1.逆行
「うーん?」
私はふかふかのベッドの上で目を覚ましました。朝の日差しが、部屋中に並ぶ高価なカーテンの隙間から差し込み、天井に描かれた美しい壁画を照らしています。甘い花の香りが漂い、そばにはシルクのクッションが散りばめられたソファが置かれていました。
ベッド脇には、きらめくクリスタルのランプと、昨夜の夜食の残りが載った純銀のトレイ。食べきれないほどの甘いお菓子も置かれています。部屋の奥では、調度品に囲まれた大きなドレッサーが優雅に佇んでいます。
そのとき、ガチャリと扉の音がしました。誰かが、私の部屋に入ってきたようです。
「おはよう。リュミエール」
柔らかな声が、耳にとどきます。私に気さくに話しかけてくるのは一人だけです。
艶ある美しい黒髪、優しい瞳と凛とした佇まい、ああなんて素敵なんでしょう。
この国の王であるエドヴァン・シャルディアが私のベッドの縁に腰掛けました。
「おはようございます。旦那様」
「旦那様だなんて、気が早いな。婚約は随分早くしていたが、正式な結婚式は来月だろう」
旦那様の声には、どこか笑みが含まれていた。それが、余計に現実感を伴わせて――私を困惑させる。
「えっ。でも……私たちは先月結婚して……」
そこまで会話して、思い出しました。
夢よりも遥かに鮮明な記憶を。
旦那様が、骸となって帰ってきた夜のことを。
あの冷たい手の感触、部下たちの悲痛な表情……。すべてが心をえぐるように思い出されます。
「いやぁあああああああああ」
突然の記憶の奔流に、私は信じられないほどの叫び声をあげました。
「どうした! リュミエール」
旦那様が、驚きの表情を浮かべながらも、泣き叫ぶ私を抱きしめてくれました。
確かに体温を感じます。生きている感じがします。自分の記憶との乖離がよけい心をかき乱します。
今のこの光景を現実だと信じられない自分がいます。
自分の抱えている記憶が夢とは思えません。
「なにがあったというのだ」
「それが……」
私は、自分の抱えている記憶を旦那様に話して聞かせました。
私たちは、先月結婚したこと。
そして、結婚してひと月後、魔王に殺された旦那様が骸になって帰宅したこと。
そのあと、光の奔流に飲み込まれて、気づいたらベッドで寝ていたことを。
「つまり、君は時の流れを逆行したということか」
「そ、そういうことになりますね」
「多分、魔法が発動したのだろう」
「魔法……」
「状況から推察すると君が魔法を発動させたとしか思えないが、逆行したとき魔導具は持っていたか?」
魔法とは、魔導具に魔力を込めることによって、現実の法則を超えた現象を引き起こされることをいいます。
「多分、これです」
私は、旦那様に祖母の形見であるペンダントをわたしました。
旦那様はそれを手に取り、目を細めながらしばらく観察した後、そっと魔力を込めてみせました。
「ダメだな。私の魔力では発動しないようだ」
旦那様は軽く眉をひそめた。
旦那様によると、魔力にも種類があり、魔力に一致した魔道具でないと魔法は発動しないとのことです。
「でも、私には魔力なんてありません」
「魔力は心から生まれる。きっと、私が死んだことで君に魔力が生まれたのだろう」
確かに、あの時絶望が心を覆いつくした時、内側からものすごい力を感じた気します。
ただ今は、何も感じません。
「それにしても、魔王か」
「はい」
旦那様が言うには、現魔王とはサンヴァ―ラ王国の女王ニルナ・サンヴァ―ラのことを指すようです。
私も名前といろいろな噂を聞いたことがあります。
数多くの勇者を殺し、隣国を侵略し、恐怖と絶望を振りまく存在……。
そんな魔王が、ついに我がシャルディア王国も侵略しに来たということでしょう。
「ただ来ることが分かっているのなら、対策もできよう」
旦那様の声には、冷静な決意が込められています。それは私に、わずかに安堵をもたらしました。
「あなたは、私の記憶のことを信じてくれるのですね」
「ああ、もちろん愛する君の言うことだ。信じるよ。ただそうなると、結婚式は延期せざるをえないな」
「……そうですね」
旦那様は不安そうな私の手をそっと握りながら、優しく微笑んだ。
「君がそばにいてくれるなら、どんな未来だって怖くはない」
私は旦那様の言葉に頷きながら、望む未来を必ず掴み取ると、心に深く誓うのでした。