其の二 チャールズ・サミュエル・イビー
第2話目です。よろしくお願いします。
一
明治六年(1873年)。
明治新政府はキリスト教を解禁する。
カトリック、オーソドックス、そしてプロテスタントの各キリスト教派は、日本での布教活動を行う。
そんな中、プロテスタントのメソジスト派が、解禁直後のこの年に宣教師を日本へ派遣する。
メソジストとはイギリスで十八世紀に興ったものだが、当のイギリスよりも、現在に至るまで、カナダやアメリカ合衆国で主流の会派である。
カナダ・メソジスト協会は明治六年を第一陣として、明治九年(1876年)に第二陣の宣教師を日本へと派遣した。
この第二陣の宣教師として、自ら募集に応じた、カナダはオンタリオ州出身のチャールズ・サミュエル・イビー(Charles Samuel Eby)が家族と共に、日本は横浜の地に同年九月八日に、長い船旅にて到着する。
翌明治十年(1877年)。
イビーは山梨県睦合村(現在の南巨摩郡南部町)の近藤喜則(1832年~1901年)に招かれ、彼の私塾である「蒙軒学舎」で英語、西洋史、そして当然聖書を講じていた。
甲府を初め、山梨では次々に英語塾が開かれ、イビーはこれらの塾の講師として活動する。
山梨の人々は大層イビーを尊崇していた様だ。
何しろ「このまま山梨に永住して下さい」、と頼み込んだ程である。
この一事だけでも、イビーが単なる宣教師でなく、人間的に尊敬できる人格者だったことが窺える。
可哀想なことに、イビーの幼い息子は日本到着の翌年に病で死去してしまったが、イビーの妻も娘も日本を、山梨をすっかり気に入ったらしい。
二
明治十一年(1878年)。
イビーが甲府で行う日曜の礼拝では、百人を超える人々が集まっていた。
これが、現在の日本基督教団甲府教会の始まりとされる。
彼はほぼ山梨全域で活動していた。
そんな中、ある男が翌明治十二年(1879年)の三月十六日に、イビーとの面会を求めて甲府に現れた。
結城無二三である。
無二三を見たイビーは直感的な衝撃を受ける。
「この者は、若しや神が私の日本での布教を助ける為に、選別なさった人なのか……!?」
こうして聖書の教えを詳しく知りたい無二三とイビーの対話が始まった。
確かに、神の意志なのか。
奇遇にも両者は同じ弘化二年(1845年)生まれ。
両者の会話は日本語を主として行なわれた。
イビーが日本行きを決めてから、先ず始めたことは日本語の勉強で、日本人相手に英語教師をしていたのだから、彼の日本語能力は決して低くは無かった、と思われる。
また、無二三も全く英語を知らない、という訳で無く、時に互いに英語で補いながら、無二三は熱心にイビーの話を聞く。
話しの途上。イビーは無二三に「何故、あなたはキリストの教えを受けたいと思ったのですか?」と尋ねる。
無二三はあの隠者生活での一家の全滅を免れた奇跡を答えた。
イビーは更に不思議に思う。
「如何してあなたがた家族は、其の様な人里離れた山奥で暮らしていたのですか?」
「はっ、これは語れば長く為ることですが……」
こうして無二三は、自身の半生を語り始めた。
其の二 チャールズ・サミュエル・イビー 了
続きます。
この回と前回の1話目が、いわゆる「プロローグ」ってやつになっています。




