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氷獄の一蓮花‐承‐  作者: 浅倉由依
第一章『始まりの場所』
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6.影

 鳥類というのは、どういうわけか事前に危険を察知し、回避行動というものを取る生き物らしい。だから今しがた周囲に隠れていたであろうカラスの大群が夕焼けの空に向かって羽ばたいていったのを見て、レンは何事かと肩を竦めていた。


「ああ、驚いた……、お仲間ですか?」


 今日はまったく驚かされるばかりだと、そういう意味も込めてカラスに問いかける。しかし、返答はない。


「あれ?」


 改めて、レンは周囲を確認する。先ほどまで確かにそこにいたはずなのだが、まるで煙のようにその姿を消していた。先ほどの群れに戻っていったのだろうか? と勝手に納得しつつも、思い出したかのように、帰路につく。

 しかし道中、レンはカラスが訴えていた故郷への唯一の希望に、やはりどちらともいえない複雑な感情を持ち合わせていた。

 帰れるものなら帰りたいと、それは常から思っていたことだ。しかし、自分が思っている以上に、この暮らしも存外悪くないと……いや、むしろ楽しいとさえ感じている。


「はぁ、どうしよう」


 ぐるぐると目が回るような思考を繰り広げ、吐いたため息は森の殺風景な暗闇に消えて行く。すでに陽は落ちており、完全に門限を過ぎているという点も、そのため息に含まれていた。行きにかかった大まかな時間から逆算すれば、すでに見知った道に出てもよいのだが、それが全く見当たらない。周囲の暗がりを見渡し、レンはたった一つの事実に頭を抱えた。


「最悪だ。迷った」


 変わらない景色。太陽の出ている明るい時間帯ならまだしも、この真っ暗闇の中を闇雲に進み続けていくのはよくないだろう。体力の消費も考えれば、今日はこのあたりで野宿するしかないようだ。

 帰ったら兎太郎さんのお小言祭りだな、と困ったように笑う。

 とりあえずと網籠を下ろし、木の幹を背もたれにして寄り掛かった。考えながら歩き続けていたせいか、足は疲労によりむくんでいる。少しでも和らげようと気休めに揉んでみれば、なんともだらしない声が口から洩れていることに気付いた。なんだか年寄り臭いなと思うのだが、そういえば自分は今、何歳なのだろうとふと考え至る。水面を鏡代わりに確認したときは、だいたい二十代前後とみた。そのような細かいところはやはり自分の記憶に聞いてみるしかないのだが、必要のない情報といえばそうでもある。

 冷たい夜風が顎を撫で、思わずぶるりと身震いした。体も冷えてきている。やめよう。変に考えすぎるこの癖は、何とかしなければと思いながら静かに横になる。腕枕で背を丸め、できる限り体温を逃がさないようにと気を配る。今日は本当に疲れた。故に、眠気はすぐそこまで迫っている。いつの間にか風は止み、とても静かな環境と、疲労困憊の身体。この暗闇の中ではこの眠気を我慢するほうが無理というものだ。

 視界が霞み、レンは自分の遠くなる意識に身を任せる。

 かさりと、植物の葉が擦れ合う音を聞いた。

 続いて、地面を歩く、――これは、人間の足音だ。

 思わず意識が急速に覚醒し、跳ね起きる。

 伸び放題の周辺の緑を掻き分け、それはゆっくりと、こちらに向かってきているように思う。足音は軽い。しかし、セイのものではない。では誰だ。

 嫌な予感が、背中をピリピリと刺激している。この自分の本能は、逃げろと警報を鳴らしているのだろうか。わからない。迫る人物は、もしかしたら迷子の自分を助けてくれる人かもしれないではないか。

けれどすぐに、その僅かな可能性は音を立てて崩れ始める。

 月明かりが雲の隙間から顔を出し、あたり一帯が光を受けて、レンはやっとその人物を視界に収めることが出来た。白いローブを深く被っているせいで、詳しい顔の詳細は分からない。背は低く、子供であることが予想された。自分と同じく迷子なのだろうかと声をかける寸前で、レンは息を呑む。子供は、月明かりに反射して輝く刃物のようなものを所持していたからだ。先端には、黒い液体のようなものが滴っている。

 気付いたら、レンは走っていた。全速力だ。枝葉が皮膚を切り付け、掠り傷になることすら気にならない様子だ。というか、気にしてなどいられない。命の危機だ。本能の警報は未だ鳴り止む様子もない。今はただ、走るのみ。どこでもいい、逃げきれさえすれば、きっと日常に帰れるのだから。そう言い聞かせて、足を動かす。

 視界が、重なる。言い逃れのないこの感覚。既視感とも呼ぶべきだろうか。自分はかつて、このような逃走を経験したことがある。けれどそれに意識を割けるほどの余裕がない。

 背後から続くもう一つの足音は、やはり自分を追いかけてきている。恐怖と緊張、視界の悪さから、正確な距離は把握できない。けれどあちらのほうがずっと身軽で、そして自分より、この環境に慣れているように思う。

 昼間の兎太郎の言葉が脳裏を過る。背後からの圧は、まさに狩人そのもの。自分が獲物として追いかけられるという事実は、正直生きた心地がしない。当然だ。今がまさに瀬戸際なのだから。でも、いったいなぜ?

 数歩先、左の茂みが、揺れる。どきりと、心臓が高鳴る。背後の仲間だったらどうしようという考える時間が僅かにあったが、止まりきれない。勢い余って飛び出した影にぶつかり、レンは綺麗に地面を転がる羽目になった。

 土埃が上がり、少し咳き込む。

 その背後から聞こえたのは、同じく苦痛に悶える声と、そして自分の名前を呼ぶ年若い少年のものであった。


「レン、さん?」


「セイくん!」


 思わず駆け寄り、強く抱きしめてしまう。今までの恐怖が、全て吹き飛んでしまうほどの安心感。相手が子供であろうと、構わなかった。それだけレンにとっては、孤独というものが耐え難いものだったと理解する。けれどそれも一瞬のこと。止まっている場合ではない。


「ダメだ、逃げなきゃ」


 セイの手を取り、戸惑いを隠せないままの少年を連れて再び駆け出す。


「ちょっと、なん、なんですか」


「ヤバい人がいたんだ、とにかく逃げなきゃ殺されちゃうよ!」


「はぁ⁈」


 セイはレンの手を振りほどき、


「落ち着いてください! ……一体何から逃げているのかはわかりませんが、今は俺たちの、他には誰も見られません」


「え?」


 肩で息をしながら、レンはセイに促されるまま周囲を見渡す。そう言われれば確かに、例の人物の気配はなくなっているようにも思う。


「でも嘘じゃないんだ、本当に……」


 未だこの目は信じきれていないが、ひとまずは危機が去ったという事実に体の緊張は解けてしまい、その場に腰を落とす。


「まったく、本当にやかましい人ですね」


 まるで頭痛に耐えるかのように額に手をやったセイをみて、レンは咄嗟に「あれ?」と疑問の声を漏らした。


「腕、どうしたの? 怪我したの?」


 袖口から覗く細く白い肌の上には、不器用に何重にも包帯が巻かれていた。記憶が正しければ、朝の時点ではしていなかったはずだ。


「これはちょっと、……」


 言葉を濁すセイ。まずい転び方でもしたのだろうか。であれば彼のプライドを踏みにじるのもよくないと、詮索はしなかった。


「そんなことよりも、早く帰りましょう。揃って門限を破っているんです。お説教は覚悟しないとですね」


 驚いた。少年はてっきり、自分のことを迎えに来てくれたのかとおもっていたが、違うようだ。


「あはは、もうくたくただよ。お腹もすいたし眠い……」


 半分、本当で半分は嘘。眠くはない。先ほどの熱が、まだ体の中で燻ぶっているような、そんな感覚。

 二人は並んで月明かりの下、帰りを急いだ。少年は時折腕を気にする素振りを見せてはいたが、レンは気付かないふりをした。暗がりが恐ろしく感じていたのか、今の自分は想像以上によく喋る。普段のセイならば煩いと切り捨てるところだが、会話はそこそこ続いていた。

 見知った獣道にでる。そこでやっと、レンは少年とまともに会話をしていたことに嬉しさが込み上げていた。こんなことは初めてだ。ほんの少しだが、彼のことを理解できた気がする、と。そして、後悔もする。もし自分がここを出る選択肢を選んでしまえば、全てが水の泡なのではないか。

 そう、選択。突きつけられる二つの問い。いずれは、選ばなければならないもの。

 レンはふいに、セイを見た。

 セイは視線に気付き、困ったように眉を寄せて小さく微笑んだ。

 ――まだ、いいかな。

 青年は夜空の下、今の家族と共にあることを望んだ。けれど、運命というものは時に残酷だ。

 セイはその鋭い眼差しで先を急ぐ、大きな背中を悲しそうに見つめる。


 少年が人としての意識を保てる時間は、残り僅かなのだから。


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