第16話 残された声
宮での生活に戻った。
あれほど濃密だった日々が嘘のように、
時間はまた、ゆっくりと流れ始める。
朝は起きて、
好きなところで好きなだけ漫画を描く。
昼前に散歩に出て、
庭園を一周して戻る。
気が向いたら台所を借りて、
簡単な料理を作ってみたりもする。
儀式のない生活は、
驚くほど、穏やかだった。
――わりと、充実している。
そう思える自分に、
少し安心もする。
ある日、
漫画を描いている途中で、
花の描写に迷った。
「……資料、あったよね」
色や形を確認したくて、
久しぶりに書庫の本棚を眺める。
装丁の立派な植物図鑑の間に、
ふと、違和感のある一冊があった。
本、というよりは冊子。
背表紙に、
タイトルがない。
色も、
他の本より少しだけ褪せている。
なんとなく、
手に取った。
開いた瞬間、
それが何か、分かった。
日記だった。
前任者のものだ。
――ああ、こんなところに。
前任者という存在は、
この宮では不思議なくらい気配がない。
痕跡も、
記録も、
ほとんど残っていない。
それなのに。
本棚に紛れて、
こんなものが、ひっそりと残されていた。
本当なら、
読むべきではないのかもしれない。
でも、
返す手段もない。
それに、
これからの参考になるかもしれない。
……前任者には悪いけれど。
一応、
礼儀として、最初から読むことにした。
日記の始まりは、
「初めての儀式を終え、宮に戻ってきた日」。
相手は、
南月だった。
文面は、
驚くほど柔らかい。
優しかった。
触れ方も、声も。
また会いたい。
そんな言葉が、
何度も出てくる。
「他の月の神と、儀式をしたくない」
その一文に、
思わず、手が止まった。
相当、
肩入れしている。
宮に戻ってからも、
どうすれば南月と一緒にいられるか、
どうすれば制度を変えられるか、
そんなことばかりを書いている。
……これは、
重い。
ページをめくる。
次に出てきたのは、
西月のことだった。
静かで、
とても丁寧。
儀式の最中も、
常にこちらを気遣ってくれた。
「……あれ?」
思わず、声が出そうになる。
私の初回とは、
だいぶ印象が違う。
一瞬、
比較しそうになって、
慌ててやめた。
比べても、意味がない。
そう思いながらも、
文章の端々から、
前任者の心が、まだ南月に向いているのが伝わってくる。
他の神と儀式をしても、
南月の影が消えない。
次に目に留まったのは、
前任の東月についてだった。
とても穏やかな人。
一日一度の儀式を、丁寧に行う。
国のことを真剣に考えていて、尊敬できる存在。
淡々とした文章。
そこに、
南月のときのような熱はない。
好意はある。
でも、
傾倒ではない。
その違いが、
はっきり分かる。
次に気になったのは、
北月だった。
ページを探す。
……あった。
「北月とは、義務的な儀式すらない。」
それだけ。
短い。
その後のページを読んでも、
北月に関する記述は、
ほとんど見当たらない。
五年間の在任期間の中で、
驚くほど、少ない。
代わりに多いのは、
世話係への愚痴。
食事が口に合わないとか、
香りが強すぎるとか。
そして、
やはり南月。
何度も、
何度も、
名前が出てくる。
最後の方には、
引退後のことが書かれていた。
南月の国へ行きたい。
彼の引退を待って、
一緒に暮らしたい。
――本気だ。
最後のページ。
「なんとかなる。
やっと、夢が叶う。」
そう、書かれていた。
冊子を閉じる。
書庫は、
静まり返っている。
前任者は、
このあと、どうなったのだろう。
夢は、
叶ったのだろうか。
宮には、
答えは残っていない。




