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7.5話『親子水入らず』

 湿気が家の中まで染み込んで、畳に座り込んだ俺の体ごと地面に沈んでいきそうな夕方の記憶。


 火照る頬や鼻血で汚れた鼻の下の感触。じんじんと痛む肘や背中。

 喋ろうとしなくても勝手に喉が震えて声が出る、苦手な感覚。


 1時間ほどそこに座っていたら、手で覆い遮断していた視界の外から廊下を近付いてきた。



「へえ。珍しいなあ、理仁も泣くんや」



 父親がネクタイを緩めながらいつもの柔らかい響きで、いつも通り感情を削ぎ落としたような冷たい声で話しかけてくる。



「うぐっ……うぅ……っ」


「無理せんでええよ。母ちゃん怒らせることでも言うたんやろ」



 酒を取ろうと父親が俺の頭の上を跨ぐ。その時、くしゃくしゃになっている紙を踏みつけたことに気付いた父親がそれを拾い上げて俺に尋ねてきた。



「なんやの、これ」


「がっこ、の……やつ……」


「がっこのやつじゃ分からへんなぁ。宿題なんかもう終わったもんなんか。宿題やったらくしゃげたもん持っていくのはあかんとちゃう?」



 畳に腰を下ろし酒を開けた後、中身をグラスに注ぎながら父親が俺の頭に触れる。撫でる、というよりは髪で見えてない傷を親指で探るような手つきだった。



「顔の傷は目立つやろなぁ。えらい目立ちたがり屋なんやな、母ちゃんは。難儀やねぇ」


「学校の……うぐっ」


「ん?」


「学校、でっ……っ、みらいの……なりたい自分……書くっ……やつで……っ」


「何言うてんねやろ。未来の自分を書く? あれかな、未来の自分がどんなんなっとるか書くみたいな話?」


「ぅん……っ」


「将来の目標みたいなもんかな。それ見られて母ちゃんにしばかれたん?」



 頷くと同時に父親の手が俺の頭から離れた。父親は特に興味も無さそうに「ふぅん」と声を鳴らし、煙草に火をつけて白い煙を吐いたあとに再び紙を手に取った。



「見てもええの?」


「……ん」



 返事すると、血の滲んだ汚い紙を指先でつまんでいた父親が両手でその紙を広げ目を細めた。


 父親は少しだけ押し黙ったあと、鼻で笑ってからその紙を机に置く。



「傑作やん」



 その言葉の意味を当時の俺は知らなかった。ただ、馬鹿にされていることだけは声音から理解できた。



「おかあさんのことをすきになれますように、か。これ、ウッキウキで母ちゃんに見せたん?」


「……うん」


「はっ。ええねぇ子どもは。素直で、純粋で。そうやんなぁ、どんな事されようと親は親やもんな」



 涙と鼻血が染み付いた歪んだ字を指でなぞった後、その指で父親は俺の涙の跡をなぞりながら言う。



「素直で、純粋な気持ちで、好きになりたいって言うたんやもんなぁ。なんも間違った事言うてへん、どこまでも前向きな言葉や。怒られる要素、1個も見当たらへんねぇ」



 俺の気持ちに寄り添う父親の優しい言葉、それに俺はうんうんと頷く。

 なんで怒られたのか分からない、でもいつもよりも激しく叩かれた。その理不尽さに感情が追いつけず泣き出してしまった俺の気持ちを、深く理解して慰めてくれていた。


 父親はいつもそうだった。母親には意地悪をするけど、俺に対してはいつだって優しかった。俺の言葉に寄り添ってくれた。


 声はいつも冷たかったし、見下されてると分かるトーンの言葉しか向けられたことがなかったけれど、それでも言葉だけはいつだって優しい。だから父親はそういう人なんだと思う。


 喉の作りで冷たく聴こえるだけで、俺の唯一の味方は父親しかいなかった。



「やっぱ冷たい子やなぁ、理仁は。誰に似たんやろねぇ」



 冷たい子。何かある度に言われるその言葉だけ、どういう意味かは分からなかったけれど。それでも父親だけは自分の子どもとして、ちゃんと俺を愛してくれてる。だから俺はそれを言われる度、ぎこちないながらも父親に精一杯の笑顔を向けるようにしていた。



「……ほんま誰に似たんやろ。ええ加減、かんにんしてほしいわ」



 知らない言葉を呟いた数ヶ月後、父親は俺たち家族から離れていった。

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