新たな声がまたラジオから
起こりえたかもしれない、一つの仮定として読んでいただければ幸いです。
北朝鮮からの宣伝放送がやんだ。
何らかの理由によって元担当者、西尾正が解約されたのだ。彼は去年3月に拉致されてから、ずっと北朝鮮で殺されないよううまくふるまっていたのだ。が、それも今月までの話だった。
新担当者の声は、堅苦しく、生気のない、典型的な日本人教授の声であった。
第一回の放送で、その男は自分のことを「人民共和國全土にふたたびみなぎる活気」に相当するくらい気が若い人間だと言ったが、そのために、教授らしい口ぶりとあいまって、たちまち臆病先生というあだ名を付けられるにいたった。
*
悲しいことに、こうした人間が天涯孤独だったためしがない。
新潟州にあるひとつの家で、高橋歩美が北朝鮮からの宣伝放送ーー通称、平壌放送にダイヤルを合わせたとき、姑は座布団の上で編み物をしていた。編んでいる靴下は前線の政府軍に寄付するためのものだ。陰気ではあっても居心地がいいその家が面していた通りは、雪に覆われた木が続く並木道で、隠居した老人たちの足音しか聞こえない。高橋歩美はそのときのことを生涯忘れることができなかった。幹線道路を吹き抜けて灯火管制が敷かれた家の窓に叩きつける風。上機嫌で編み物をしている姑、そしてすべてがこの瞬間を待ち構えているという雰囲気。まさしくそのとき、ラジオからーー平壌放送から声が流れ、姑が「あれは茂よ」と断言したのである。
歩美は「まさか」と望みなき返事をしたが、内心ではそうでないとわかっていた。感じた、といったほうがいいかもしれない。
「あんたが亭主の声を忘れても、あたしにゃ自分の息子の声くらい分かるんだよ」
ラジオの声は、ひたすらしゃべり続け、何度聞かされたかしらないいつものでたらめを繰りかえしていた。
姑は編み物の手を休ませていた。「みんなが書きたててる男だろう? 臆病博士だとかなんとか」
「そうね」
「あたしの息子だよ」
声は黙々と北朝鮮の政治情報、中国が味方についたとか、遊園地があるとかを、事細かに語っていた。歩美はラジオを切って姑のそばにいった。
「世間はあれが誰か知りたがるだろうよ」と姑。その目は意地悪くすぼんでいる。
「教えちゃいけない」と歩美。
姑の指がふたたび靴下の下でうごめいた。「義務だからね」義務なんて老人病だと歩美は思った。人と人との絆の力を感じなくなり、しまいには愛国心と増悪の波に押し流されてしまうのだ。
歩美は言った。「あの人、きっと無理にやらされてるのよ。ええ、きっとそうよ」
「そんなことは問題じゃないよ」姑が冷たく言い返す。
歩美は、弱々しく独り言を口にした。「こんなことになる前に帰ってこれればよかったのに」
「電話をかしておくれ」と姑。
「いけないわ、通報なんて。もし私たちが勝ったら、反逆罪で裁判にかけられるかもしれないのよ」
「ええ、そうでしょうとも」と姑。
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記者会見が行われ、高橋茂の前歴に関するちょっぴり揶揄をこめた小記事が出た後も、彼のあだ名は変わらなかった。戦争がおこりそうだと前々から知っていて、北朝鮮に行ったのも兵役を逃れるためで、妻と母親とを爆撃下に置き去りにしたのだと、今では憶測されるようになっていた。
歩美は、無駄と知りつつも必死になって、夫が脅迫や拷問によって強制的に宣伝放送をさせられてるかもしれないということを報道陣に認めてもらおうとした。
が、その結果は、たとえ脅迫されたにしろ、高橋茂はきわめて反英雄的な行為をとったと1紙が書いただけだった。
我々は英雄を稀な人間として賞賛するが、そのくせ英雄心に欠ける人間がいるとついこれを非難してしまうものである。
かくして臆病先生というあだ名は定着した。
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しかし歩美を最も苦しめたのは姑の態度だった。姑は毎晩九時十五分になると、歩美の傷口に熱したナイフをねじ込んでくる。ラジオは毎晩必ず、必ず平壌放送にあわされた。
姑は腰かけて息子の声を聞きながら、片目で歩美の充血した目をじろじろと、じつに嬉しそうなようすで眺めているのだ。ろくな服も着せてもらってないかもしれない息子の声を聞きながら、北緯三十五度線上で戦う、誰だか知らない兵士のために暖かい靴下を編み続けるのだ。
歩美にはこうしたすべてが不可解だった。とりわけ、嘘を延々としゃべっている夫の声が。今では街中に出るのも怖かった。図書館では老人たちがこちらを覗き見ているし、商店街の真ん中で怒鳴られたこともある。
「この人、臆病先生の妻ですよ!」そしてけたたましい笑い声!
ときどき、夫を憎むことさえあった。どうして茂はわたしをこんな目にあわせるの?
どうして?
*
そして思いがけなくも、彼女はその答えを知った。
あるとき、ラジオは珍しいことを口にした。「日本のどこかで、わたしの妻がこの放送を聞いているはずです。ラジオをお聞きの皆さんは私のことをご存知ないでしょうが、わたしが嘘をつくような人間ではないことは妻がよく知っています」
自分だけに語りかけられるのには耐えられなかった。彼女は泣き出して、ラジオのそばにすがった。修理の使用もないほどめちゃくちゃに壊れた人形のように。姑は何も言わず、ただ明美を見ているだけだ。その目には嘲りの色が浮かんでいたことだろう。
夫は彼女のすぐかたわらにいるかのように語りかけていたが、今では別の惑星みたいに遠くて手が届かない国にいるのだった。
「実のところ……」
講義でここは大切だぞ、と強調するみたいにゆっくりとこう言ってから、彼は話を続けた。主婦の生活に関する事柄を。食料品の安い値段、店に肉がどれくらいあるかという話。彼は詳細にわたり、数字をあげ、マンダリンオレンジだとかおもちゃのシマウマだとかいった唐突で無関係に思えるものを話題にした。あそらくは贅沢な品がたくさんあるという印象を与えるためなのだろう。
しかし突然、歩美は突然、高橋歩美は眠りからさめたようにぎくりとして座り直した。「書くものはどこ?鉛筆は?」と言って探しているうちに、彼女は配給品の米の袋を引っくり返してしまった。走り書きを始めたら、もはや声の主は「熱心なご愛聴を感謝します」と言っており、平壌放送はとだえた。「遅すぎた」と彼女は言った。
「何が遅すぎたんだい?」と姑が厳しい口調でたずねた。「なんで鉛筆が要ったんだね?」
「ちょっと思いついただけ」と歩美は答えた。
*
翌日、彼女は地方自衛省の暖房のない寒い廊下をあちこちと案内された。奇妙にも、高橋茂の妻だということがここでは役に立った。たとえ、それが好奇心と多少の同情を呼びおこしたからにしても。しかしもう同情はごめんだった。そしてやっと彼女は目指す人物にたどり着いた。
その人物は非常に丁寧な態度で話に耳を傾けてくれた。軍服でなく、上等のスーツを着ていた。歩美が話し終わると彼は言った。
「かなり途方もない話ですなあ、高橋さん。もちろん、あなたにとって大変なショックだったとはお察ししますが、今回のご主人の、その、何と言うか、なさったことは」
「わたしは誇りに思っています」
「以前あなた方がそういう暗号を使っておられたというだけで、本当にそんなことを信じておられるとでも?」
「主人が出かけていて、『実のところ』と電話してきたら、それはいつも『ここから先はまったくの作り話だが、これからしゃべる言葉の頭文字をつなぎ合わせてくれ』という合図なんです。それでどれほど主人が退屈な週末を過ごさずにすんだか、中佐、あなたに分かっていただけたら、というのも、ほら、いつでもわたしに電話できるでしょう? たとえそのお宅のご主人いる前でも」彼女はもはや涙声だった。
「そうしたら、私が主人宛にメールを打つんです……」
「なるほど、それにしても……今回はなにも得られなかったのでしょう?」
「遅すぎたんです。鉛筆がなくて、これだけなんです。訳がわからないのは承知してますけど」彼女は紙切れを机の向こうにさしだした。「〈シマミナミ〉。偶然なのかもしれませんけど、たしかに何かの言葉みたいに見えるんです」
「奇妙な言葉ですな」
「ミナミ、って方位の南のことじゃないかしら」
スーツを着た将校が、まるで新種のキジでも眺めるように、その言葉をいかにも興味深げに見つめていることに彼女は気づいた。「ちょっと失礼」と言って彼は席を外した。別の部屋で誰かに電話している様子だった。ベルがかすかに鳴る音、沈黙、そして聞きとれない低い声。それから中佐が戻ってきたが、その顔から万事解決したことがうかがえた。
中佐は着席して万年筆をもてあそび、見るからに気恥ずかしそうな様子だった。何か言いかけて言葉をのみこみ、それから申し訳なさそうに声をつまらせてやっとの思いで言った。「ご主人になんとお詫びしてよいやら」
「何かの言葉でしたの? 教えてください」
明らかに中佐は厄介で異例な事柄ををどう処理していいかと考えあぐねているところだった。彼は外部の人間に機密を漏らしたことがなかったのだ。しかしそれを言うなら、歩美はすでに外部の人間ではなくなっていた。
「高橋さん。ぜひお願いしたいことがあります」
「ええ、ええ。なんなりとおっしゃって下さい」
中佐は決心がついたらしく、万年筆をもてあそぶのをやめた。「今朝二時、対馬が、おっしゃっていたように、南側から攻撃されました。つまり、〈対馬南〉ですよ。もしご主人の警告を事前に入手しておれば、駆逐艦隊を派遣できたんですが。実はさきほど海自省と話をしておりまして」
高橋歩美は声を荒らげた。「新聞は主人の悪口ばかり書きたてて。みんな、これほど勇気がないくせに」
「そこが申し訳ないところなんですがね、高橋さん。新聞には書き続けてもらわないと困るのです。こちらとあなた以外の誰に知られても困るのです」
「主人の母親は?」
「たとえお母様であろうと、おっしゃってもらっては困ります」
「せめて主人の記事が出ないようにしていただけませんか?」
「今日の午後、わたしは各社に対してキャンペーンを強化するように要請するつもりです。同情意見をおさえるためですが、反逆罪の法的解釈についての記事を書かせます」
「もしわたしが黙っていられないとしたら?」
「ご主人の生命がどうなってもいいとおっしゃるのでしょうか?」
「とすると、このまま放送を続けるよりないんですの?」
「ええ、このまま」




