第一話
何気なく送る毎日にぽんとやってくるイレギュラーを、想定出来る人間はいない。そもそも起こる前から知っていたらそれはイレギュラーじゃない。だからこそ驚く事もあろう、なにせ人間なのだ。感情はもちろん備わっている。
しかし。
人間って、あれだったんだな。
想定外も想定外な事が起こると、喜怒哀楽一切の感情が表に出なくなるんだなあ。初めて知ったよ。
そんなもん、知りたくはなかったけれどもね。
耳元で鳴る不快な音はなんだろう。うるさくてかなわないから早くそれをどうにかしてしまいたいのだけれど、それをする術がわからずにしばらく私は手をさまよわせる。かたく冷たい何かが指先に触れて、私はその瞬間に目を開いた。
そうだこれ、目覚まし時計だった。
途端に音の目的を理解すると、急速に思考は眠りから呼び覚まされ、視界はクリアになる。おはようございます、朝ですね。寝覚めが良いのか悪いのかわからないけれど、アラーム音を止めるまでは私の脳みそは起きてくれない。今みたいにすぐにタッチできる日もあれば、かなりの時間その存在をつかめない日もあるから、どうにも判断がつかないというところかな。自分のことなんだけどね。
目覚まし時計の時刻を確認すると、朝の六時。うん、いつも通りの時間だね。肩にはつかない程度の、でもショートカットと言うには多少長い髪に手をつっこんでくしゃりとかきまぜる。あくびをひとつしながら私は自室を出た。
マンション暮らしの我が家はそう広くも狭くもない。私は自分ひとりの部屋をあてがってもらえているから、恵まれているだろう。リビングとキッチン以外にあるもうひとつの部屋は、両親の寝室だった。……今は、まあ。ありがちな話ではあるよね。
洗面所で顔を洗って髪を整えてから、また部屋に戻って制服に袖を通す。なんてことない公立高校の制服だから、紺のカーディガンとワイシャツにスカート。式典の時なんかはセーター類を着ちゃいけない決まりになっていて、そのかわりブレザーが必須。季節は五月にさしかかろうとしているから、普段ブレザーは着たり着なかったりだ。今日は暖かいのでいらないな。
支度を終えて、向うはもうひとつの部屋。そう、元両親の寝室です。
目的の場所で足を止めて、ノックをひとつ。ふむ。やはり物音はしない、か。ここは遠慮せず扉を開く。と、はい、発見。ぐっすりと寝ておりますよ、我が母上。
毎朝、お疲れのご様子の彼女を起こすのは正直忍びないのだけれど、しかたがない。もしも私が可哀想だからといって思うまま寝かせてあげれば、一時は幸せだろうけど、母の矜持は消えてしまう。のでね、まあ、起こしますよ。所謂、キャリアウーマンですからね、お母様は。
肩甲骨まで伸びた茶色がかった髪。真っ黒な私とは違って、ある程度洗練された大人の気品漂う、やりすぎていない色。私はそういうことにあまり頓着しないものだから、地毛のままなのです。ベッドで眠る母は、高校生の娘をもっているとは思えないほど若々しい。かといって小娘風情に見えるわけでもないから、なかなかどうしてだ。……いやさすがに小娘に見えたら怖いですけどね。はあ、睫毛長いし二重だし。私ほんっと、容姿は父親似な気するなあ。
と。あんまり物思いに耽ってる時間はないんだった。
「お母さん、朝だよ」
まずは優しく声をかけ、布団の上から身体をゆする。はい、起きません。まあ、大体これで起きたためしないんだけどね。でも、なるべく気持ちよく起こそうという娘心。毎日報われていないんだけどね。
はあ、しかたない。時間も迫ってますし、容赦なくいかせてもらいましょう。
ふん、と気合を入れれば、大股にベランダへと歩いていき、一気に斜光カーテンをひいた。レールをこすれる音ってけっこう好きだ。なんだか気持ちがいい。明るくなった室内にひとつ息を吐き、ちらりと後ろをうかがう。唸り声は聞こえるけれど、まだ起きてはいない。さてそれでは、次。
窓全開だ、うりゃあっ!
心の中で叫びながらがらがらと音を立てると、部屋の中に冷たい空気がぶわわ、と入り込んでくる。そして私は勢い良くベランダに背を向ければ、またも大股に来た道を戻る。ベッドの傍らに立った私は、そおい! と掛け布団を一気にめくり上げる。こうでもしないと起きません!
「朝だよ! 起きなさいっ! 顔を洗って化粧をして!」
「うう……今日子ちゃん、あと五分……いや、十五分ん……」
「いいよ。私の作る朝ごはんを食べる時間がなくなってもいいなら、寝ていなさい」
少しとがった声で言ってみると――本当は怒ってないんだけどね、お母さんは案の定、がばりと上体を起こした。
「食べるっ!」
くわ、と目を見開いて私に顔を向けるの、ちょっと怖い、睨まれてるみたいで。私は一歩下がりながら、じゃあ起きてね、と一言添えて母の部屋をあとにした。
リビングの扉を開いたらエプロンを付けて、冷蔵庫を開く。さて、今日は何がいいかな。考えつつも固形のコンソメと昨日切った状態で残った野菜類を出す。先にお湯を沸かしつつ――とりあえずキャベツとトマトのコンソメスープは決まりだ、メインを何にしようかと考える。トーストにするからやっぱり卵かな。プレーンオムレツに、あとヨーグルトも付けて。うん、そうしよう。
朝食のメニューを決めたら、冷蔵庫から材料を出して作業を始める。お母さんの身支度が終わるのは大体四十分くらいだから、それまでにすべて用意出来ていればいい。おっと、コーヒーもセットしないと。
「今日子ちゃーん、おはようー」
「はいはい、おはよう。もうできてるよ」
テーブルにセッティングして、あとはコーヒーを注ぐというところでびっしりとスーツを着用した母がリビングにやってくる。うん、いつも素晴らしいタイミング。
「美味しそうー。いただきます」
「たんとおあがり」
ほかほかのトーストにバターを塗ってかぶりつくお母さんを見ていると、ふいに私が母親になったような気分になるのだけれど、それは間違いなんだよね。まだまだ養われている身なのに、なんか家事をやっているとどうもそういう気持ちも生まれてくる。目の前で美味しそうに食べる姿が嬉しいと感じてしまうからなのかもしれないな。なんていうか、主婦の醍醐味的な?
「きょうちゃん、食べないの?」
首を傾げるお母さんに、ああ、と短く返事をして席に着く。テレビから流れるニュースを右から左に流しながら、私はコーヒーを口に含んだ。いつも私はブラックを、お母さんは砂糖なしのミルクたっぷりで飲む。私もカフェオレぽくするの嫌いじゃないけれど、大体はブラック。でも濃いやつよりはアメリカンが好き。でも朝は大体アメリカンじゃないから、ちょっと苦いなあ、と思いつつもそれを飲み込む。
朝は一日の始まりで、朝食はその一日を無事に過ごすための活力源だ。なるべくならば、お母さんがいちばんと思うものを用意したかった。コーヒーも、洋食も、お母さんが好きだからそうしているのが大きい。実は私、和食が好きなので。
「あ、そういえば、今週はやめるんだって?」
お母さんの言葉に、私はトーストを咀嚼しながらうなずく。
「なんかお父さん、忙しそうだったし。私もなんていうか、毎週末っていうのも大変だから一ヶ月に一回とか、都合付く時でいいんじゃないかって話した。……向こうはもう子どもも生まれたんだし」
「あら。私とあの人は他人になっちゃったけど、今日子にとってはいつまでもお父さんなのよ? 変な遠慮はいらないんだからね?」
「……うん、わかってる」
そう。元両親の寝室っていうのは、そういうこと。今は、そこにお母さんだけが寝ている。このマンションはお父さんとお母さんが離婚する以前から三人で住んでいたマンションで、話し合った結果、父がここを出て行くということになった。最初は養育費も貰っていたらしいけれど、キャリアウーマンとしてか母としてか女としてか、とにかくその矜持から大きな出費の際、ええと大学の入学金とかね、だけ援助をしてくれるという約束で落ち着いた。
高校二年生で、現在十六歳。私が母子家庭と呼ばれる環境に飛び込んだのは今から六年も前のことだ。ちょうど十歳、で、小学校四年生の時。苗字が松本から樋口に変わって、当時クラスメイトからもあれこれと言われたもんだ。小学生ってまあ、残酷だしね。
考えると、今も少し不思議だ。両親の仲は特別悪いとも思えなかった。本人たちが言うには、とにかくすれちがった結果だったのだとか。忙しくけれども充実した日々の中で、気付いちゃったんだって。――お互いがまったく必要なくなってしまったことに。居ても居なくても、哀しくもなければ寂しくもなかったのだと。
一年くらいは躊躇したらしいのだけれど、私のこともあったしね、結局は離婚を決意。で、現在に至る。喧嘩別れというわけでもないから、たまに三人で会う事もあったけれど、三年前に父が再婚してからは、それもなくなった。ほんの少し寂しそうにしていた母は、しかしどこか安心したような顔もしていて、愛ってやつの片鱗を見てしまったのかも、なんて幼いながらに思ったりもしたもんだ。
私のことを、父は今も大切に思ってくれている。言葉でも態度でもそれを示してくれる。けれどやっぱり、父の今の相手のこととか、生まれた子どものことを考えてしまうと、ゆっくりでも、距離は置いたほうがいいんじゃないかな、なんて思ってる。私よりも今は、新しい家族を幸せにしてほしいなあと思う娘心だ。こんな風に考えられるまでは紆余曲折あったけれど、環境も手伝って人より少し早く大人になった私は、そんな自分がほんの少し誇らしい。いや、まだまだ子どもは子どもなんだけれどね。
「まあ、むこうの意見も訊いて、改めて考えるよ」
「……そっか」
優しい顔で微笑むお母さんを見ると、ああやっぱり親だよなあなんて当たり前のことを思う。こうやって家事を問題なく出来るようになるまでには色々あったけれど、ずっと見守ってくれたし、父も母も、何度も私に謝ってくれたから、どちらを恨むもない。金銭的に苦しかったらまた違ったのかもしれないけれど、幸いそれもないしね。母子家庭でありながら、本当にありがたい話だ。
人よりもほんの少し、寂しいだけだもんね。
学校に着くのはいつも八時くらい。家から学校まで三十分なので通うのは楽といえば楽だった。
「おはよう」
かけられた声に、私も朝のあいさつを返した。ざわつく教室内は、もう大体の生徒が登校している。友人である彼女は、いつも私より早い。
「堀、なんか今日機嫌良い?」
首を傾げつつ堀が座る窓際前から三番目の席のひとつ先の席へ腰掛ける。高校二年生になってから一月が過ぎたけれど、まだ席は名簿順のままだ。もうそろそろ席替えがあるかもしれない。ありがちではあるけれど、私たちは席の関係で友人同士になった。とはいえ、彼女の纏う空気は妙に居心地が良い。相手がどう感じているかはわからないが、この場限りよりももう少しつっこんだ仲になりそうな予感はしていた。
「まあまあかな」
その微笑んだ顔が、妙に邪悪で私は訊いておいてちょっと後悔してしまう。一体何があったのだろうか。ひょっとして彼氏関係かな……?
堀には、中学校時代から交際している彼がいて、高校は別々だ。とはいっても家が近所なので会う時間はそれなりに取れるらしいので不安はあまりないのだとか。
なんというか。彼女のキャラクターからおわかりになるかもしれないけれど、堀の彼氏はどうやら愛され系いじられ系らしく、彼女がこんな笑みを浮かべる日は、その彼が堀いわく可愛がる行為、彼にとったら半泣きになる行為、をするもしくは事後である場合が多い。まだ短い友人関係であるのにそれがわかっているのは、それくらい日常化しているということだ。ご機嫌な日イコール彼氏弄りの日って嫌だよね、なんだかね。
「……恋人、か」
ぽつりと呟いた言葉に、堀は笑んでいた顔を整えると、いや元々自然な茶色い肩甲骨まで伸びたストレートの御髪とはっきりとした二重が美しい女性ではあるのですがね、首を傾げた。
「なに、いっちょまえに恋人という響きに憧れでも抱いてるわけ?」
いや、なによその悪し様な言い方。恋に恋するネンネちゃんみたいな、死語だよね今の若い子わかんないよね、なんかお母さんが使ったときのインパクト強くて頭にインプットされてるのです。堀のそんな言葉に私は口を尖らせながら、なんだよ、とまた呟く。
「別に恋人っていう形がほしいわけじゃないよ。ただなんていうか……」
「なんていうか?」
寄りかかって、甘えられる存在が欲しいな、なんて。ちょっと思ったり思わなかったり。いや、人に甘えたことがないとかそんなんじゃないけれどもさ。お母さんもいつも大変だし、お父さんはもう私ひとりのお父さんじゃなくなって、お姉ちゃんやお兄ちゃんもいなくて、込み入った家庭事情を愚痴れる相手もいなくって。
目の前の堀にも、あまりそういう話はしていない。事情は知らないわけじゃないんだけど、なんていうか、どういう時に寄りかかっていいものか考えてしまう私は、色々と下手かもしれないなって思う。でもそっか。中学時代よりも、少し楽かなあ。話せる相手がいるのって。
じっと目の前の美人を眺めて、へらりと笑ってみる。すると堀は真顔できもちわるい、と声に出すので、私は、へえへえ、とその言葉にてきとうな返事をして前を向いた。
ああ、今日は天気予報だと曇りだったし降水確率もゼロではなかったから朝に洗濯をしてこなかったけれど、失敗したかな。最近、週末はいつも天気が悪かったから一週間の汚れ物を纏めて洗わずに早起きして平日にやろうかと考えていたんだけれど、まだ実行していない。結局は木曜日あたりに夜洗濯回しちゃったりするんだよなあ。部屋干しになるんだけどやっぱりおひさまの光あてたいし、今日は水曜日だし明日はとりあえず早起きしてみるかな。ああ、晩ごはんの献立もどうしようか。今日は何がいいかな。青空を見ながらそんな事を考えていたら、予鈴が鳴った。
母もそろそろ、お仕事開始かな。