそうだ。相対する人物が冷静に見えるのは、気のせいだといつもならわかる。あの、一口目を舌に感じた瞬間におとずれる、ほう、と息を吐く瞬間を味わっているだけのはずだ。それなのに、私の考えていることをすべてこの人は知っていて、これからとんでもない事が起きるのじゃないかって変な風に思考してしまう。
落ち着け、と繰り返し自分に言い聞かせながら、私はコーヒーをまた飲んだ。……アメリカンは久しぶりだ。やはりブラックならばこれがいちばん好ましい。
「今日子ちゃん、と呼んでいいかな」
静かな、それでいて私よりも多くの人生を歩いた響きがする声に、私は思わず姿勢を正して肯定の返事をした。人好きするあの柔和な笑みはなりを潜め、今はただ真剣にこちらを見つめる大人の瞳。――ああ、わかってしまったかも。
「ここに今日子ちゃんのお母さん――美佳子さんを送り届けたのは、もちろん俺の役割だと思ったからなんだけど。それ以上に、君に会ってみたかったんだ」
これは、ひょっとして、ひょっとする? 私の予想を、飛び越えていたりするのかな? 心臓が早鐘を打ち、あまりの大きさに体全部がその音を発しているのではないかとすら思う。けれどもあの人――林さんという名の馬の骨には聞こえていないはずである。だというのに、何もかも見透かされている気がするのは、私が自身を子どもだと痛感しているからなのか。今まで会ったどの大人よりも、目の前に真剣な面持ちで座る彼が大人だと感じるからなのか。わからないけれど。なんていうか。
そんな、オスの心情向けられると、ひたすら困る。しかも……。
「結婚を前提に、君のお母さんと交際している。もしも今日子ちゃんが俺を認めてくれる日が来たら、その時は彼女と籍を入れたいんだ。勝手な話だとはわかっている事だけれど、今日子ちゃんとも、いつか家族になりたいと願ってる」
この人がメスとして見てるのは、私の母親なんだぜ。ちょっと、いやかなり――勘弁してほしい事実だった。
その日は結局、話もそこそこに帰宅してもらった。母を交えてまた話しましょう、と。
一言、そう添えるのだけが精一杯で。
一夜明けて、ぼんやりとした思考のままのろのろと起き上がる。目覚まし時計はまだ鳴っていなかったから、設定を解除した。学校に行くのも、その前に家事を済ますのもなんだか憂鬱だけれど、それでも私は私の役割を放棄できない。そういう人間なんだって、自分でわかっている。
結婚、かあ。
ため息を吐いて、私は林さんの事を考えていた。恐らく母と同じ程度かそれより少し上の年齢である大人の男が、母と結婚をしたいのだ、と言う。しかもあの口ぶりだと私ごと、母を受け入れてくれるつもりだ。でも、でもなあ。どうなのだろう。
いっそ私は。
「いっそ私は、どこか遠くへ」
「きょうちゃん」
背後から突然名を呼ばれて、私は飛び上がらんばかりに驚いた。既に制服を着てエプロンも身に付け、朝食の準備でもしようかと考えていたところだった。けれども頭の中がどうにもまとまらずに、ぼんやりとダイニングテーブルに頬杖をつきつつ椅子に腰掛けていた所だったから、油断しきって独り言すら呟いてしまっていた。
今の聞かれたかな。聞かれたよなあ。……意味は理解しないでくれていると助かるなあ。
「昨日、幸治さんから何か聞いたのね」
かたん、と私の隣にある椅子を引きながら母がため息交じりにそう口にする。言葉に、私はどきりとした。
幸治さん。母にとってもあの人は――オスってやつなのか。
ええと。あまり深く考えるのやめよう。
無言で、けれども戸惑いを空気に乗せた私を見つめながら、母はさらに口を開いた。
「まったく、大事なことだからくれぐれも暴走しないでって言ったのに。ごめんね、昨日……まさか私以外の人からそんなこと聞くなんて思いもしなかったでしょう」
彼が来ただけでも驚いたでしょうにね。
そう言って、なぐさめるように私の頭を撫でるお母さんは、なんだか少しせつなそうに笑っている。何か、哀しいのかな。でも、なぜだろう。
「ねえ今日子ちゃん。別に、今すぐとかそういう話じゃないの。ただ、私は今あの人と交際中ってだけなのよ。それなのに彼が大袈裟に言って、いやね」
「……でも、いずれ結婚するんでしょう?」
「しないわよ。きょうちゃんが私から離れていくんなら、そんなもんしたくないわ」
口を尖らせてそう言ったお母さんに、私は目を瞠る。その言葉の重さに驚くと同時に、私は母にとってどれだけ大きな存在なのかを、思い知った。
そんな簡単に、愛した男を切り捨てようとしちゃうの? 私が、もしもあの人ごと家族になるっていうんなら、そんな自信はないから、全部放棄して楽になろうかと思っていたことを見透かして。お母さんの幸せの為に犠牲になるなんて、感傷に浸って楽になろうとする私を、罰しているようにも思えて、少し苦しい。
そう、か。それなら、仕方がないかなあ。ひとつ息を吐いて、私は俯きかけていた顔を真正面に戻して、お母さんの目を見る。
「……わかった。じゃあ、教えて」
「え?」
「林さんのこと。そんで、準備できたら、いいよ。家族になっても」
苦笑しながら私は言った。お母さんは、それに驚きながらも、けれど嬉しそうに微笑んだ。
家族ごっこになるのか、本当の家族になれるのかはわからない。けれどなるべくなら、今よりも良い明日が待っていればいいなと、月並みながらに思った。