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其の一 耶和華

秋の文芸展2025の参加作品ですが、この秋の企画ものは、これからも「秋の歴史」として頑張ります。

ご一読よろしくお願いします。


 山梨県のとある人里離れた山中。

 其処に在る大積寺(だいしゃくじ)なる廃寺にて生活する者たちが居た。


 此処に住む者たちは、結城無二三(ゆうきむにぞう)と其の妻のマツ、そしてこの年(明治十一年、1878年)に生まれた長男の禮一郎(れいいちろう)


 後は、作男と猫が一匹、そして二頭の牛。


 結城無二三。彼は数年前からこの山中で、一家を引き連れ、自給自足の隠者生活をしていた。

 無二三は弘化二年(1845年)生まれ。

 所謂満年齢だと、三十三歳の若さである。


 作男と共に農業や畜産に精を出していたが、人里離れた山中とあって、中々に成果が出ない。

 因みに畜産は無二三が熱心に学んだ物の一つで、彼の生涯の一面を見ると、「生涯学習」とも云うべき様々な学問を摂取していた。


 不思議なのは連れた猫。

 名が知れぬのが惜しいのだが、ほぼ毎日、この猫は鼠では無く、主人の為に兎を狩ってくれた。

 兎は「一羽」と数える様に、明治以前からの日本人の貴重なタンパク源の一つだ。


 結城一家はこうして飢える事は無かったのだが、この年の冬、さすがに降雪が多く、食べ物に難儀しそうなので、無二三は作男を食糧確保の為、山中から里へと送り出した。


 程無くして、妻のマツが病を得て高熱を発する。

 無二三は懸命に妻を看病をする。

 彼は医術の知識を持っていたからだ。

 いや、抑々彼は医師を目指していて、中途で放り出したていた。其の話の詳細は後々としよう。


 妻は快癒せず、生まれたばかりの赤子も泣き止まない。

 遂には無二三自身にも妻の病がうつって、同じく高熱を発した。

 雪深い中。作男が里から戻って来るのは困難だ。

 無二三は、自身の死。いや一家の全滅を覚悟した。



 熱に苦しむ中、無二三はとある漢籍を手に取る。

 漢文も無二三が幼少の頃より学んだものだが、荘子を始めとする漢籍の中から、無二三が手に取って読んだのは、中華の伝統的な書籍では無かった。


 其れは漢訳聖書である。中にはこの様に在った。

 恐らく「詩編」の一節を解釈した箇所と思われる。


耶和華(エホバ)は全知全能の神為り。其の名を唱え祈れば、汝の願いを聞き届けて下さる」


 藁をも掴む思いで、無心に無二三は「耶和華」の名を唱え、只管祈った。

 そして、不思議なことに、無二三の熱は引き、妻も回復し、赤子も泣き止みすやすやと寝ている。

 驚き感激する無二三は呟く。


「これは将に奇跡だ……」


 作男も無事に戻り、一家は寺のお堂にこの漢訳聖書を祀り、日時を決めては拝み祈り、そして祈りの時間外には、無二三はお堂の聖書を取り夢中に為って貪り読む。

 其の様子を見た作男が言う。


「旦那さま。里で聞いた話ですが、多分この教えを広めている異人が甲府に居るそうですよ」


「……よし、其の御方に真の教えを習いに行こう」


 無二三の頭の中には、最早この「耶和華」の教えでいっぱいである。

 こうして結城無二三の隠者生活は終わりを告げ、一家は住まいの大積寺を後にして、下山する。

 翌年の明治十二年(1879年)の三月頃であった。


其の一 耶和華 了

続きます。

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