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●第6章:母として、戦士として

 ホープの誕生から半年が過ぎた頃、颯は再び立ち上がる決意をした。


「戻ってきてくださるんですね!」


 教え子たちは、颯の復帰を心から喜んでくれた。


 しかし、今度は違った。


 颯は、より深い理解と共感を持って、女性たちと向き合うようになっていた。


「強さとは、ただ相手を倒すことではありません」


 颯は、新しい生徒たちにそう語りかける。


「それは、自分の心に正直に向き合い、弱さを認めた上で、なお前に進む勇気なのです」


 その言葉には、実体験に基づく重みがあった。


 ホープは、教室の隅に設けられた簡易の保育スペースで、生徒たちに見守られながら、すくすくと育っていった。


「先生の赤ちゃん、私たちの希望の星ですね」


 そんな言葉を、生徒たちはよく口にした。


 颯は、自分の過去を誰にも語ることはなかった。

 しかし、その経験は確実に、彼女の指導に活かされていた。


「皆さんには、それぞれの人生があります。それぞれの苦しみや悩みがある。でも、だからこそ、私たちは強くなれる」


 颯のクラスは、単なるボクシングの技術指導を超えて、女性たちの心の拠り所となっていった。


 そして、その評判は静かに、しかし着実に広がっていった。


 ある日、一人の来訪者があった。


「私の妻が、あなたの教室で大きく変わりました」


 その男性は、紳士然とした態度で颯に語りかけた。


「最初は反対でした。しかし、妻の表情が日に日に明るくなっていく。そして、家庭でも自分の意見をはっきりと話すようになった」


 男性は深々と頭を下げた。


「ありがとうございます。本当の意味での、対等なパートナーシップを築く機会を与えてくれて」


 その言葉に、颯は深い感銘を受けた。


(変われるんだ。人は、本当に変われる)


 それは、自身の変化を改めて実感させる出来事でもあった。


 月日は流れ、ホープは2歳になろうとしていた。

 

 颯の教室は、もはや単なるボクシング教室ではなかった。

 

 それは、女性たちが自分自身を見つめ直し、新たな一歩を踏み出すための場所となっていた。


 夕暮れ時のジム。窓から差し込む茜色の光が、汗で光る床を染めていた。


 颯は、普段より長く教室に残っていた。端の長椅子に腰かけ、生徒たちの姿を見つめている。レッスンは既に終わっているのに、何人もの女性たちが残って自主練習を続けていた。


 ミセス・ウィリアムズは、シャドーボクシングに没頭していた。彼女が教室に来た当初は、夫の暴力に怯える日々を送っていた。しかし今、彼女の動きには確かな自信が宿っている。先日、彼女は初めて夫に「ノー」と言えたと、誇らしげに報告してくれた。


「もっと腰を入れて。そう、その調子です」


 颯の言葉に、彼女は嬉しそうに頷く。その横顔には、かつての翳りは見当たらない。


 パンチング・バッグの前では、アリスが黙々と基本動作を反復していた。幼い頃から「女の子は大人しくすべき」と言い聞かされ、自己主張を封じ込めてきた彼女。最初は拳を握ることさえ躊躇していたのに、今では力強いストレートを繰り出せるようになっていた。


 先週、彼女は念願の大学進学を両親に告げたという。


「先生、見ていてください」


 アリスの声には、かつての迷いはない。彼女は真っ直ぐに前を見据え、自分の未来を切り開こうとしていた。


 リング際では、メアリーとジェーンがスパーリングの練習をしている。二人とも工場労働者だ。かつては、男性上司からの理不尽な扱いに耐えるしかなかった。しかし、ここで学んだことは単なる護身術以上のものだった。


「自分の価値は、他人が決めるものじゃない」


 メアリーがよく口にする言葉だ。先月、彼女たちは同僚と共に、労働条件の改善を求める嘆願書を提出した。


 ホープは保育スペースで、新入会の子供と遊んでいた。母親たちが練習に打ち込める間、子供たちの面倒を見るのが、今や彼の日課となっていた。


「ねえ、お母さんたち、すごく強いでしょう?」


 ホープの誇らしげな声に、幼い子供が目を輝かせて頷く。


 颯は静かに微笑んだ。この場所は、もはや単なるボクシングジムではない。


 ここには、様々な物語があった。

 家庭内暴力から逃れようとする女性。

 自分の夢を諦めきれない少女。

 不当な扱いに声を上げようとする労働者。

 そして、そんな母親たちを誇りに思う子供たち。


 彼女たちは、拳の使い方だけでなく、自分自身の人生を生きる勇気を学んでいた。時には涙を流し、時には怒りをぶつけ、そして少しずつ、確実に強くなっていく。


 夕陽が沈みかける頃、生徒たちは次々と帰路につき始めた。


「先生、また明日」


 明るい声と共に、颯に深々と一礼をする。その背中には、確かな自信が宿っていた。


 ジムの片隅で、一人の新入生が黙々とミットを片付けていた。彼女の目は、まだ迷いに満ちている。しかし颯は知っていた。彼女もきっと、自分の道を見つけるだろう。


 この場所には、そんな可能性が満ちていた。


「さあ、今日も片付けましょうか」


 颯は立ち上がり、ホープと共に床を拭き始めた。窓の外では、街灯が一つ、また一つと灯り始めている。


 それは、新しい夜明けを待つ、希望の光のようだった。


「これが、私の贖罪の形なのかもしれない」


 颯は、夕暮れのジムで、そうつぶやいた。


 しかし、物語はまだ終わらない。


 颯の前には、最後の試練が待ち受けていた。


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