表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

空洞とシュークリーム

作者: 元須 木蓮

タツオは器用にきつね色の生地の上に薄い桜色のクリームを乗せたあと

長い指でそっとふたの部分をかぶせ、陶器の皿に並べてゆく。

イチゴのシュークリーム。

日曜の朝、快晴。清潔に手入れされたキッチンに甘い菓子の匂いが広がっている。

薄く開かれた窓からはやわらかな日差しがさしこみ、静かな風景に影をつけている。

タツオは纏っていたブルーのエプロンを手早く外し、籐の椅子にかけた後

丁寧に手を洗い、可愛らしいシュークリームが乗せられた皿を持ち

薄暗い廊下をなるべく音を立てないようにそっと移動する。

この家のアトリエとかつて呼んだ部屋、画材やイーゼルが詰め込まれた場所

その奥に妻のエリコがいて、冬眠中の生き物のように静かに息をしている。

タツオは静かにアトリエのドアを開け、視界の端でエリコの姿を認識する。

乱雑に散乱するキャンバスの山は崩れ、その中央にエリコは立ち尽くしている。

白い絹のワンピース、腰まで伸びた薄茶けた長い髪を横目で見て

そろそろ散髪をしてやらないと、とタツオはぼんやりと思う。

血管が浮き出そうな白い肌に鮮血が滲んでいるかのような、真っ赤な唇。

うさぎのようにつぶらな邪気のない瞳は一切を見据えてはいない。

小さく肩で息をしながら、エリコは豪雨の中の若芽のように

じっと何かに耐えている。棒のような薄い身体は微動だにしない。


タツオはアトリエの隅の小さな丸椅子の上に皿を置き

床のきしむ音すら避けるように、そっと静かに部屋を出て行く。

吐息だけで「おはよう」と呟きながら。


3年前だった。

そういえば最近エリコは絵を描いていないな、とタツオが気づいた時には

すでにエリコの瞳はタツオを映そうとしなくなっていた。

大好きだった料理をしなくなり、いつもピカピカに磨き上げられていたシンクは

薄汚れ始め、冷蔵庫の中は腐敗した食材で溢れ返った。

タツオの帰宅時にはアトリエに籠っているものの、筆も持たずただ中空を見つめていた。

何かがおかしいとタツオは焦り、エリコに詰め寄り、肩を揺さぶり、怒鳴り、

時には頬を張って『理由』を聞き出そうとした。

エリコは何も言わなかった。意志のない人形のようにただそこに佇み

細い身体は全くの抵抗の素振りすらなく、ふわふわと幻のように存在だけがあった。

呼びかけにも、懇願にも、怒りにも全く応じず

無視、ではなく、まるでタツオの存在を認めようとしないかのように。

まるで自分の存在が風景にとけ込んで消えてしまう事を望むかのように。

タツオはがむしゃらに理由を探した。エリコの親族、友人、過去の恋人、

プライドなど全くかまわず自分の全ての時間をそれに費やした。

糸の切れた風船のようなエリコが自分の元から一瞬で消えてしまう想像が

タツオの24時間にべったりとへばりついては彼をじわじわと蝕んだ。

エリコは一日のほとんどをアトリエで過ごした。

覚醒しているのはわずか数時間で、多くの時間、倒れ込むように昏睡していた。

ある時は森のように重なるイーゼルの狭間で、

ある時はキャンバスの下に隠れるように、

精巧に作られたマリオネットのように、エリコは生きていた。

その顔に表情はなく、僅かな瞬きと小さな吐息だけが彼女の命を彩っていた。

タツオは混乱し続けていた。エリコを見つめながら彼は押し潰されそうな焦燥に喘いでいた。


やがて、一人のエリコの友人が重い口を開く。

「エリコには、タツオくんには絶対に言うなって言われてたんだけどさ」

充血した目とボサボサに伸びた髪を振り乱してうつむくタツオに

友人は表情をグシャグシャにゆがめながら、天に許しを請うかのように呟く。

「エリコ、妊娠してたの。凄く喜んでたの。でも、流れちゃって

 それからよ、ほんと少しずつ。最初は気丈にしてた。少しずつ、

 少しずつだけどあっという間だった。

 絵が描けなくなっちゃった、って。描こうとすると、全部血の色になるって。

 タツオくんが仕事の間、何度か様子を見にアトリエに訪ねたわ。

 エリコ、筆を全部折ってた。両手の指に、赤の絵の具をつけて

 キャンバスを引っ掻くの。赤で埋めて、放って。それの繰り返し。

 しばらくしたら、エリコ、抜け殻みたいな目をして泣くの。

 ”わたし、空洞があるみたいに寒いの”って。

 子供みたいに泣くのよ」


タツオはアトリエでエリコを抱きしめて少し泣いた。

そうして事実はタツオにも大きな空洞を空けた。

それをじっと覗き込むときっと吸い込まれてしまうとタツオは直感で察し

それからタツオは全ての揺らぐ感情を空洞に捨てることにした。

そうして彼は家中を磨き、窓を開け、アトリエ以外の部屋を究極にクリーンにした。

強く確固たる存在になろうと、揺らぐ事のない安全地帯を作りたいと願った。


それからタツオは毎週菓子を焼くようになる。

浅くうつろな睡眠から覚める日曜日、外がまだ暗いうちから彼はキッチンを磨く。

たくさんのまっさらな小麦粉、新鮮な卵、宝石のような砂糖。

材料を優しく丁寧な手さばきで混ぜ、形成し、こんがりと焼く。

ある時はケーキ、ある時はプリン、ある時はクッキー、マフィン、タルト・・

どれもこれもが完璧な仕上がりで、立ち上る湯気や香りは幸福の幻影のように

家中に広がり、儚く空間へと染み込み、消えていった。

タツオは出来上がったばかりの菓子を美しい器に美しく盛りつけ、

エリコの傍らに置き続けた。

それらの美しい菓子らは例外なく全くエリコに影響を及ぼす事はなかった。

夕暮れ、埃をかぶって朝置いたままの姿で美しく置き去りにされているのだった。

それでもタツオは作り続けた。例え真っすぐゴミ箱行きになる結果にしかならなくとも

彼は作り続けるしかないと心に誓っていた。

意味などなかった。菓子作りに向き合っている数時間の、無心になれる一時が

タツオには必要だった。それは癒しであり懺悔であり、贖罪だった。


アトリエの丸椅子にシュークリームを置いた後、タツオはリビングに戻り、

手早く食器やボウルを洗い、飛び散った水滴を拭き取り、オーブンを清掃した。

陽光は変わらずリビングに優しく散らばり、変わらず静けさだけがあった。

換気扇を回し、その下で煙草を吸いながら、タツオは薄く目を閉じて

殻の中できつく心を閉ざし、己の空洞を無邪気に覗き込むエリコを思い、愛おしく思った。

その中に、俺を突き落としてくれ。

蹴落として、蓋をして、火を放ってくれても構わない。

一人で空洞を抱えたまま彷徨わないでくれ。

二つの心臓がこんなに近しいのに、自分の鼓動しか聞こえない。

視線は交差する事がなく、言葉は宙に浮かんで弾けて消えるだけだなんて

それはあんまりにも、苦しいことじゃないか。

煙草を持つ指が、ごくわずかに震えている。


陽光に照らされながら、リビングのソファでタツオはいつの間にか眠っている。

あたたかい光の中で、彼は珍しく深く眠りに落ちていきながら

まだエリコがよく笑い、よく泣き、夢中で絵を描いていた頃の夢を見ている。

孤独な狼のような、薄く深い眠りだ。

タツオは夢の中のエリコを抱きしめ、頬を寄せ、一緒に転げ回る。

かつて確かに存在した瞬間を、全身全霊で抱きしめている。


エリコはゆっくりと、それは僅かずつだが確かにゆっくりと、

アトリエの隅の丸椅子の上、ピンク色のシュークリームに近づき、

首を傾げながらじっと見つめ、少しずつ意識を回転させている。

そこに形を成している愛を、じっと見つめ、意識は僅かに回転を増す。

エリコは手を伸ばす。細い枝のような指が、シュークリームに触れ、離れる。

美しく完成されていたシュークリームの一つが、エリコの爪の形に小さくへこんだ。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ