其の十六 日露戦争、日比谷焼打事件
16話目です。よろしくお願いします。
一
明治三十五年(1902年)九月。
結城禮一郎は長野の信濃毎日新聞から東京の國民新聞に戻る。
以前の横浜支局の話は流れてしまったが、禮一郎の家族の事情を知る徳富蘇峰が色々と提案する。
「社としては特別な給与を君には出せないが、何とか工夫して御父君たちを東京に暮らせる様に便宜を図る」
禮一郎は蘇峰の様々な提案を纏めた手紙を、大積寺の父の無二三の元へ送るが、無二三の返信の内容は意外な方向から来た。
「抑々、お前はもう妻帯する身だ。妻帯して家族が出来て、其れでも未だ余裕が有る、と云うのならお前の世話と為ろう」
続けて、この様に自身の心配をしてくれる國民新聞社を裏切らない様に注意もする。
「家族を引き取りたいから、と國民新聞社より高い給与を出す処へ行こうとするな。その様に身を売って金を稼げのは人間を卑しくする。此処の暮らしも楽に為った。桑が売れる。麦が獲れる。味噌を造り醬油を搾った。買うのは米と塩と砂糖だけだ。皆薬も要らぬほど丈夫だ」
禮一郎は大積寺へ家族の様子を見に赴いたのだが、確かに困窮生活では無かった。
無二三は有らん限りの御馳走を用意して息子を歓待する。
禮一郎は赤子の時しか居なかったので、ある意味この大積寺は初めて訪れた場所である。
帰京する際に禮一郎は韮崎に寄る。
此処で彼は小学校を卒業した。
当時、父の無二三は「島屋」と云う店の持家を借りて、其処を講義所としていた。
「あなたはひょっとして結城禮一郎さん……?」
禮一郎と同じ程の年齢の女性が声を掛けて来る。
「そうですが……。あっ!」
そう島屋の娘で、当時禮一郎と仲良くしていた少女の成長した姿。
禮一郎も彼女を思い出し、二人は暫し昔話に花を咲かせる。
明治三十六年(1903年)四月。
結城禮一郎はこの島屋の娘と結婚をする。
家族は呼べなかったが、禮一郎の提案で次男の康造を引き取ることに為った。
東京での暮らしは禮一郎夫婦と弟の康造。
康造は昼は神田の学校に通い、夜は國民新聞の発送部で働く。
二
日露戦争(1904年二月~1905年九月)。
結城禮一郎は、戦端が開かれると満州へと従軍記者として派遣される。
妻は実家の韮崎に一旦帰省し(此処で長男の慎太郎が生まれる)、弟の康造は國民新聞社のとある社員の世話と為る。
明治三十七年(1904年)末に禮一郎は東京に帰ってきたが、程無く佐世保へ出張。
続いて又大陸に渡り、芝罘(現在の山東省煙台市)から大連へと取材を続ける。
この戦争の終結は、周知の様に日本側の勝利だが、より著名なのは講和条件に満足しない人々が暴徒化したことだろう。
明治三十八年(1905年)九月六日。
日比谷公園で講和反対の決起集会が行われ、其れが遂に暴徒化し、東京市の各地が焼き討ちや破壊の対象と為る。
國民新聞社も其の対象であった。
禮一郎を初め実際の激戦下の戦場を取材させ、既に日本がこれ以上の交戦継続が不可能だと知っていた國民新聞は、継続不可を隠避する形で、「引き際が大切なのである」とポーツマス条約を支持する立場を表明していた。
これが講和反対者たちからの敵視を集めてしまった。
他の大手新聞各紙はポーツマス条約に対して、反対と戦争継続の論陣を張っていたからだ。
講和後に東京に戻っていた禮一郎は、社に三日間籠って暴徒たちとの対応に追われる。
戒厳令が敷かれ、近衛師団が鎮圧に当たり、この騒動は収まって行く。
國民新聞社も大いに破壊されたが、幸い犠牲者は出なかった。
これを聞きつけた無二三は単身大積寺から、國民新聞社を訪問する。
息子たちである禮一郎と康造の無事を確認することもあるが、無二三は國民新聞の社員たちの激励に来たのだ。
三
「日本中が志士などと呼ぶ、あの様な暴徒共に屈せず、新聞を休まずに発行していたのは素晴らしい! 皆様、良くぞ戦ってくれました!」
大積寺の山中に居る無二三からすると、この日比谷焼打事件に参加した首謀者や民衆たちは、あの幕末の京都での尊王攘夷志士らと変わらぬ、只の賊徒にしか思えなかったのだ。
國民新聞の社員たちは、ちらほらと無二三を見ては、「あれは東三郎だ」、「結城君の親爺さんの東三郎だ」との囁き声を出す。
徳冨蘆花(徳富健次郎、1868年~1927年)。
蘇峰の実弟で小説家。
彼は國民新聞で「黒潮」と云う連載小説を書いていた。
これは一種の社会派小説で、暗に明治新政府を批判する内容である。
「東三郎」とは甲府浪人で徳川の旧幕臣。戊辰戦争では新撰組の近藤勇と共謀して、勝沼への戦いに身を投じるも敗れる。
維新後も「東三郎」は、明治新政府に敵対的な生涯を貫く人物として書かれていたので、「結城無二三」がモデルではないか、と掲載時から言われていた。
禮一郎は蘆花と直接親しくは無かったが、恐らく兄の蘇峰が禮一郎から聞いた無二三の経歴を、弟にこっそりと教えていたのであろう。
其の國民新聞の主宰の徳富蘇峰が無二三に直接礼を述べる。
四
「結城先生、もう御上京なさって、息子の禮一郎君と共に住むべきではありませんか?」
「徳富先生、いやいや未だ私は遣ることが沢山有ります」
そう言って、無二三は大積寺へと帰ってしまう。
其の帰り際。
無二三は禮一郎に言葉を掛ける。
「禮一郎、お前は俺と違って軍人では無かったが、あの激戦下の取材をすると云うのは、並みの胆力では出来ぬことだ。俺は若い時には戦に明け暮れていたが、お前が体験した戦争とは規模が違う。お前はあらゆる面で俺を超えているよ」
其れは、禮一郎を真に一人前と認めた言質。
明治四十年(1907年)。
遂に結城無二三は大積寺から一家揃って、渋谷に住む禮一郎の世話に為ることを受け入れた。
あの大積寺の周辺の田畑は、他の希望者に遣らせても全く問題が無い様に仕上げたので、老境の無二三は余生を長男の元で過ごすことに決めたのだ。
時に結城無二三。六十二歳。
当時の感覚なら、完全に老人であり、彼の肉体は未だ頑健さを残していたが、髪や髭は真っ白であった。
其の十六 日比谷焼打事件 了
続きます。
日露戦争では、カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムがロシア軍の将校として参戦していました。
マンネルヘイムについては、私の去年の「秋の歴史2024」の「ルドルフとアドルフ」でちょっと出しています。
あと2話ですが次が事実上の最終回です。




