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静かな復讐 奪われたすべてを、完璧に奪い返す  作者: 雫石しま


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第3話 知らない香り

 東京都港区の一角に、鉄筋コンクリートでガラス張りのオフィスビルがある。


 ジュエリーショップLueur(リュール)、フランス語で『柔らかな光』『ほのかな輝き』という意味だ。そこに私が勤める、ジュエリー工房が併設されている。


 私はエレベーターを降り、Lueurの扉を押し開けた。朝の柔らかな光が、ショーケースのダイヤをほのかに輝かせている。店名通り、店内はいつも優しい光に満ちているはずだった。けれど今日の私は、その光がどこか遠く、届かない場所にあるように感じた。


「おはようございます、瑞穂さん」


 同僚の挨拶に、軽く会釈を返す。バックヤードの工房へ向かい、白衣に袖を通す。作業台の上には、来週の社内コンペティションのためのデザインスケッチと、石のサンプルが並んでいる。テーマは「Eternal Bond」――永遠の絆。


「永遠の絆……ね」


 皮肉なものだ。今、私が最も失いつつあるものを、形にしなければならない。ルーペを眼鏡の上に載せ、ピンセットで小さなサファイアを掴む。5周年を象徴する石。かつては拓也に贈ろうと思っていた色だ。指先がわずかに震えるのを、深呼吸で抑える。


「5年間か」


 思わず溜め息と共に独り言を漏らす。柔らかさも、輝きも、今の私にはない。


 でも、だからこそ、この石に込められる何かがあるのかもしれない。壊れかけた絆が、別の形で光を放つ瞬間を。私は鉛筆を取り、スケッチに線を引いた。外の光が、ゆっくりと工房の奥まで差し込んでくる。まだ、諦めるわけにはいかない。


「あら、佐々川さん……調子悪そうね」


 背後からスケッチを覗き込むように声をかけてきたのは、同僚の田川亜美だった。コンペティションではライバルになる相手だ。「田川さん」私は小さく返事をし、スケッチブックをゆっくりと閉じた。彼女は鼻先で軽く笑うと、「頑張ってね」とだけ言って、小さく手を振って向かいの作業台に腰を下ろした。


 田川亜美のお香のような香りが工房に漂う。彼女はいつも自信に満ちていて、隙がない。対する私は、徹夜の目元をコンシーラーで隠し、壊れかけた結婚の欠片を石に託そうとしている。


 ――負けるわけにはいかない。私は再びスケッチブックを開き、鉛筆を握り直した。柔らかな光も、ほのかな輝きも、今はまだ遠い。でも、この指先から生まれる何かで、失ったものを取り戻してみせる。工房の時計が静かに時を刻む。コンペまであと6日。心の奥に小さな火が灯り始めていた。



 ◇◇◇



「ただいま」


 誰もいない暗い部屋に、私の声が虚しく響くだけだった。リビングのカーテンを開けると、ダイヤモンドのように眩い夜景が広がった。高層階のこの眺めは、結婚したばかりの頃、拓也と二人で選んだものだ。


――このマンションも売却するつもりだ――


 昨日の夜、彼は冷たくそう告げた。一ヶ月後には出て行け、と。財産分与もなし、慰謝料もなし。あまりにも一方的な言い分だった。5年間築いた生活を、まるで紙切れのように切り捨てるつもりなのか。


 私はソファに沈み込み、膝を抱えた。この部屋も、思い出も、すべてが失われていく。窓の外、夜景の光が無情に瞬く。私はゆっくり立ち上がり、冷蔵庫から水を取り出した。冷たい水を飲み干す。


 明日もLueurに行き、コンペティションのデザインを仕上げる。自分の手で、自分の人生を輝かせる。それが今、私にできる唯一の抵抗だった。夜景を見上げながら、心の中で呟いた。


 ......この光は、まだ私のものだ。


 すると鍵の音がした。拓也だ。薄暗いリビングに私の姿を見つけ、彼は一瞬、足を止めてたじろいだ。


「……いたのか。電気ぐらいつけろよ」


 ぼそりと呟き、スイッチを入れる。突然の明るさに目を細めながら、彼はコートを脱いだ。


「夜景を見ていたの。今夜は早かったのね……残業は?」


 私はソファから立ち上がり、静かに訊いた。拓也は視線を逸らし、ネクタイを緩めた。


「麻里奈の調子が悪かったんだ」


 また、その名前。私は息を吸い込む。


「……また、麻里奈さん?」


 声が震えるのを抑えきれなかった。拓也の顔が、わずかに歪んだ。疲れか、後ろめたさか。彼は黙ってキッチンへ向かい、水を一杯飲んだ。グラスの音だけが、静寂を切り裂く。私は一歩近づいた。


「拓也、離婚の理由を話して」


 彼はグラスを置き、ゆっくりと振り返った。瞳に揺れる光は、夜景よりも冷たく、遠かった。


「拓也」


 リビングに、重く苦しい空気が漂っていた。拓也はそれに耐えかねたように、ネクタイを乱暴に緩め、ソファに放り投げた。


「風呂に入る」


 短く告げ、彼はワイシャツのボタンを外し始めた。白い布地が滑り落ち、露わになる肩甲骨の美しいライン。引き締まった背中は、5年前と変わらず、私の胸を締めつけるほど魅力的だった。私は無意識に一歩近づき、腕を伸ばしかけた。


 抱きつきたい。このまま背中に顔を埋めて、泣きたい。けれど、きっと拒絶される。あの冷たい瞳を想像するだけで、伸ばした手は力なく宙を切り、途中で止まった。


 拓也は振り返りもしない。脱いだワイシャツを床に落とし、バスルームへ消えていく。ドアの閉まる音が、静かに響いた。水音が聞こえ始める。シャワーの音が、まるで私の涙のように絶え間なく降り注ぐ。私は膝を抱え、ただその音を聞いていた。話したいことは山ほどあるのに、言葉は喉の奥で凍りついたままだった。


 私はソファの端に座り込み、投げられたネクタイを指で撫でた。彼の体温が、まだほのかに残っている。いつものボディソープと、少しタバコの混じった拓也の匂い――それだけのはずだった。けれど、鼻先をかすめるのは、明らかに違う香り。


 甘く、華やかで、どこか官能的な女性用のオードパルファム。


 私のつけている薔薇の香りとは違う。もっと深く、甘い、ウッディな香り。


「この香り……どこかで……」


 会社の接待で女性が多い店に行くことはあるだろう。肩が触れたり、隣に座ったりすれば香水がつくこともある。でも、ネクタイに? こんなに強く、こんなに親密に?


 指先が止まった。ネクタイの結び目近く、シルクの生地に小さなシミのような跡。口紅ではない。でも、香りは確かにここから立ち上っている。胸の奥が、冷たく締めつけられた。


 私はネクタイをそっと顔に近づけ、もう一度深く息を吸った。香りは確かに、拓也の匂いと絡み合って、私の知らない誰かの存在を主張している。


「離婚の原因は……浮気?」


 バスルームのシャワーの音が、まだ続いている。私はネクタイを握りしめたまま、立ち上がった。心臓の音が、耳の奥で大きく響く。バスルームのドアを見つめた。シャワーの音が止むまで、胸の奥で疑念が膨らんでいく。


 香りは確かに女性のものだ。けれど、麻里奈さんのイメージとは違う。彼女はもっとフローラルで、甘い香りだった。


 ――じゃあ、これは誰?


 拓也が風呂から出てきた。バスタオルを腰に巻き、髪を拭きながらリビングに戻る。


「……まだ起きてたのか」


 彼はソファの反対側に座り、スマートフォンを手に取った。私はネクタイをそっとテーブルに置き、静かに訊いた。


「今日、誰かと会ってた?」


 拓也の指が止まる。


「麻里奈の退院の迎えだと言っただろ」

「それだけ?」


 私はネクタイを指で示した。


「この香り……知らない匂いがついてる。女性のオードパルファムよね」


 一瞬、彼の表情が凍りついた。すぐに目を逸らし、苦笑のようなものを浮かべる。


「接待の席で、隣に座った取引先の人がつけたんだろう。気にしすぎだ」

「ネクタイに? こんなに強く?」


 私は立ち上がり、ネクタイを彼の前に差し出した。香りはまだ確かに漂っている。拓也はそれを一瞥し、ため息をついた。


「瑞穂、疲れてるんだ。お前も俺も。こんなことで疑うなんて……」


 その言葉が、逆に私の疑念を深く刺した。彼は決して否定しなかった。ただ、疲れていると言っただけ。私はネクタイを握り直し、声を低くした。


「拓也、私を馬鹿にしてる?」


 彼は答えなかった。その時、スマホの画面が点灯し、通知の音が小さく鳴る。反射的に見るその瞳に、焦りのようなものが過ぎった。私はスマホを奪い取ろうとしたが、彼が先に隠すように握りしめた。


「……寝よう。明日も早い」


 拓也は立ち上がり、寝室へ向かった。私はネクタイを胸に押し当て、香りをもう一度嗅いだ。この匂いの主は誰?


 ――麻里奈さんでないとすれば、別の女がいる。


 疑念は夜の闇のように、ゆっくりと私を包み込む。拓也は私を裏切った。


「......完璧に、抹殺してあげる」


 これで彼の信頼はあと50%失われた。明日、確かめなければ。このままでは、私が壊れてしまう。


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