虹の橋を渡った黒猫が、異世界でイケメンになって私を溺愛してきます
二十九歳、独身。
田中裕子。
どこにでもいる、ごく普通の女だ。
顔立ちは平凡で、身長も体型も平均的。
職業は調理師。料理だけは少し得意だけれど、それ以外に取り立てて自慢できることはない。
そんな私にも、かつて結婚を考えていた恋人がいた。
長い付き合いだった。
二人で住む家を探したこともあったし、子どもは何人欲しいかなんて話もした。
けれど、彼には別の女性がいた。
浮気が発覚して、私たちは別れた。
実家とも、もう何年もまともに連絡を取っていない。
家族と大喧嘩をしたわけではない。ただ、少しずつ距離ができて、気づけば帰る場所がなくなっていた。
恋人を失った私は、本当に一人ぼっちになってしまった。
そんな私が出会ったのが、一匹の黒猫だった。
雨の降る夕方。
仕事帰りの道端で、小さな黒猫がうずくまっていた。
艶のある黒い毛並みは雨で濡れ、身体はひどく痩せていた。
けれど、何より印象的だったのは、その瞳だった。
右目は琥珀色に近い金色。
左目は澄んだ青色。
左右で色の違う、いわゆるオッドアイというやつだ。
「……綺麗な目」
思わずしゃがみ込むと、黒猫はじっと私を見つめた。
「ねえ、あんたも一人なの?」
「にゃあ」
「そっか。私もなんだ」
黒猫は逃げなかった。
むしろ、私が差し出した手に小さな頭を擦りつけてきた。
「……うち、来る?」
「にゃあ」
まるで返事をするように鳴いた。
それが、タロウとの出会いだった。
名前はタロウ。
黒猫なのだからクロでもよかったし、オッドアイにちなんだ洒落た名前をつけてもよかったのかもしれない。
けれど、なぜだかタロウという名前が真っ先に浮かんだ。
「今日からあんたはタロウね」
そう言うと、黒猫は嬉しそうに尻尾を立てた。
タロウは、とても甘えん坊だった。
私が仕事から帰ると、玄関まで迎えに来る。
料理をしていると足元にまとわりつき、ソファに座れば当然のように膝に乗ってくる。
眠るときは必ず私の隣だった。
朝、目覚めると、金色と青色の瞳が私を見つめている。
「おはよう、タロウ」
「にゃあ」
それだけで、幸せだった。
タロウが来てから、私は一人で食事をすることが苦痛ではなくなった。
仕事で失敗した日も、帰宅するとタロウがいる。
嫌なことがあった日も、タロウの柔らかな毛並みに顔を埋めれば、不思議と気持ちが落ち着いた。
「タロウ、あんたがいてくれてよかった」
そう言うと、タロウは決まって私の頬に頭を擦りつけた。
人間の恋人と過ごした長い年月より、タロウと過ごした数か月のほうが、ずっと幸せだった。
けれど、その幸せは一年も続かなかった。
ある日、私が窓を閉め忘れた。
ほんの少しだけ開けたつもりだった。
けれど、タロウはそこから外へ飛び出してしまった。
そして、道路で車にはねられた。
知らせを受けて駆けつけたときには、もう息をしていなかった。
何度も謝った。
何度も名前を呼んだ。
けれど、タロウは二度と目を開けなかった。
あの日から、私はずっと後悔している。
どうして窓を閉めなかったのだろう。
どうして、あの子を守ってあげられなかったのだろう。
タロウがいなくなった部屋は、驚くほど静かだった。
帰宅しても、玄関まで迎えに来る子はいない。
料理をしても、足元にまとわりつく子はいない。
眠るときも、隣には誰もいない。
私はまた、一人になった。
それから、どれくらい経っただろう。
ある日の仕事帰り。
横断歩道を渡っていた私は、突然響いたクラクションに振り返った。
眩しいヘッドライト。
甲高いブレーキ音。
そして、身体を突き飛ばされるような衝撃。
ああ。
私、死ぬんだ。
不思議と、怖くはなかった。
ただ、最後にひとつだけ願った。
――虹の橋を渡ったタロウに、もう一度会いたいなあ。
それが、私の最後の記憶だった。
◇
「……ユウコ」
誰かが呼んでいる。
「ユウコ、起きて」
男の人の声だった。
私はゆっくりと目を開けた。
真っ先に飛び込んできたのは、青い空だった。
雲ひとつない、澄み切った空。
頬には柔らかな草が触れている。
「……え?」
身体を起こすと、そこには見渡す限りの草原が広がっていた。
少し離れた場所には大きな湖。
その向こうには、ぽつんと小さな木造の小屋が建っている。
「起きた!」
すぐ隣から、嬉しそうな声がした。
振り向いた私は、思わず息を呑んだ。
そこにいたのは、見たこともないほど美しい青年だった。
艶やかな黒髪。
整った鼻筋に、形のいい唇。
すらりとした長身に、均整の取れた身体。
そして何より目を引いたのは、その瞳だった。
右目が金色。
左目が青色。
「……誰?」
青年は一瞬、不思議そうな顔をした。
それから、満面の笑みを浮かべた。
「俺だよ。タロウ!」
「……は?」
「タロウだよ、ユウコ! 会いたかった!」
青年は勢いよく私に抱きついてきた。
「ちょ、ちょっと!」
「ずっと会いたかった! ユウコ!」
「待って! 離して!」
慌てて押し返すと、青年はしょんぼりした顔で手を離した。
「……ユウコ、俺のこと忘れた?」
「いや、そもそもあなた誰なの?」
「だからタロウだってば」
「タロウは猫です!」
「うん。猫だったよ」
「だった?」
「今は人間みたいだけど」
青年は自分の手を見つめ、指を一本ずつ動かしてみせた。
「これ、便利だね。いろんなもの持てる」
私は頭を抱えた。
交通事故に遭ったはずなのに、知らない草原で目覚めて、超絶美形の青年から猫だったと主張されている。
意味が分からない。
けれど、改めて青年の顔を見つめると、奇妙な既視感があった。
私は恐る恐る手を伸ばし、青年の黒髪に触れた。
指の間を、さらさらと柔らかな髪が滑っていく。
猫だった頃のタロウの毛並みに、どこか似ていた。
それに、この瞳。
右が金色で、左が青色。
あの子とまったく同じだ。
「ああ、この髪質とオッドアイは、たしかにタロウなの?」
思わず呟くと、青年は嬉しそうに目を細めた。
「うん! 俺、タロウだよ!」
その笑顔を見た瞬間、胸がきゅっと締めつけられた。
猫だった頃、頭を撫でるといつもこんな顔をしていた。
「……本当に?」
「本当!」
「……タロウ?」
「うん!」
「……会いたかった」
声が震えた。
青年は私を抱きしめた。
今度は、私も抵抗しなかった。
「俺も。ずっと会いたかったよ、ユウコ」
私はその胸に顔を埋めた。
温かかった。
タロウの身体は、いつも温かかった。
「……ただいま」
「おかえり、ユウコ」
私は泣いた。
もう二度と会えないと思っていた、大切な存在が目の前にいる。
それだけで、涙が止まらなかった。
◇
しばらく泣いたあと、私はようやく周囲を見回した。
「……ところで、ここはどこなの?」
「分かんない」
「分かんないの!?」
「うん。でも、いいところだよ」
タロウは嬉しそうに両手を広げた。
「ここは楽園だ。水も食べ物もある。住む場所もある。空気が綺麗だ」
「……それで?」
「でも、時々隕石が落ちる」
「隕石!?」
「うん。でも、ほとんどは大したことなくて、流れ星程度だよ」
そんなものが降ってくる場所を楽園と呼んでいいのだろうか。
「夜は星がいっぱい見えるんだ。すごく綺麗だよ」
タロウは私の手を取った。
「ねえ、ユウコ。一緒に暮らそう?」
私は少し迷った。
ここがどこなのかも分からない。
そもそも、自分が生きているのか死んでいるのかさえ分からない。
けれど、行く宛てなどなかった。
それに、タロウがいる。
「……うん。一緒に暮らそうか」
そう答えると、タロウは飛び上がるように喜んだ。
「やった!」
そして、また私に抱きついてきた。
「タロウ、苦しいってば!」
「ごめん!」
そう言いながらも、なかなか離してくれない。
私は思わず笑ってしまった。
本当に、甘えん坊なんだから。
◇
小屋には寝台がひとつと、簡素な台所があった。
薪を燃やせるかまどもある。
棚には鍋や皿、包丁まで揃っていた。
誰が用意したのかは分からない。
タロウに聞いても、首を傾げるだけだった。
「最初からあったよ」
「……そう」
どうやら、深く考えても仕方がないらしい。
幸い、食べ物には困らなかった。
草原のあちこちには木の実が実り、湖には魚がたくさん泳いでいる。
タロウは魚釣りが得意だった。
「ユウコ! 釣れた!」
ある日、タロウが嬉しそうに大きな魚を抱えて帰ってきた。
「すごい! 大きいね!」
「ユウコに食べさせたかった!」
「ありがとう。じゃあ、お料理するね」
私は包丁を手に取った。
調理師として働いていた経験が、こんなところで役に立つとは思わなかった。
鱗を落とし、腹を開いて内臓を取り除く。
綺麗に洗ってから、塩を振って焼く。
塩があることも、なぜか不思議に思わなくなっていた。
「いい匂い!」
タロウは私の隣にぴったりくっついて、魚が焼ける様子を眺めていた。
「タロウ、近いって」
「早く食べたい」
「もうちょっと待って」
「まだ?」
「まだ」
「もういい?」
「まだ!」
まったく。
人間の姿になっても、食いしん坊なのは変わらないらしい。
焼き上がった魚を皿に載せると、タロウは目を輝かせた。
「いただきます!」
そう言って、勢いよくかぶりつこうとする。
「待った!」
「え?」
「骨があるから、ちゃんと取って食べて」
「骨?」
「そう。喉に刺さったら危ないでしょ」
私が身をほぐして骨を取り除いてやると、タロウは嬉しそうに笑った。
「ユウコ、優しい」
「普通よ、普通」
「ユウコ、大好き」
「……はいはい」
そのときは、まだ。
私はその言葉を、飼い猫の甘えん坊な愛情表現だと思っていた。
◇
異世界での生活には、慣れるまで少し時間がかかった。
まず、電気がない。
冷蔵庫も洗濯機もない。
当然、スマートフォンも使えない。
もっとも、持ってきてすらいないのだけれど。
「……不便だなあ」
ある日、洗った服を草原に干しながら呟くと、タロウが不思議そうに首を傾げた。
「何が?」
「洗濯機がないこと」
「洗濯機?」
「服を洗ってくれる機械」
「そんなのがあるの?」
「あるよ。前の世界にはね」
「へえ」
タロウは感心したように頷いた。
「ユウコの世界って、すごいんだね」
「そうかなあ」
「うん。でも、俺はこっちのほうが好き」
「どうして?」
「ユウコがずっといるから」
私は思わず手を止めた。
「……え?」
「前は、ユウコ、毎日どこかに行っちゃったでしょ」
ああ、仕事のことか。
「帰ってくるまで、ずっと待ってた」
「……そっか」
「でも、ここではずっと一緒」
タロウは嬉しそうに笑った。
「だから、こっちのほうがいい」
私は何も言えなくなった。
タロウが玄関で待っていてくれたことは知っていた。
けれど、私が仕事に行っている間、どんな気持ちで過ごしていたのかまでは考えたことがなかった。
「……ごめんね、寂しかった?」
「うん。でも、帰ってきてくれたら嬉しかった」
タロウは私の手を握った。
「今は、もっと嬉しい」
私はその手を見つめた。
大きな手だった。
猫だった頃の、小さな肉球とは違う。
「……そうだね」
私は微笑んだ。
「私も、ずっと一緒にいられて嬉しいよ」
タロウは満足そうに笑った。
◇
ある日の午後。
私は小屋の前で木の実を選り分けていた。
赤い実、黄色い実、紫色の実。
この世界には見たこともない木の実がたくさんある。
タロウが食べられると言うものだけを集めていたけれど、味はそれぞれ違っていた。
甘いもの。
酸っぱいもの。
少し苦いもの。
「これ、ジャムにできそう」
「ジャム?」
「果物を煮詰めて作る、甘い食べ物」
「甘いの?」
「うん」
「食べたい!」
「じゃあ、作ってみようか」
私は鍋に木の実を入れ、かまどに火を起こした。
砂糖はなかったけれど、甘い木の実を多めに使えば、それなりのものができそうだった。
タロウは隣に座り、興味津々で鍋を覗き込んでいる。
「ユウコって、すごいね」
「何が?」
「何でも作れる」
「何でもってほどじゃないよ」
「でも、魚も焼けるし、木の実も料理できる」
「仕事だったからね」
「仕事?」
「前の世界では、料理を作る仕事をしてたの」
タロウはしばらく考え込んだ。
「……ユウコ、料理好き?」
「うん。好きだよ」
「じゃあ、俺、いっぱい魚釣ってくる」
「そんなにたくさん食べられないよ」
「でも、ユウコが好きなこと、いっぱいしてほしい」
私は思わず笑った。
「ありがとう」
タロウは嬉しそうに目を細めた。
その表情が、猫だった頃とあまりにも同じで。
私はつい、彼の頭を撫でてしまった。
「……あ」
手を引っ込めようとすると、タロウが私の手を掴んだ。
「もっと」
「え?」
「もっと撫でて」
「……人間になっても好きなの?」
「うん」
タロウは私の手に頭を擦りつけた。
さらさらとした黒髪が、指の間を滑る。
猫だった頃の毛並みに、よく似ていた。
私はしばらく、その髪を撫で続けた。
すると、タロウは目を細め、幸せそうに笑った。
「……ユウコの手、好き」
「そう?」
「うん。温かいから」
なぜだろう。
その言葉に、胸が少しだけ高鳴った。
◇
夜になると、空いっぱいに星が輝いた。
街灯も建物の明かりもない世界。
天の川が、空を横切る白い帯のように見える。
「綺麗……」
小屋の前に座って空を見上げると、タロウが隣に腰を下ろした。
「ね。綺麗でしょ」
「こんな星空、初めて見た」
「俺は毎日見てたよ」
「一人で?」
「うん」
「……寂しくなかった?」
タロウは少し考えてから答えた。
「寂しかった」
胸が痛んだ。
「ユウコがいなかったから」
「……そっか」
「でも、ずっと待ってた」
「私を?」
「うん」
タロウは私の顔を覗き込んだ。
「ユウコ、俺に会いたかった?」
「……会いたかったよ」
「どれくらい?」
「すごく」
「俺も」
タロウは私の手を握った。
「ずっと、ずっと会いたかった」
その手は温かかった。
私はそっと握り返した。
すると、タロウは驚いたように目を見開いた。
「……ユウコ?」
「なに?」
「手、握ってくれた」
「うん」
「嬉しい」
そんなことで喜ぶなんて。
私は思わず笑ってしまった。
「タロウって、本当に甘えん坊だね」
「ユウコにだけだよ」
「……そうなの?」
「うん」
タロウは真剣な顔で頷いた。
「ユウコが一番好きだから」
私は、なぜか返事に困ってしまった。
そのとき、空を一筋の光が横切った。
「あ、流れ星!」
「隕石だよ」
「……そういう言い方、やめてくれない?」
タロウは笑った。
私もつられて笑った。
こんな穏やかな時間が、ずっと続けばいいと思った。
◇
ある朝、私はタロウの寝顔を眺めていた。
小屋には寝台がひとつしかない。
最初は床に寝ようかと思ったけれど、タロウがどうしても一緒に寝たいと言うので、結局二人で使っていた。
猫だった頃も一緒に寝ていたのだから、今さら気にすることはない。
そう思っていた。
けれど。
「……綺麗な顔」
思わず呟いてしまった。
長い睫毛。
すっと通った鼻筋。
形のいい唇。
こんな美しい男性を、私は現実世界で見たことがなかった。
もし街中ですれ違ったら、間違いなく振り返ってしまうだろう。
それほどの美貌だった。
対して、私はどこにでもいる平凡な女だ。
こんな美青年と同じ寝台で眠っているなんて、冷静に考えるとおかしな話だった。
「……ん」
タロウが身じろぎした。
私は慌てて視線を逸らした。
「ユウコ?」
「お、おはよう」
「おはよう」
タロウは寝ぼけた顔で笑った。
そして、当然のように私を抱き寄せた。
「……ちょっと!」
「ん?」
「タロウ、近い!」
「いつもこうしてたよ?」
「猫のときはね!」
「今は駄目?」
私は言葉に詰まった。
駄目というわけではない。
ただ、心臓に悪い。
「……今は人間でしょ」
「うん」
「だから、その……」
タロウは不思議そうに私を見つめた。
「人間だと、くっついちゃ駄目なの?」
「駄目じゃないけど……」
「じゃあ、いい?」
そのあまりにも無邪気な顔に、私はため息をついた。
「……少しだけね」
タロウは嬉しそうに笑った。
「やった!」
そして、私をぎゅっと抱きしめた。
私はその胸に顔を埋めながら、思った。
これは、まずい。
本当に、まずい。
タロウは猫だった。
私が拾って、育てた、大切な家族だった。
それなのに。
今の私は、この人に抱きしめられると、胸がどきどきしてしまう。
◇
それからというもの、私はタロウを意識するようになった。
湖で魚を釣る姿。
薪を割る姿。
重い鍋を軽々と持ち上げる姿。
猫だった頃にはできなかったことを、今のタロウは当たり前のようにこなしていた。
「ユウコ、これ持つよ」
「ありがとう」
「重いでしょ」
「うん。助かる」
タロウは嬉しそうに笑った。
「俺、ユウコの役に立てるね」
その言葉に、私は胸が温かくなった。
「……前から、役に立ってたよ」
「え?」
「タロウがいてくれるだけで、私は幸せだったから」
タロウは少し驚いた顔をした。
それから、照れたように笑った。
「……俺も」
「うん?」
「ユウコがいてくれるだけで、幸せだった」
私は微笑んだ。
「そっか」
「でも、今はもっと幸せ」
「どうして?」
タロウは私の手を取った。
「ユウコの手、こうして握れるから」
私は思わず目を逸らした。
「……もう」
最近、タロウはこういうことばかり言う。
そのたびに、私はどうしていいか分からなくなる。
◇
ある日の夕方。
私たちは湖のほとりに座っていた。
水面には夕日が映り、辺り一面が黄金色に染まっている。
「ねえ、タロウ」
「なに?」
「私ね、昔、結婚しようと思ってた人がいたの」
タロウは静かに私を見つめた。
「知ってる」
「……え?」
「ユウコ、よく話してたから」
そうだった。
タロウには、何でも話していた。
恋人に裏切られたことも。
家族と疎遠になったことも。
自分がどれほど孤独だったかということも。
「……そっか」
私は苦笑した。
「全部、聞いてたんだね」
「うん」
「私、あの人と結婚するんだと思ってた」
タロウは何も言わなかった。
「でも、浮気されちゃって。私じゃ駄目だったのかなって、ずっと思ってた」
「……ユウコ」
「だから、もう誰かを好きになるのは怖いなって」
タロウはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「俺は、ユウコを悲しませないよ」
私は顔を上げた。
「……え?」
「ユウコが泣くの、嫌だ」
タロウは真剣な顔をしていた。
「俺、ユウコに笑っててほしい」
胸が締めつけられた。
「……タロウ」
「ずっと、そう思ってた」
タロウは私の手を握った。
「猫だったときから」
私は何も言えなかった。
夕日が、湖の向こうへ沈んでいく。
その光の中で、タロウの金色と青色の瞳が美しく輝いていた。
「……ありがとう」
ようやく、それだけ言った。
タロウは嬉しそうに笑った。
◇
その夜。
私たちは小屋の前で星を眺めていた。
タロウは私の隣に座り、いつものように手を握っていた。
「ユウコ」
「なあに?」
「俺、ユウコのこと好き」
「うん。知ってるよ」
「違う」
「え?」
「そういう好きじゃない」
タロウは真剣な顔をしていた。
「俺、ユウコとずっと一緒にいたい」
「……うん」
「ユウコの、一番になりたい」
胸が大きく跳ねた。
「……タロウ?」
「猫だったときから、ずっと思ってた」
タロウは私の手を強く握った。
「ユウコが好きだった。誰よりも好きだった」
「……」
「でも、猫だったから、言えなかった」
私は何も言えなかった。
「ユウコが俺を抱っこしてくれるの、嬉しかった。撫でてくれるのも、一緒に寝てくれるのも」
タロウは少し照れたように笑った。
「でも、今はこうして手を握れる。ユウコと同じ姿で、一緒に歩ける」
「……タロウ」
「俺、ユウコの恋人になりたい」
その言葉を聞いた瞬間、涙が溢れた。
どうしてだろう。
あんなに人を信じるのが怖かったのに。
もう誰かを好きになることなんてないと思っていたのに。
「……私も」
声が震えた。
「私も、タロウが好き」
タロウの目が大きく見開かれた。
「本当?」
「うん」
「俺のこと、好き?」
「好きだよ」
「猫じゃなくても?」
「……うん」
タロウは私を抱きしめた。
「嬉しい!」
その声があまりにも幸せそうで、私は笑ってしまった。
「タロウ、苦しいってば」
「ごめん!」
そう言いながら、腕の力を緩めるだけで離してくれない。
私はその背中に、そっと手を回した。
「……大好きだよ、タロウ」
「俺も。ユウコ、大好き」
その夜、私たちは初めて唇を重ねた。
満天の星が、静かに輝いていた。
◇
恋人になってからも、私たちの生活は大きく変わらなかった。
タロウは相変わらず甘えん坊で、魚が大好きで、私の隣から離れようとしなかった。
ただ、以前よりも頻繁に手を繋ぐようになった。
寝る前には必ず抱きしめてくれるようになった。
そして、毎日のように好きだと言ってくれた。
私は幸せだった。
かつて結婚を考えた恋人と過ごした日々よりも。
黒猫のタロウと暮らしていた、あの短い日々よりも。
今が、いちばん幸せだった。
そんなある日のこと。
湖で魚を釣っていたタロウが、ふと思い出したように言った。
「そういえば、ユウコ」
「なあに?」
「あの小さい白いやつ、見つかった?」
「……小さい白いやつ?」
「うん。ユウコが落としたやつ」
私は首を傾げた。
「何のこと?」
「ほら、耳につけるやつ」
「……イヤホン?」
「そう、それ!」
タロウは嬉しそうに頷いた。
「ユウコ、すごく困ってたでしょ」
私は記憶を辿った。
そういえば、あった。
タロウが死ぬ少し前。
仕事帰りに立ち寄った自動販売機で、ワイヤレスイヤホンを片方落としてしまったのだ。
運悪く、自動販売機の下に転がり込んでしまい、手が届かなかった。
帰宅してから、タロウに愚痴をこぼした覚えがある。
『最悪。イヤホン、自販機の下に落としちゃった』
『買ったばっかりなのに。ほんと最悪だよ』
あのとき、タロウは私の膝の上で、じっと話を聞いていた。
「……覚えてたの?」
「うん!」
タロウは当たり前のように頷いた。
「だから、俺が取ってこようと思ったんだ」
「……え?」
「ユウコ、困ってたから」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……取ってくるって?」
「白いやつ。ユウコが落としたやつ」
「……どこに?」
「外」
心臓が、嫌な音を立てた。
「……タロウ」
「なに?」
「あの日、外に出たのって……」
「うん」
タロウは笑った。
「ユウコのイヤホン、探しに行ったんだ」
息が止まった。
「でも、どこにあるか分からなくて。車がいっぱい走ってて……」
タロウは少し困ったように笑った。
「結局、取ってこられなかった。ごめんね」
私は、何も言えなかった。
あの日。
窓を閉め忘れた、あの日。
タロウは勝手に外へ遊びに行ったのではなかった。
私のために。
私が困っていたから。
たった一つのイヤホンを探しに行こうとして。
そして、死んだ。
「……なんで」
声が震えた。
「なんで、そんなことしたの……」
「ユウコ?」
「そんなの、どうでもよかったのに……!」
涙が溢れた。
「イヤホンなんて、また買えばよかったのに……!」
「……ユウコ」
「タロウがいてくれたら、それでよかったのに……!」
私はその場にしゃがみ込んだ。
ずっと後悔していた。
自分が窓を閉め忘れたせいで、タロウを死なせてしまったのだと。
けれど、あの子は。
あの子は、私を喜ばせようとしていただけだった。
「……ごめんね」
涙が止まらなかった。
「ごめんね、タロウ……」
タロウは慌てて私の隣にしゃがんだ。
「ユウコ、泣かないで」
「だって……」
「俺、ユウコが困ってたから、助けたかっただけだよ」
「……うん」
「ユウコが悪いんじゃないよ」
その言葉に、私は余計に泣いてしまった。
タロウは私を抱きしめた。
「俺、ユウコと暮らせて幸せだった」
「……私も」
「今も幸せだよ」
「……うん」
「だから、泣かないで」
私はタロウの胸に顔を埋めた。
「……大好き」
「俺も」
「タロウ、大好き……」
「うん。知ってる」
タロウは優しく私の髪を撫でた。
かつて私が、黒猫だった彼にしていたように。
◇
それからも、私たちは幸せに暮らした。
朝には一緒に目を覚まし、昼には魚を釣り、夜には星を眺める。
何もない、小さな世界。
けれど、私には十分だった。
タロウさえいれば、それでよかった。
ある晩、私たちは小屋の前で並んで座っていた。
空には無数の星が輝いている。
「ねえ、タロウ」
「なに?」
「私ね、ここに来られてよかった」
「うん」
「タロウに会えたから」
タロウは嬉しそうに笑った。
「俺も」
「ずっと一緒にいようね」
「うん。ずっと」
タロウは私の手を握った。
そのときだった。
夜空に、ひときわ明るい光が走った。
「あ、流れ星……」
そう言いかけて、私は言葉を失った。
光が、消えない。
むしろ、どんどん大きくなっている。
「……タロウ?」
タロウが空を見上げた。
「……あれ?」
いつもの流れ星とは違った。
赤く燃える塊が、こちらへ向かって落ちてくる。
「タロウ、逃げて!」
私は叫んだ。
タロウが立ち上がる。
けれど、遅かった。
燃える岩の塊が、すぐ目の前まで迫っていた。
考えるより先に、身体が動いた。
私はタロウを突き飛ばした。
「ユウコ!?」
タロウの叫び声。
次の瞬間、凄まじい衝撃が身体を襲った。
熱い。
痛い。
けれど、不思議と怖くはなかった。
地面に倒れた私のもとへ、タロウが駆け寄ってくる。
「ユウコ!」
泣きそうな顔だった。
「ユウコ、しっかりして!」
私は、かすかに笑った。
「……よかった」
「何が!?」
「タロウが……無事で……」
「よくない!」
タロウは私を抱きしめた。
「ユウコ! 嫌だ! 行かないで!」
ああ。
そうか。
あの日、私もこんな気持ちだった。
動かなくなったタロウを抱きしめて、何度も名前を呼んだ。
行かないで。
置いていかないで。
もう一度、目を開けて。
そう願った。
「……タロウ」
「ユウコ!」
「……大好きだよ」
「俺も! 俺も大好きだから!」
涙が、私の頬に落ちた。
「だから、行かないで……!」
私は震える手を伸ばし、タロウの頬に触れた。
「……ごめんね」
もう、声が出ない。
視界が暗くなっていく。
最後に見えたのは、金色と青色の瞳だった。
ああ。
タロウ。
今度は、守れたよ。
◇
「……にゃあ」
声がした。
「……にゃあ」
懐かしい声だった。
私はゆっくりと目を開けた。
白い天井。
見慣れたカーテン。
小さなテーブル。
そして、枕元には。
「……タロウ?」
黒猫がいた。
艶やかな黒い毛並み。
右目が金色。
左目が青色。
「……え?」
私は飛び起きた。
黒猫は驚いたように身を引いた。
「タロウ……?」
「にゃあ」
私は震える手で、その小さな身体を抱き上げた。
温かい。
心臓が動いている。
生きている。
「……タロウ!」
涙が溢れた。
「タロウ! タロウ!」
黒猫は不思議そうに私を見上げた。
私は何度も何度も、その名前を呼んだ。
夢?
あれは、夢だったの?
異世界も、草原も、湖も。
美しい青年になったタロウも。
全部、夢?
ふと、窓が目に入った。
開いていた。
私は息を呑んだ。
あの日と同じだった。
タロウが外へ出てしまった、あの日。
慌てて窓を閉める。
鍵をかける。
それから、もう一度タロウを抱きしめた。
「……よかった」
声が震えた。
「間に合った……」
タロウは小さく鳴いた。
私はスマートフォンを手に取った。
画面には、あの日の日付が表示されていた。
タロウが事故に遭う前。
間違いない。
私は、過去に戻ってきたのだ。
「……タロウ」
黒猫は私を見上げた。
「もう、どこにも行かなくていいからね」
私は泣きながら笑った。
「イヤホンなんて、どうでもいいの」
タロウの耳が、ぴくりと動いた。
「タロウがいてくれたら、それだけでいいんだよ」
黒猫はじっと私を見つめていた。
金色と青色の瞳。
その瞳が、ほんの一瞬。
あの草原で、私に愛を告げた青年の瞳と重なった。
「……ねえ、タロウ」
私はそっと尋ねた。
「覚えてる?」
黒猫は何も答えない。
ただ、私の頬に小さな前足を伸ばした。
ぽん、と。
優しく触れた。
それは、あの世界でタロウが私の涙を拭ってくれたときと、同じ仕草だった。
「……そっか」
私は微笑んだ。
「おかえり、タロウ」
黒猫は、にゃあと鳴いた。
そして、私の胸に顔を擦りつけた。
窓の外には、いつもの街並みが広がっていた。
草原も、湖も、小さな小屋もない。
夜になっても、あんなに美しい星空は見えないだろう。
それでも、私は幸せだった。
だって。
もう一度、タロウと生きていけるのだから。
私は小さな黒猫を抱きしめた。
「ずっと一緒にいようね」
タロウは喉を鳴らした。
ごろごろと。
懐かしくて、愛おしい音だった。
――おしまい。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
大切な存在と過ごす何気ない毎日こそが、何よりも幸せなのかもしれません。
裕子とタロウの物語を、少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。
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最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!




