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静かな復讐 奪われたすべてを、完璧に奪い返す  作者: 雫石しま


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第1話 義妹が私の指輪を薬指に嵌めた夜

テラーノベルにも掲載しています

「これに名前を書いてくれ」


  拓也の声は氷の刃だった。マホガニーの真ん中に広げられた離婚届。彼の欄は黒い走り書きと血のような赤い印鑑で埋まり、私の名前だけが白く空っぽ。


  ――結婚5周年のはずの夜に。


 私が何ヶ月もかけて磨き上げたサファイアのペアリングは、濃紺の天鵞絨のケースの中で、まだ誰の指にも触れられていない。 その青い光が、今は私を嘲るように静かに瞬いている。








「遅いなぁ……」


 特別な日なのに、LINEは未読のまま。 壁の時計が無情に進む。外は土砂降り。風が窓を叩きつける。 不安が胸を締め付ける中、駐車場で車のバック音が響き、エンジンが止まった。


「拓也!おかえりなさい!」


 玄関の鍵が回る。革靴の音。 そして――拓也の背後に、亜麻色のウェーブヘアの女が立っていた。

 

 夫の義妹の佐々川麻里奈。 5年ぶりのはずなのに、なぜか今夜は、獲物を前にした猫のような微笑みを浮かべている。


「……麻里奈さん?」


 彼女は丁寧に頭を下げた。 でもその瞳の奥に、一瞬、得体の知れない陰があった。


――この女、何をしに来たの?


「……麻里奈さん?いつイギリスから帰ってきたの?」

「今日の夕方の飛行機で」


 麻里奈さんは微笑んだが、吸い込まれそうな黒曜石の瞳に、冷たいざわめきが這い上がってきた。――まるで、底のない闇が私を覗き込んでいるようだった。


「大学は?お休みなの?」

「......ちょっと、急ぎの用があって」


 拓也は無言でリビングへ。濡れたスーツを椅子にかけ、ビジネスバッグから取り出したのは、1枚のファイルだった。


「瑞穂。座ってくれ」

「ちょっと待ってて」


 ケトルが沸き、部屋にアールグレイの香りが広がる。私は紅茶を淹れながら、視線をテーブルに戻した。


「なに?」


 そこに広げられていたのは......緑色の枠の、離婚届。


 佐々川拓也――拓也の欄には黒いペンの走り書きと、血のように赤い印鑑。私の名前だけが、冷たく白い空白のまま。心臓が一瞬止まった。


「......なに......これ」


 顔を上げると氷のように冷ややかな目が私を見下ろしていた。いつもは優しく細められるその瞳が、今は鋭い刃となって私の胸を抉る。拓也の冷たい目。その背後で、麻里奈が静かに微笑んでいる。さっきの猫のような目が、まだ私を狙っている。


「これに名前を書いてくれ」


 声は低く、感情の起伏を欠いていた。昨日までの平穏な日常が足元から崩れてゆくのを感じた。すべてが急に他人事のように遠のいていく。理由もわからないまま5年間の結婚生活に終止符を打てというのか。


 私は目の前に置かれたボールペンと印鑑、用意された朱肉を凝視した。朱肉の蓋が半開きで、小さな鏡のように光を反射している。


「......」


 沈黙が部屋を満たした。時計の秒針がカチカチと音を立てるたび、私の心臓が締めつけられる。拓也は窓の外を見据えたまま、唇を結んでいる。私は震える指で離婚届を手に取った。紙は意外に重く、指先に冷たさが染み込む。


――嘘だ。こんなもの、あるはずがない。


「マンションも売却する」

「理由を言って……納得出来ない限り、私はこれにサインしない」

「もう、君は必要ない」


 声が掠れる。指先が冷たくなる。「離婚」という単語が頭の中でぐるぐる回る。冗談だ。悪い冗談だ。


「俺たちは離婚する」


 言葉が胸の真ん中を鋭く突き刺した。息が詰まる。視界が揺れる。離婚届の緑の枠が異常に大きく、赤い印鑑が目に焼き付いて離れない。


 ――離婚?離婚する?


 震える手でティーカップを持つ。カップがカチャカチャと鳴る。琥珀色の液体に映る自分の顔が、知らない誰かのように歪んでいる。


 その時、麻里奈さんが明るく声を上げた。


「わぁ! 綺麗! これ、お義姉さんが作ったんですよね!」


 彼女は濃紺のリングケースを勝手に開け、サファイアのリングを自分の左手薬指に滑らせた。彼女の瞳が一瞬、勝利の色に染まった。指輪が光を反射する。私の指輪が、彼女の細い指で輝いている。胸が締め付けられた。私たちの5年間が、彼女の指で、まるで別の物語のように輝いている。


「似合うでしょ、お兄ちゃん!」


 麻里奈さんは無邪気に笑い、拓也に指を見せつけた。拓也は一瞬私を見たが、すぐに目を逸らす。その視線の動きが、胸に新たな痛みを刻んだ。私は喉の奥で何かが詰まるのを感じながら、声を絞り出した。


「麻里奈さん……それは、まだ渡していないものなの。外してもらえる?」


 声が震えている。情けなくて、涙がにじみそうになる。


 ――私の指輪を......勝手に。


 麻里奈さんは一瞬だけ唇を尖らせ、ゆっくりと指輪を外した。ケースに戻すとき、指先にわずかなためらいが見えた気がした。


「ごめんね、お義姉さん。綺麗すぎて、つい……」


 笑顔は変わらない。でもその瞳の奥に、一瞬だけ何か鋭い光が過ぎったように見えた。


 私が震える手で紅茶を差し出すと、麻里奈さんはそれを――まるで計算したように――乱暴に振り払った。琥珀色の液体がわずかに溢れる。


 その小さな波紋が、私の心に広がる亀裂のように見えた。テーブルの中央で、離婚届だけが、静かに、圧倒的な存在感を放ち続けていた。


「熱いっ!」


 紅茶は、麻里奈さんの指先を掠めた。


「麻里奈!麻里奈、大丈夫か!?」


 ティーカップは琥珀色の液体を撒き散らしながら床に落ち、粉々に割れた。紅茶のシミがカーペットにジワリと広がる。紅茶はもう温くなっている筈なのに、麻里奈さんは大きな声を出して顔を顰める。すると拓也は、麻里奈さんが大火傷でもしたかのように焦り、慌てふためき彼女の手を握るとキッチンのシンクで冷やし始めた。


「瑞穂!麻里奈の指に火傷の痕がついたらどうするんだ!」

「ご……ごめんなさい」

「祖父さんに叱られるのは俺なんだぞ!」


 祖父は養女に迎えた麻里奈さんを溺愛している。私がその様子を佇んで見ていると、拓也は『車の鍵を貸せ!』と声を荒げた。慌てて鍵を手渡すと、彼は麻里奈さんの指を保冷剤で冷やしながら、それをひきむしった。


「どこに行くの!?」

「病院だ!」

「まだ話の途中なのよ!?」

「麻里奈の傷の手当てが先だ!」


 そんな大袈裟に騒ぐほどのことでもないのに、拓也は異常なほど興奮していた。


「私たちの離婚の話より、麻里奈さんが大事なの?」

「くだらないことを聞くな!」


 振り向いた拓也の顔は、青白く血の気が引いていた。


「だって……そんな小さい火傷じゃない!」

「小さい傷だと!? こんなに痛がってるのに! 離婚届、書いておけよ! 分かったか!」


 拓也の声は怒りに震え、普段の穏やかな彼とは別人のようだった。


「大丈夫か!麻里奈!」

「痛いよ......」


 その間も麻里奈さんは、『痛いよ、痛いよ……お兄ちゃん』と涙声で拓也の胸に縋り付いていた。まだ小さな子供の頃ならいざ知らず、25歳になってもこうして甘える姿は、時折、悍ましさすら感じさせるものだった。


「――拓也!」


 早足で遠ざかる二人の足音が響く。エンジンが低く唸り、黒いBMWが急発進した。土砂降りの闇に溶けるように赤いテールランプが遠ざかっていく。私は涙を流すことすら忘れ、ただ呆然と立ち尽くしていた。


「…………」


 3月の冷たい夜風に背を押されるように、力なく玄関の扉を閉めた。リビングに戻ると、マホガニーのテーブルに紅茶のシミが滲んだ離婚届が一枚。静かに置かれている。


 ――離婚する?どうして?何があったの?


 視界が歪み、熱いものが頬を伝った。震える手で離婚届を持ち、拓也のサインに目を落とす。血のように赤い印鑑と、押し寄せる絶望感。私は、糸が切れた操り人形のように、力なくソファへと崩れ落ちた。

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