和葉の事情。6
病院の霊安室。
一人の女性が白い布で顔を隠し、横たわっていた。
俺はただ何も考えることも出来ず、立ち尽くしていた。
「お兄ちゃん。」
一足遅れて美咲が部屋に入ってきて、俺の横に来て手を握られる。
「誰? この人。」
白い布で顔が見えないためか、美咲はそんなことを聞いてきた。
「…母さんだよ。」
「お母さん?」
「そう…。」
ボーっとしながら美咲の質問に淡々と答えた。
でも、次の美咲の一言は俺を覚醒させるには充分な一言だった。
「美咲にもお母さん、いたんだ。」
「え…?」
驚いて美咲を見た。
美咲は俺の視線の意味がわからないまま、ニッコリ笑ってみせた。
「それよりお兄ちゃん。美咲、さっきお菓子売ってる所見つけたんだよ。一緒に行こう?」
無邪気に笑って俺の手を引く美咲。
幼い美咲が、人間の死を理解するのはまだ難しい。
でも、死んだのは自分の母親だ。
だけど美咲は、自分の母親の存在すら知らずにいた。
一緒に、狭いアパートの一室に、一緒に暮らしていたにも関わらずだ。
その時、自分の中の何かが凍りついた気がした。
「ちょ…ちょっと、君?!」
冬子の驚いた声に現実に引き戻された。
「どうしたの? 大丈夫?」
冬子は俺に近寄り、心配そうな顔をする。
どうして冬子がそんな顔をしてるのか、わからない。
「…もしかして、自分が泣いてるの、気付いてない…?」
「へ?」
自分の顔に手で触れると、手が濡れた。
なるほど。たしかに自分は泣いているようだ。
「…なんで泣いてんの、俺?」
「それは私のセリフです…。」
質問した和葉の言葉に、冬子は困ったように返事を返した。
あの時、あの霊安室で一人、俺は何を思って母さんの側にいた?
そして美咲の言葉で凍りついた想いはなんだった?
「あぁ、そっか…。」
「なに?」
「俺、…母さんが死んで、悲しかったんだ。」
ポツリと言った言葉に、冬子は黙った。
そんな冬子に手を少し伸ばすと届いて、なんとなくそのまま冬子を抱きしめた。温かい。
冬子は少し驚いたが、腕を振り払うこともせず、素直に和葉の腕の中に収まった。
「…俺はたしかに母さんのことが好きだったのかもね。
でも、それを認めたくなかった。
だって母さんは俺のこと、恨んでたかもしれないんだから…。」
彼女の人生において、自分と美咲の存在は重荷なだけだったろう。
俺たちの存在が、彼女の全てを狂わせたんだから。
「母さんは俺たちを置いて勝手に死んで、美咲は母さんの存在すら認識してなかった。
自分のこの感情が間違ってる気がして、しょうがなかった。」
「………。」
和葉の言葉を、冬子はただ黙って和葉の腕の中で聞いていた。
「愛されてなかったかもしれない。恨まれていたのかもしれない。
でも、それを確かめることはもう出来ない。
…冬子の言うとおり、俺は美咲に愛されることで、
母さんに愛されていたんだと思いたかったのかもしれないね…。」
冬子を抱きしめてる腕に自然と力が入る。
俺は、美咲にずっと酷いことをしていたんだ。
美咲が俺に向けてくれる笑顔を信じきれなくて、
その不安を払拭したくて、美咲たちを守りたいと思ってたのかもしれない。
守るから愛してほしいなんて、間違ってる。
千華子姉さんの言葉どおり、今の俺は誰も守れない。
だって、誰よりも『自分』を守ろうとしているんだから。
「…君の感情は間違ってない。
誰でも、傷つきたくないと思うし、愛されたいよ。
それが『お母さん』ならなおのこと。」
冬子は両手を伸ばし、まだ濡れていた頬を拭って和葉の顔を包んだ。
「ただ、それを認めるには、その時の君は幼すぎたんだ。
だからやり方を間違えた。」
和葉の額に冬子は自分の額をくっつける。
「大丈夫。確かにお母さんの想いはもう確認しようがないものだけど、
君が家族を想うように、君は今の家族に愛されてる。だから君を心配してる。」
「………。」
兄妹たちの顔が浮かぶ。
出かけるときはいつも心配そうな顔をしている。
でも、帰った時はいつもホッとした顔をしてくれる。
「…それに話を聞いてるかぎりじゃ、
私はお母さんが君のこと、恨んでるとは考えがたいけどね。」
「…どうして?」
「だって、疲れてても君に笑顔を見せてくれてたんでしょ?
それが作り物だったとしても、ちゃんと君を見て笑ってくれてたんでしょ?
たとえ自分の息子でも、疲れてる時、恨んでる人間に笑顔を見せるなんてしない。」
「………。」
「君はきっと、ちゃんと、愛されていたよ。」
冬子はニッコリ笑った。
そんな冬子の言葉に、ほんの少し『そうかも』…なんて不思議と思えた。
それから思い出したように冬子は言った。
「そういえば君、気付いてた?」
「?」
「私、まだ君の名前教えてもらってないんだよね。」




