異世界チーレムと『西部戦線異常なし』
なろうの中で人気があるジャンルというかテンプレートの異世界チーレムが私はあまり好きにはなれない。そんな私も読んではいる。通勤通学の途中に気楽に読めるからである。さておき。この文章では何故私がチーレムが好きになれないかを自分の蔵書の中で好きな小説を1つ上げて考察しようとしたものだ。
さて、その前に異世界チーレムの勝手な分析を述べよう。異世界チーレムは、『普通な生活』を『転生・召喚』等の外力によって打破し(というか普通な生活を送っている人物が自力で出来て堪るか)、反則とも言える『強い能力』を得て、それらを駆使して『大なる敵』を撃砕すべく活動し、その間に多くの婦女を助けて『ハーレム』を築くのである。この分析はまちがっては居るまい。違うならご教示願いたい。
このような話が何故人気かと言うならば、まず、
『主人公(自分)』でなければ倒せない敵方がいる。また、愛してくれる複数の婦女が居る。つまりは『主人公(自分)』が必要とされるからであり、また退屈な日常を打破したいと云う欲望も果たせる。強くなりたいという点でもカタルシスを感じられるからであろう。
一方で私の愛読書である『西部戦線異常なし』はどんな話だろうか。これは愛国少年の学生が冒険を求めて軍に入り、教官に苛められ、そして前線で塹壕の底で冒険的なことの現実(というかそもそも第一次大戦前の戦争はまだ牧歌的であったから、冒険を求めて軍に入ろうと思ったようなものである)を知り、また圧倒的な戦場の苦しみの中で、学生の頃に好きだったものに対する情熱を失い、親に対する感情さえおかしくなり、そうして最後に、彼が死んでも、西部戦線異常なしとしか報告されないのである。ちょうど真逆の物語である。第一次大戦後の戦争文学は大抵こういった無力感がある。
私は異世界チーレム物よりも先にこの『西部戦線異常なし』を読んでいた。 だからだろう。どうしても異世界チーレム物に対して、泥な成分が足りない、何故主人公が変わらないのかと考えてしまう。戦闘中の苦悩や、恐怖。そういった泥な成分がないと、何か嘘臭く見えてしまうし、無力感がない人間などいて堪るかとすら感ずるのだ。
しかして、私は考える。誰も好き好んでこんな無力感をお話の中では味わいたくは無かろうと。今の会社員は、ちょうど第一次大戦のときの兵士と同じで、幾らでも代わりが居るという、本当に自分が必要性あるのかという無力感がある。何が悲しくてお話の中でも、自分が必要とされない状態を望むのかと。
要はこれらは好みの差でしかあるまい。その中で、泥な成分を求める自分が一体どうしたら良いのか、今掴めないで居る。
この文章に対する反論だろうが間違いの指摘だろうがどんと来い!というか来てください。泥な成分