2.日常
「うおおー! とりゃー!」
ざわざわと騒ぐ木の葉からの声援を受け、風に背中を押される。周囲を緑に囲まれた獣道の真ん中で、レンは今、必死にお昼のおかずを賭けた鬼ごっこの最中だった。視線の先には、どこから迷い込んできたのか、白い毛並みのうさぎが一匹必死になって逃げ続けている。
萌葱色の着物がはためき、白の羽織が時々木に引っ掛かっては邪魔をされた。それでも、生きて地を走るその生命体を見かけたレンは、胸の高鳴りを抑えられない。今日は豪勢に兎鍋だと意気込んでいる。しかし距離は縮まるどころか、開く一方ではないか。
「待てこら!」
躍起になり、彼は持てる脚力の全てを使って、飛んだ。「獲った……!」と確信しさえした。けれどこの腕を器用にもすり抜け、獲物は一瞬のうちに見えなくなってしまう。
「ああ~……」
青空の下で落胆の声があがった。そしてその声に反応するかのように、彼の懐から小さな生き物が顔を出した。
「そんなに分かりやすい動きでは、獲れるものも獲れないだろうね」
雪兎だ。赤いつぶらな瞳と、ユズリハを組み合わせて作られた、手のひらに収まるほどの小さな存在。それが彼の懐で、まるで生き物のように口を利いている。
「いけると思ったんですけどね」
頬をかきながら、レンは乾いた笑いで誤魔化そうとした。「必死になるのも無理はないけれど、」と雪兎の兎太郎は同情しつつも、彼がこの場所で少しでも穏やかに、生きやすい環境の中過ごせるようになるには、と思考を凝らしている。
「狩りに必要なのは、相手の動きを予測することさ」
「予測……」
「罠を仕掛けるのも、それの延長線上といえよう」
「もっと早く言ってくださいよ」
「仕方なかろう。あれの出現は偶然の産物だよ」
雪兎とはいえ、兎には違いないであろう存在から狩りの仕方を教わるのはやはり変な感じだ。そんな思考を汲み取ったのか、兎太郎は疑いの眼差しでレンを見つめ始めている。
「なにか失礼なことを考えているね?」
「いいいいいえいえ滅相もございません!」
手を大げさに振りながら、レンは必死になって否定を繰り返す。それでも兎太郎の目つきが変わることはなかった。
「で、でででもほら、珍しいですよね。兎とかそういう生き物なんて、今まで全然見たことなかったのに」
これは比喩ではなく、本当のことである。
にわかには信じがたい話だ。生い茂る草木、緑豊かな自然の中にいる彼だが、かのように野を駆ける存在を、この森の中では見たことがないのだから。偶然目に入らなかっただけだろうかと考えるも、それにしても鳥一羽も見かけないのは不自然である。ここの生態系は一体どうなっているのか疑問は尽きないが、いくら思考を巡らそうと答えは出ない。兎太郎に尋ねても、ぱっとしない返事ばかり。だからこそ、いつの日からか考えることを諦めてしまっていた。
「そうだね。うっかり紛れ込んでしまったのかもしれないね」
「……うっかり?」
途端に驚いたような顔をして、兎太郎は先ほどの自分と同じように両手を振っている。
「いや、何でもない。そろそろ戻ろうか。いったん、お昼にしよう」
「賛成です。動き疲れました」
レンの腹から空腹を訴える悲鳴が聞こえた。それを合図に来た道を引き返せば、少しして遠くから水の流れる音が聞こえる。今日も魚か、と思わずため息が漏れてしまった。
レンのこのような原始的生活が始まったのは、つい三か月ほど前からだ。当時彼が目を覚ました時、それはどこかも知らない洞窟の中だった。ざあざあと降りしきる不快な雨音を、よく覚えている。そんな中初めて目にしたものが兎太郎であり、彼はとても世話好きだった。目が覚めたばかりの彼が空腹だろうと、予め粥を用意してくれていたり、洞窟の中なのに(どこで調達してきたのか)布団の中で寝かせてくれていたりと。むしろ何か問題があるとすれば、それはレン自身の方だろう。兎太郎に問われ、自分に関する質問をされるが、彼には何一つ答えることが出来なかったのだから。自身の名前、家族、故郷について。何か一つでもと思い出そうとすると激しい頭痛に見舞われ、口も開けないほどに重症だったのだ。だからこのレンという名も、本当の名前ではない。記憶が戻るまでここに居ていいという兎太郎たちの意見の元、付けられた仮名に過ぎなかった。
「しかし君を川から拾って、もうそれなりに経つ頃だね。かれこれ三か月くらいかな? どうだい? ここの暮らしは、慣れたかな?」
「う……まぁ、ぼちぼち、です」
ぽちゃんという音を立てて水面が広がり、レンは慣れた手つきで竿を配置する。先ほどどこから取り出したのか、兎太郎から借りたものだ。そして随分と座り心地の悪い丸太に腰を下ろしている。場所は拠点とする洞窟から南に歩いて一〇分ほどのところにある、やや流れの激しい川だ。その視界の先には見上げるほどの大きな滝がある。
「なんだかすみません、早く思い出して帰らなきゃとは思っているんですが……」
詳しく話を聞けば、レンはどんぶらこ、とこの川を流れているのを彼らに拾われたらしい。場所は現地点から二キロほど下った、下流であるそうだ。
「焦ることはないさ。叶うなら、このままずっと、ここにいてくれてもいいんだからね」
兎太郎も小さな釣り竿を用いて、餌をつけた先端部分を水面へと落とす。
「君といるようになってから、この場所も、あの子も、ずいぶん明るくなった」
あれで——? と脳裏を過る、見慣れたすまし顔に睨まれた。
あの子とは、兎太郎の他に塒を共にしているもう一人の存在のことだ。元々は彼ら二人がこの周辺で暮らしていたらしい。その子の正確な年齢は分からないが、おそらく十代にも満たないだろう。真っ直ぐな黒髪に、キリっとした鋭い目つきがかなり印象的な男の子だ。常に白装束を着ているのだが、それが気になり尋ねたところ、「幽霊だからこれが正装なんです」だと笑えない冗談を言われた。そうは言われても実際に触れられるし、見える聞こえる存在を幽霊だとは信じられないだろう。けれど一つ気がかりがあるとすれば、彼が食事をとったところを見たことがないということだ。
「相変わらず暇そうですね」
噂をすればなんとやら。背後にある茂みから顔を出し、そう問いかけた人物がまさに、自称幽霊のセイと名乗る少年だ。
「そんな獲物のいないところに餌をぶら下げて、いったい何を釣るつもりなんです?」
「え」
そういわれて、気付く。最初はそれなりに気配があったからこそ、この場所を陣取っていたわけだ。なのに今は、魚の影一つ見当たらない。まだ始めて時間があまり経っていないだろうに。生き物の本能だろうかと、先ほどの兎との追いかけっこを思い出していた。あれもかなり最初の段階で、レンの存在に気付いた様子であったのだ。
「ほんと上達しませんね。ヘタクソ。どいてください」
「うあ、ちょっと。――ぎゃっ」
肩を押され、バランスを崩したレンは丸太から転がり落ちる。それに対し一切目も向けることなく、セイは川の中へ入りこんだ。流れの強さなど気にならない様子で、一歩二歩と足を進めていく。
「え、あ、危ないよ!」
川というのは急に底が深くなっていることもあるのだ。心配になりレンは叫んだ。しかし、セイは止まらない。そしてある一か所に到達すると、今度はただじっとして動かなくなってしまった。何をするつもりなのかと、レンは少し興味があるようにセイから目を離せない。一瞬ゆらりと、少年の背中が歪んだように見えた。
すると瞬きの間、彼の周りで次々と魚が跳ねる。輝く鱗は水飛沫の光を反射して、生き生きとその躍動を全身で表現しているようだ。今、何が起きたのかは分からない。何をしたのかも分からない。先ほどの静けさが嘘のように、ただ、レンは茫然とその光景に目を奪われているしかない。まるで時間の流れがゆっくりであるかのようだった。
再び彼の時間が正しい速度で動き出したのは、セイがその魚を弾いてこちらへ飛ばしてきたからだ。顔面に迫る生魚の、あまり直視するにふさわしくない不細工な顔といったら、嫌でも現実に引き戻されるであろう。
間一髪で避ける。しかし少年の猛攻はそれだけにとどまらない。まるで跳ねた魚たちの着地点を予知していたかのような動きだ。苦手な生魚特有の匂いに顔を歪ませれば、最後に放り込まれた魚を躱せず、ぬめりとした粘膜の感触が頬を伝う。
「うええ……。すごいけど、もっとやり方、あったよね?」
袖口で顔を拭いながら、レンは正直な感想を述べる。
「これぐらいが普通でちょうどいいでしょう」
まるで何事もなかったかのように、セイは涼しい顔で陸に上がる。それを見届けていれば、やはり恨みを込めた視線と交わった。反射的に、目を背けてしまう。
「あなたが鈍臭すぎるんです」
横目で様子を窺っていれば、あとは着崩れた白装束を正すように身なりを整えている。その布地や白い肌が水に濡れている気配は、ない。
追い打ちをかけるように、セイの辛辣は止まらない。
「むしろどうしてこれが出来ないのか、俺には分かりませんね」
そう吐き捨てる目の前の人物に、レンはただ「すみません」と肩を落とすしかない。
足元で跳ねている新鮮な魚を見れば、元気出せよとこちらを励ましているようにも思えた。
「早く拠点に戻りますよ。おれは暇ではないので」