第2話 南の月は、近すぎる
炎嵐という神は、近かった。
距離の話ではない。
声も、態度も、存在感も。
すべてが、私の想定より一段階、いや二段階は大きい。
「ははっ、そんなに固くなるな!」
施設に入って最初に言われた言葉が、それだった。
肩を叩かれそうになり、反射的に一歩引く。
彼はそれを気にした様子もなく、豪快に笑った。
――苦手なタイプだ。
心の中で、即座に結論が出る。
悪い人ではない。むしろ善人だろう。
でも、現実世界にいた頃から、こういう体育会系の人間は、私の生活圏にはいなかった。
「太陽神っていうから、もっと神々しいのを想像してたが……」
炎嵐は私を上から下まで眺めて、うんうんと頷く。
「人の姿のままだな。でも、悪くない」
評価なのか独り言なのか、よくわからない。
私はとりあえず、何も返さずにいた。
十二日間、ここで二人きり。
それだけは、はっきりしている。
「まずは腹ごしらえだな!」
そう言って、彼はさっさと居間の方へ向かった。
食事はすでに用意されていて、湯気の立つ料理が並んでいる。
向かい合って座ると、炎嵐は遠慮なく食べ始めた。
音を立て、勢いよく。
見ているだけで、こちらまでエネルギーを吸われる気がする。
「で、だ」
口を動かしながら、彼は話し始めた。
「この十二日間は、儀式の期間だ。俺は太陽から力を受け取って、南月の国に持ち帰る」
それは、教育で聞いた内容と同じだった。
「力の受け渡しには、触れ合いが必要だ」
そう言われ、私は一瞬だけ箸を止める。
触れる、という言葉に、妙な引っかかりを覚えた。
「方法はいくつかある。手でも、口でも、抱き合うだけでもいい」
軽い調子で言われるけれど、
私の頭の中では、情報がうまく整理できていなかった。
「一番効率がいいのは――まあ、深い接触だな」
炎嵐はそう言って、肩をすくめた。
「とはいえ、最初から完璧に理解する必要はない。太陽は与える側だ。身を任せていればいい」
任せる。
与える。
言葉だけが、浮かんでは消えていく。
理解した、という感覚はなかった。
「……今日から、全部やるんですか」
私がそう聞くと、炎嵐は少し考えるような顔をした。
「ん? ああ、そうだな。とりあえず、やってみるか」
軽い。
あまりにも。
彼にとっては、長い歴史の中で繰り返されてきたことなのだろう。
けれど私にとっては、初めてで、説明不足で、現実感がない。
食事が終わると、炎嵐は立ち上がった。
「まずは身体を温める。準備運動みたいなもんだ」
そう言って、何の躊躇もなく奥の扉を開ける。
そこが温泉へ続く場所だと、私は知っていた。
彼は振り返り、当たり前のように言った。
「一緒に来い。儀式だ」
その瞬間。
ようやく、点と点がつながった。
触れる。
力を渡す。
十二日間、二人きり。
温泉。
頭の奥で、ずっと曖昧だったものが、形を持って迫ってくる。
――ああ。
これは、そういう儀式なのだ。
炎嵐はすでに浴場へ入っていった。
水音が、静かな建物に響く。
私はその場に立ち尽くしながら、
自分がまだ、どこか夢の中にいるような気分のままでいることに気づいた。
理解したはずなのに、実感がない。
それでも、扉の向こうでは、
南の月が、私を待っている。
十二日間の始まりは、
思っていたよりも、ずっと近かった。




