一、銭市場、閉店の噂
一、銭市場、閉店の噂
美根我と逗子が、商店街の通りを歩いて居た。そして、銭市場の店先へ差し掛かった時だった。
「奥様、ご存知かしら、あの噂を?」と、買い物籠を持った通りすがりの婦人へ、赤地に、金糸を誂えた着物の老婆が、声を掛けて居るのを視認した。
その瞬間、「ええーっ!? そうなのですの?」と、婦人が、素っ頓狂な声を発した。そして、「皆に、知らせなきゃ!」と、踵を返して、突っ掛けが脱げるのも気にしないで、走り去って行った。
「せっかちですね~」と、美根我は、面食らった。内容も聞かないで、駆け出したからだ。
「あの人、そそっかしいので有名な座来江さんよ」と、逗子が、耳打ちした。
「戦時中は、見掛けませんでしたねぇ」と、美根我は、眉間に皺を寄せた。あれだけ個性的だと、記憶に残っているからだ。
「最近、疎開先から、戻って来たみたいよ」と、逗子が、告げた。
「なるほどね」と、美根我は、納得した。疎開して居たのなら、見掛けなくても、当たり前だからだ。
そこへ、短髪の中年店員が、銭市場の奥から現れるなり、老婆に詰め寄った。そして、「おい、ババア! 店先で、変な噂を流してんじゃねぇぞ! コラァ!」と、凄んだ。
「はて? 何を言って居るのかのう? 最近は、物忘れが早くてな」と、老婆が、惚けた。
「この街は、燃爆の所為で、頭のおかしい奴ばかりだぜ…」と、ぼやいた。
その直後、「キェー!」と、老婆が、右手で、中年店員の左の頬へ、ビンタを食らわせた。そして、反転するなり、通りを駆け抜けた。
「早っ!」と、美根我は、老婆の逃げ足の速さに、感心した。外見とは裏腹に、健脚だからだ。
程無くして、模罹田が、現れるなり、「副店長、何を呆けて居る! ババアは、どうした?」と、問うた。
「に、逃げられました…」と、副店長が、呆けた顔で、返答した。
「ちっ!」と、模罹田が、舌打ちをした。そして、「副店長、ぼやぼやしていないで、戻るぞ!」と、踵を返した。
少し後れて、「は、はい〜」と、副店長も、続いた。
程無くして、二人が、店内へ消えた。
美根我は、逗子を見やった。先日の件が、脳裏を過ぎったからだ。
「あ、あの、後から来た人…」と、逗子が、怯えて居た。
「模罹田に、何かされたのかい?」と、美根我は、やんわりと尋ねた。何かをされたのは、明白だからだ。
「お腹を…二回…叩かれた…」と、逗子が、おどおどしながら、回答した。
「何だとぉーっ!」と、美根我は、激昂した。大事な娘を痛め付けられた事が、許せないからだ。そして、「あの野郎! 私が、ぶん殴ってやる!」と、息巻いた。噂の前に、自らの手で、決着を付けてやろうと思ったからだ。
そこへ、茶色い背広の男が、立ちはだかり、「モーフォッフォッ。お父さん。ここは、落ち着きましょう」と、宥めた。
「そうよ。あたいだって、飛び掛かりたかったけど、怖くて、足が動かなかったんだよ…。それに、殴り込んだら、お義父ちゃんが、犯罪者になっちゃうんだよ!」と、逗子も、口添えした。
その瞬間、美根我は、我に返り、「つい、頭に血が上ってしまって…」と、苦笑した。模罹田を殴ったところで、現時点では、一方的な暴力でしかないからだ。
「モーフォッフォッ。間一髪でしたね〜」と、茶背広の男が、胸を撫で下ろした。そして、「冷たい物でも飲みまして、頭を冷やしましょう」と、提案した。
「そ、そうですね」と、美根我も、賛同した。ここは、一度、離れた方が良いからだ。
「じゃあ、良い店を知って居ますので、ご案内しますね」と、茶背広の男が、先立って、歩き始めた。
少し後れて、二人も、付いて行くのだった。