第12話 初めての月
東月の神――ユエリは、成人の儀を終えたばかりだという。
見た目の幼さはそのままに、肩書きだけが先に追いついた存在。
陽奈は、彼の立ち姿を一瞥しただけでそれを悟った。
「……東月の神、ユエリです。
本日より、月の務めに就きました」
声は落ち着かせようとしているが、
語尾に、わずかな震えが残っている。
「浅倉陽奈。太陽の神よ」
名を告げると、ユエリは深く頭を下げた。
南月のような過剰な敬意でもなく、
西月のような形式的な距離でもない。
――まっすぐすぎる。
「儀式は……初めて、だよね」
「はい。理論と手順は教わりました。
ですが、実践は……」
言葉を探すように、視線が泳ぐ。
「大丈夫。
とりあえず、風呂」
陽奈は短く言った。
説明を重ねる気力は、正直あまり残っていない。
浴場へ向かう廊下で、
ユエリは何度も周囲を見回していた。
「……すごいですね。
教本で見たより、ずっと……」
「慣れると、ただの場所」
素っ気なく返すと、
ユエリは少し苦笑して頷いた。
湯に浸かると、
彼の緊張は、目に見えてほぐれていく。
「……こうして、同じ湯に入るところから、
始まると教わりました」
「そう。
力の循環を整えるため」
湯気の向こうで、
ユエリの表情はまだ硬い。
「無理しなくていい。
教科書通りで」
それは突き放す言葉だったが、
彼は安堵したように息を吐いた。
食事を終え、
儀式の部屋へ。
寝台の白布が、静かに揺れている。
「……ここで」
「そう」
ユエリは深呼吸し、
教えられた通り、距離を測る。
手を伸ばす前に、一瞬ためらう。
その指先が震えているのを、陽奈は見逃さなかった。
「……触れる前に、
意識を合わせる」
彼はそう呟き、目を閉じる。
――律儀すぎ。
「考えすぎ。
大丈夫だから」
そう言って、
陽奈のほうから、そっと距離を詰めた。
「……っ」
ユエリが息を呑む。
「触れ方、違う」
陽奈は彼の手首を取り、
正しい位置へ導く。
「力は、入れない。
流れを感じるだけ」
「……はい」
指先が、ためらいがちに触れる。
ぎこちなく、途切れ途切れに。
そのたび、陽奈は無言で修正する。
手を重ね、角度を変え、間を詰める。
時間が、やけにかかる。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい」
眠気と苛立ちが、
胸の奥で小さく軋む。
それでも、放っておけない。
「……次は、呼吸」
陽奈の声は、少し低くなった。
「私に合わせて」
ユエリは頷き、
数拍遅れて、呼吸を重ねてくる。
ずれた呼吸が、
何度も、少しずつ合っていく。
その瞬間――
空気が、わずかに変わった。
「……あ」
ユエリの声が、震える。
「それ。
今の感覚、逃さないで」
流れが、繋がる。
微弱だが、確かな回路。
儀式は、ゆっくりと進み、
ようやく、終わりを迎えた。
ユエリは、寝台に仰向けになったまま、
天井を見つめて動かない。
瞳が、濡れたように光っている。
「……すごい……」
しばらくして、そう呟いた。
「最後に……
胸の奥が、熱くなって……
自分の中に、何かが……
満ちていくのが、わかって……」
言葉が追いつかない様子で、
何度も言い直す。
「教えられていたはずなのに……
全然、違いました」
三十分近く、
ユエリは感覚を反芻するように語り続けた。
陽奈は、黙って聞く。
南月の熱とも、
西月の効率とも違う。
純粋な――
初めての反応。
「……あの」
話し終えたあと、
ユエリは、恐る恐るこちらを見る。
「もう一度……
お願いできますか」
「……理由は?」
「今までに食べたことのない、
すごく美味しいものを……
一口だけ、味見したみたいで……」
言いながら、
自分でも恥ずかしくなったのか、視線を逸らす。
「……もう一口、
確かめたくて……」
陽奈は、しばらく黙ったまま、
彼を見下ろした。
――面倒。
――でも。
「……考えとく」
そう答えると、
ユエリの顔が、ぱっと明るくなる。
「ありがとうございます」
その無邪気さに、
小さく息を吐く。
――これは、
手がかかる月だ。
でも同時に、
逃げ場のない予感もしていた。
初めての月は、
まだ始まったばかりだった。




