第3話 月光の下で
先に姿を見せたのは、炎嵐だった。
湯気をまとったまま、廊下に現れる。
薄手の寝巻きは肌に張りつき、濡れた髪が首筋を伝っていた。
昼間の、あの大きな声と豪快な身振りは影を潜め、代わりに、妙に落ち着いた色気だけが残っている。
――あ、だめだ。
そう思った瞬間には、もう理解していた。
次に何が起こるのかを。
私は視線を逸らす。
炎嵐は何も言わず、ただ私を一度見てから、居間の奥へ消えた。
胸の奥が、ひどく静かだった。
思い出すのは、元の世界のこと。
私は未経験ではない。二人、付き合った人がいた。
どちらも同級生で、おとなしくて、強く求めてくることはなかった。
正直に言えば、どちらの時も
「面倒だな」
という感想しか残っていない。
断る理由を考えるのも面倒で、
流れで続いていただけの関係。
好きとか、嫌いとか、そういうものは、よくわからなかった。
炎嵐は違う。
見た目だけでも、十以上は年上に見える。
実年齢は、たぶん比べる意味もないほど上なのだろう。
考えすぎて、私はその場から逃げるように浴場へ向かった。
⸻
湯に沈むと、頭の中が少しだけ空っぽになる。
温かい水が、思考を鈍らせる。
ここが夢なら、早く覚めてほしい。
現実なら、あまり深く考えないほうがいい。
そんなことを、ぼんやり考えていた。
どれくらい時間が経ったのか分からないまま、私は浴場を出た。
居間に戻ると、炎嵐が長椅子に座り、本を読んでいた。
先ほどまでの熱は抑えられ、静かに待っている。
こちらに気づくと、本を閉じた。
「……準備はいいか」
準備。
何の準備なのか、今さら聞く気にはなれなかった。
「では、始めよう」
彼は立ち上がり、寝台のある部屋へ向かう。
私は、少し遅れてその後を追った。
部屋には、天窓があった。
夜空から、淡い月の光が降り注いでいる。
寝台に近づいた時点で、もう逃げ道はない。
私の予想通り、儀式は始まった。
炎嵐は急がなかった。
触れる前に、一呼吸置く。
その手は大きく、熱を帯びている。
触れられるたびに、何かが流れ込んでくる感覚があった。
身体ではなく、もっと奥。
意識の境目が、曖昧になる。
不思議だった。
触れられているはずなのに、
自分の身体が、自分のものではない。
視点が浮かび上がり、
天窓の向こう、月の近くへ引き寄せられる。
空に浮かんでいるような、
幽体離脱に近い感覚。
――これが、力の受け渡し。
そう理解した瞬間、思考が途切れた。
最後の一線に踏み込んだとき、
頭の中が、真っ白になる。
音も、光も、重さも、すべてが溶けていく。
意識は、そのまま、静かに落ちていった。




