第1話 目覚めは、朝でも夜でもなく
最初に思ったのは、
――まだ、夢の中だということだった。
目を開けたはずなのに、体が動かない。
見知らぬ天井があって、白い布に包まれていて、知らない匂いがする。それなのに、怖さはなかった。
現実だと認識するには、あまりにも手応えがなさすぎた。
たぶん私は、眠ったのだと思う。
その夜、特別なことは何もなかった。レポートを途中までやって、シャワーを浴びて、布団に入った。それだけだ。
――地震とか、事故とか。
そういうのが起きて、私は意識不明になっているのかもしれない。
ここは病院で、これは夢。
そう考えるほうが、自然だった。
「……太陽神様」
誰かの声がして、ゆっくりと意識が浮上する。
瞬きをすると、知らない人が何人もいた。服装も、髪型も、現代日本のそれとは明らかに違う。
けれど、やっぱり実感がなかった。
「お目覚めになられましたか」
頷こうとして、首が動くことに気づく。
ああ、夢にしてはやけに感覚がはっきりしているな、と思った。
それでも、不安はなかった。
泣きたくも、叫びたくもならない。
ただ、ひどく冷静だった。
もしかしたら、心のどこかで
「どうせそのうち目が覚める」
と思っていたのかもしれない。
⸻
それからの日々は、驚くほど穏やかだった。
私は「太陽神」と呼ばれ、浅倉陽奈という名前も奪われなかった。
世話係が付き、教育係が付き、常に誰かが近くにいた。
生活は、不自由ではない。
贅沢というほどでもないが、質の良い食事と、清潔な衣服と、静かな寝室が与えられていた。
一日の流れは単純だ。
朝に一時間ほどの教育。
この世界の構造、神の役割、太陽神の国の成り立ち。
内容はどれも抽象的で、具体性に欠けていた。
その後、一時間の祈り。
太陽神としての形式的な行為らしいが、正直、何をしているのかはよくわからない。ただ、静かに座り、呼吸を整え、光を思い浮かべる。
残りの時間は、何もない。
娯楽は本くらいしかなかった。
それも、現代社会のものではなく、神話や歴史書ばかり。
最初は文字を追うだけで疲れてしまい、やがて私は庭を歩くようになった。
太陽神の国の庭は、広くて静かだった。
人影はほとんどなく、風と鳥の声だけがある。
考える時間だけが、無限にあった。
けれど私は、深く考えることをしなかった。
ここが夢なのか、現実なのか。
どうやって元の世界に戻るのか。
どれも、切実に感じられなかった。
目覚めたら元に戻る。
ずっと、そう思っていた。
⸻
転移してから、二十日ほど経ったある日。
「太陽神様」
教育係の一人が、いつもより少し硬い表情でそう言った。
「本日、儀式の日程が正式に決まりました」
その言葉だけで、空気が変わったのがわかった。
儀式。
それが何なのか、詳しくは知らない。
ただ、月の神と会うためのものだとだけ教えられている。
「三日後、南月の神が太陽神様のもとを訪れます」
南月。
初めて聞く名に、心がわずかに反応した。
その三日間も、いつもと同じように過ぎた。
庭を歩き、本を読み、祈りを捧げる。
けれど、時間の流れだけが、妙に現実味を帯びてきていた。
そして、当日。
私は馬車に乗せられ、国の中心から離れていった。
窓の外から、人の気配が消えていく。
辿り着いたのは、白い壁に囲まれた静かな施設だった。
「ここで十二日間をお過ごしになります」
そう告げられ、扉の前で一人にされる。
逃げ場はない。
それでも、恐怖はなかった。
扉を開けた、その瞬間。
庭へ続く影の中に、ひときわ大きな人影が立っているのが見えた。
「……来たか」
低く、よく通る声。
鍛え上げられた身体、熱を帯びた存在感。
彼が、南月の神――炎嵐なのだと、直感でわかった。
「南月の神、炎嵐だ」
彼はそう名乗り、私を真っ直ぐに見た。
「太陽神。今日から、世話になる」
その一言で、
夢の続きを生きているという感覚が、
少しだけ、揺らいだ。
――ここからが、本当に始まるのだと。
私はまだ、その意味を理解していなかった。




