プロローグ
馬車は音もなく進んでいた。
車輪が石畳を踏む感触すら、どこか遠い。
太陽神の国に来てから、私はいくつもの建物を見てきた。宮、学び舎、祈りの場。けれど今日向かう場所は、それらとはまったく違う意味を持つらしい。
そう説明された。
――儀式の施設。
名を聞かされただけで、胸の奥がわずかに冷えた。
けれど、その理由を私は言葉にできない。怖いわけでも、嫌なわけでもない。ただ、そこが「役割」を果たすためだけに存在している場所だということだけは、はっきりと伝わってきた。
馬車の窓から見える景色は、いつの間にか何もなくなっていた。
人の気配も、建物もない。ただ、低い草原と、遠くにきらめく海。
太陽神の国の中心から、ずいぶん離れたのだとわかる。
「こちらです、太陽神様」
御者の声にうながされ、馬車を降りる。
目の前に広がっていたのは、想像よりも質素な建物だった。平屋造りで、白い壁に囲まれた庭園が静かに息づいている。風が木々を揺らし、花の香りが淡く漂っていた。
――神のための場所なのに、人の暮らしに近い。
そんな印象を受けた。
案内役は建物の前で深く頭を下げると、それ以上何も言わずに立ち去った。
この先は、清掃と食事の時間を除いて、誰も立ち入らない。
そう教えられている。
私は一人で扉を押した。
中は驚くほど静かだった。
磨かれた床、奥へと続く廊下、庭へと通じる大きな窓。そして、天井の中央には天窓があり、まだ昼だというのに、淡く月の気配を感じさせる。
ここで、十二日間。
四方の月の神が、順番に訪れる。
その最初が――南月の神。
炎嵐。
教育の場で聞かされた名前を思い出す。
力が強く、声が大きく、陽の気を宿す神。
けれどそれ以上のことは、誰も語らなかった。
「……太陽神、か」
不意に、低くよく通る声が響いた。
振り向くと、そこに彼はいた。
庭園へ続く扉の前、影を背負うように立つ大きな身体。鍛え上げられた腕と、堂々とした立ち姿。存在そのものが、熱を帯びているように感じられる。
「初めてだな。顔を合わせるのは」
炎嵐は一歩近づき、私をまっすぐに見下ろした。
その視線に、敵意はない。ただ、強い光のようなまなざし。
「俺は南月の神、炎嵐。……今日から十二日間、世話になる」
形式ばった言葉のはずなのに、不思議と重く響く。
私は、自分が太陽神であることを思い出す。
役割を果たす存在。平等であるべき存在。
「浅倉陽奈です」
名乗ると、彼は一瞬だけ目を細めた。
「人の名を持つ太陽、か。……悪くない」
そう言って、炎嵐は笑った。
その笑みが、この十二日間の始まりを告げているような気がして、私は小さく息を吸った。
ここが、逃げ場のない場所だということを、
ようやく実感し始めていた。




