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胸元のバイブレーションに気がついたのは、きっとそれが三回ほど振動してからだった。はたと我に返り、慣れた手つきでスマホを耳に押し当てる。視線は目標を定めたまま。
「…もしもし」
「ーあっ、阿出野さんやっと出た!!僕です、冴木です!今どこにいるんですか!」
受話器の相手方の声の大きさに思わず顔をしかめる。スマホをやんわり耳から離して、"かつて"の勤め先の我らが事務、冴木の焦り面を思い浮かべると、つい最近のことすら妙に懐かしく感じた。
「…どこにも」
「ふざけないで下さいよ!辞職願提出したって本当ですか!出勤するなりみんなざわついてるから何かと思ったら…田賀谷さんもいなくなっちゃうし!ちょっと自分が何したかわかってます!?誰にも何も言わないし、仕事の引き継ぎも出来てないからって他の人カンカンですよ!」
「…」
「阿出野さん聞いてます!?」
「聞いてるよ」
食い気味で返した言葉に、理不尽さを感じた。無責任だ。何を考えてるんだ。我ながらつくづく、そう痛感していた。
ただならぬ空気を感じ取ったのだろうか。それきり、受話器の向こうは静かになった。数秒おいて、落ち着いた声が届く。
「…何を、しようと考えているんですか」
「…」
「阿出野さん」
強調され、目を閉じる。
「…一つ、頼まれてもらっていい?」
揺るぎない決意だった。やんわり、出来るだけいつも通りに。飄々とした口ぶりで呟いた一言に、電話越しで冴木は、しばらく間を置いてから小さく。はい、と応えた。
「案外タフだね」
翌日、市内のとある喫茶店。私からの連絡を受け待機していた田賀谷さんは、待ち合わせ時間5分前に到着し着席した私にそう言った。
「教えて下さい、阿出野のこと」
「教える教える。でもちょっと待っていますごくいいとこだから」
そう言って、ブラックコーヒーを片手にそのカフェのモーニングメニュー・エッグマフィンを上品に口に含むと、田賀谷さんはたまらない、とでも言いたげに身悶えした。