人型の軌跡
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1978”年12月24日、日が沈み切り、時計の針は十の針を指している頃、雪がしんしんと降る寒い夜の日だった。
足を引き摺りながら裏幽坂を登る彼女はハァハァ、と息を切らしながら顔を上に向けてゆっくり慎重に進み続ける。
ここが何処だかも彼女は知らない。
なぜなら、彼女は“外の世界”を視ると云う事が人生を通して経験がなかったのだ。
故に只、彼女は前を進み続けるしかないのだ。
透き通る程の白い肌には刺し傷や切り傷があり、生傷から滴る赤い体液は、足跡と共に踏まれた雪と泥と一緒に刻まれ、グチャグチャと不愉快な感触は裸足の踏み込みでそれは感じ取れていた。
この暗闇の坂道を照らす電灯はジリリ、ジリリと点滅し耳障りな音を奏で続けていた。
街灯には乏しい暗闇であったが、ぽつりぽつりと暖かい光が周りの住宅窓ガラスから漏れている。
でもさぁ──。アイツは──。そんでもって俺は──。ちょっと私に──。あれは僕も──。
住人の会話の声や食べ物の匂いや香り、私生活の音、建物の窓から漏れる凡ゆることは人々が暮らす場所特有の温もりを、彼女にとって今までに感じたことがないモノだった。
これが本来の“家族の在り方”であったり“人の在り方”なのだろうと感じた。
又、その光が少しだけ孤独を紛らわせもしてくれたのも事実だった。
今まで虚像を着飾っていたが、やはり心の何処かでは孤独とは掛け離れた“モノ”に渇望していたのだろう。
切実に思う。
私の心は────人であってほしい。
息を切らしながら進み続け、坂の麓まで見えてきた頃、安堵と共に視界が歪み始めた。
ズキズキと頭痛が悲鳴を上げ、自分の足に訴え続ける。
歩け歩け歩け。
歩け。歩くんだ。
呼吸を整え、彼女は足を前に出す。
彼女自身もそう長くは無いと気付きながらも、少しでも遠くに進みたかった。
命を削りながら進む軌跡は、自分は“生きていたんだ”と実感し少しだけ嬉しく思えた。
故に、前に進める糧となるには十分な理由だったのだ。
一歩、また一歩と暗い夜道の中歩き続けていたが、彼女は坂の麓まで辿り着きピタリと足を止めた。
先程まで降っていた雪は止んでいたことに気が付いた。
雲が流れ月光が街を照らす。
木製の電柱に手を掛けながら空を見上げた。
彼女が目にした其れは、絵本や書物でしか見たことのないモノだった。
漆黒の空に点々とキラキラと眩い光を煌めきかせる星々。
孤独である私が何故か、その感情を忘れる程の幸福に包まれている。
「とても綺麗......」
思わず口が緩んでしまう。
夜空と云うモノを初めてみた彼女は、その赫い瞳で目に焼き付けていた。ジンジンと瞳が熱く、自然と温かい雫が頬を伝って来る。
そして、彼女はそこで歩みを辞めた。
────。
♢
『嬉しい時には微笑みが誕まれ、哀しい時は涙を流す。そんな当たり前な事を当たり前な世界を生きてほしい。貴女ならきっとできるはずよ。心の底から笑いあったり慈しんだり、喜びを分かちあったりそんな未来があったりしたら人生楽しそうじゃない?』
そんなことを言っていたのは誰だったかな。
約束したんだったかな。
途切れ薄れて行く記憶の中、不意に言葉を思い出した。
以前の「◾️」にもそう云ったモノを望んでいたのかもしれない。
思い出そうとしても段々と記憶が泡のように消えていく。
もしもの話。例えばもっと早くに“私”が「◾️」の喜びや悲しみ、怒り、挫折、驚き、嫌悪、恐怖と云った一つ一つの感情を気付いてあげられれば悔いのない人生も歩めたのかもしれない。
「◾️」にはそう云ったモノが無かったんだと思う。可哀想な人だから何も入っていない空っぽな容器と変わらない。
何もかも遅すぎたのだ。人として生きる覚悟が。
幸せとは?人生とは?
果たして自分が存在した意味とは?
結局死に際になってもその答えは見つからなかった。
只、「◾️」の為にも“私”の憎悪の形は“そこ”に置いてきた。
「────あぁ、願うばかりだ。」
自身が成し得なかった祝福を継承してくれる誰かを。
「或いは」
自身を受け入れてくれる誰かを。
「或いは」
物部暉を殺してくれる誰かを。
────。
電柱の側にぽつりと肉塊だけが転がっていた。