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●第4章:深い闇の中で

 その日は、いつもと変わらない教室の後だった。


「エレノアさん、お疲れさまでした」


 生徒たちが帰った後、颯は一人で後片付けをしていた。外は既に暗く、ガス灯の明かりだけが通りを照らしている。


「おや、まだ居たのかい?」


 声をかけてきたのは、ジムの用務員のトーマスだった。いつも親切で、颯の活動にも理解を示してくれていた男性だ。


「ええ、もう少しで終わりです」


 颯が答えた時、外で物音がした。


「誰かいるのかな。ちょっと見てきましょう」


 トーマスが外に出て行く。しかし、しばらくしても戻って来ない。


 不審に思った颯が外に出ると、そこで彼女を待ち伏せていたのは、かつての対戦相手たちだった。


 そして、トーマスの姿はなかった。


「よく来たな、お嬢ちゃん」


 男たちの目は、底知れない憎悪に満ちていた。


「よくも俺たちの誇りを踏みにじりやがって」

「俺たちはもう試合も組んでもらえねえ!」


 颯は後ずさりしようとしたが、既に背後も塞がれていた。


 そして、その後に起こったことは、颯の魂を深く傷つけることになった。


 男たちは、颯を薄暗い倉庫に連れ込んだ。


 抵抗は無駄だった。いくら格闘技の達人とはいえ、この肉体は16歳の少女のもの。しかも相手は大の男が五人。


「これで、もうリングには立てまいよ」


 男たちの冷たい言葉と蹂躙行為は、颯の心に深い傷を刻んでいった。


 それは、かつての自分が女性たちにしてきたことの、まさに報いだった。


 暴行は一時間以上続いた。


 気を失いかけた颯の耳に、かすかに物音が聞こえた。


「誰かいるぞ!」


 男たちは慌てて逃げ出す。


 意識が遠のく中、颯は自分の過去の行いを思い出していた。


(私も……こんな苦しみを、何人もの女性に味わわせてきたのか……)


 その認識が、颯の心を引き裂いた。



 目覚めたのは、病院のベッドの上だった。


 幸い、通りがかりの巡査に発見され、一命は取り留めた。しかし、颯の心は深く傷ついていた。



 病室に差し込む午後の光は、どこか冷たく感じられた。白い壁と消毒薬の匂いが漂う中、颯は半ば上体を起こしたまま、窓の外を見つめていた。顔には未だ痣が残り、包帯で覆われた腕には点滴の針が刺さっている。


 母が最初に口を開いた。声は震えていた。


「やはり、ボクシングなど」


 その言葉は途切れたが、その後に続く非難の感情は明らかだった。颯の父は椅子から立ち上がり、窓際まで歩いていく。その背中には、これまで見たことがないほどの怒りが滲んでいた。


「こんな事態になるなんて」


 父の声には、怒りと共に深い後悔が混じっていた。娘を守れなかった無力感。そして、颯の選択を止められなかった自責の念。それらが全て、その短い言葉に込められていた。


 部屋の隅で、サー・ジョージは深く俯いていた。普段の毅然とした態度は影を潜め、肩を落として立っている。彼の表情には、深い悔恨の色が浮かんでいた。年老いた顔には、幾筋もの深い皺が刻まれているように見えた。


「申し訳ない。私の見込みが甘かった」


 その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるかのように、低く呟かれた。颯を支援してきた者としての責任。そして、この時代にあって、女性の可能性を信じすぎた自身の理想主義。それらが、全て徒労に終わったかのような諦めが、その声音には滲んでいた。


 しかし、誰よりも深い苦しみを味わっていたのは、颯自身だった。


 彼女は黙って自分の手を見つめていた。かつて誇りを持って振るっていたその手は、今は無力に震えている。しかし、その身体的な痛みは、心の中の傷に比べれば些細なものだった。


 それは単なる肉体的な傷害以上のものだった。


 暴行の記憶は、まるで黒い影のように彼女の心に纏わりついていた。それは、前世で自分が女性たちに与えてきた苦しみの具現化のようでもあった。今、自分が味わっているこの無力感、屈辱、そして深い絶望。かつての自分は、同じような苦しみを、どれほど多くの女性たちに与えてきたのだろうか。


 それは、魂の深部に刻まれた傷痕だった。


 震える指先で、颯はベッドのシーツを強く握りしめる。その白い布地に、小さな水滴が落ちた。涙だった。しかし、颯は顔を上げることができなかった。


 部屋の中は、重い沈黙に包まれていた。


 窓の外では、灰色の雲が静かに流れていく。その光景は、颯の心の中の暗闇とどこか重なって見えた。しかし、その雲の向こうには、必ず太陽が存在している。それを、颯はまだ信じることができなかった。


 今の彼女には、その先にある光を見ることができなかった。ただ、魂を引き裂くような痛みだけが、彼女の全てを支配していた。


 病室の窓から差し込む午後の光は、いつもと変わらない穏やかさで部屋を照らしていた。颯は窓の外を見つめたまま、またひとつ、ただ何も変わらない一日が過ぎていくのを待っていた。


 事件から二週間。誰とも会おうとせず、ただベッドに横たわり続けていた颯の耳に、突然、懐かしい声が飛び込んでくた。


「先生!」


 廊下から響いてきたその声に、颯は思わず身を強張らせた。


 病室のドアが開く。そこには、マーガレット・ウィンターズの、涙で潤んだ瞳があった。彼女は颯の教室で最も古い生徒の一人だった。


「よかった……本当に会えて……」


 マーガレットの声は震えていた。その後ろには、教室の生徒たちが次々と姿を現す。皆、花束を手に持ち、不安と期待の入り混じった表情を浮かべていた。


 颯は咄嗟に顔を背けようとした。自分の惨めな姿を、誰にも見せたくなかった。しかし――。


「先生、私たち、毎日心配していたんです」


 アリス・ブラウンの声。彼女は夫からの暴力に耐えかね、颯の教室に逃げ込んできた女性だった。


「でも、病院に来ることを躊躇っていました。先生が、きっと私たちに会いたくないと思っているんじゃないかって……」


 キャサリン・ホワイトが続ける。彼女の目には、決意の色が宿っていた。


「でも、もう黙ってはいられないんです」


 生徒たちは、少しずつ颯のベッドに近づいてきた。


「私たち、先生の教えを忘れません」


 サラ・グリーンの声。彼女は最初、まともに拳も握れない弱々しい少女だった。


「必ず、また一緒に練習しましょう」


 エリザベス・テイラーが続く。彼女は上流階級の令嬢でありながら、社会の不正に立ち向かおうとする勇気を持っていた。


「先生が教えてくれた強さは、こんな卑劣な行為では消せません」


 メアリー・ジョンソン。

 夫を亡くし、一人で子供を育てながら、毎週教室に通ってきた女性。


 一人、また一人と、生徒たちの言葉が重なっていく。


「先生の背筋の伸びた立ち方を見て、私も強くなれると信じました」

「フットワークを教わりながら、人生でも踏ん張る力を学びました」

「先生の眼差しは、いつも私たちの心の奥底まで見透かしているようでした」


 その言葉の一つ一つが、颯の凍りついた心に、そっと温もりを与えていく。まるで、春の陽だまりが少しずつ冬の氷を溶かしていくように。


 颯は、ゆっくりと顔を上げた。


 そこには、自分が教えてきた女性たちの、力強い表情があった。彼女たちの目には、もはや昔日の弱さや迷いは見られない。そこにあるのは、確かな強さと、深い思いやりだった。


(私は……一人じゃないんだ)


 その気づきは、颯の心を大きく揺さぶった。


「みんな……」


 颯の声は、かすかに震えていた。それは恐怖や絶望からではなく、込み上げてくる感情を抑えきれないためだった。


「ありがとう……」


 その一言と共に、颯の頬を一筋の涙が伝った。それは、凍てついていた心が溶け出す証だった。


 窓から差し込む午後の光が、病室に集まった女性たちの姿を柔らかく包み込んでいた。その光の中で、颯は初めて、自分の未来に希望を見出していた。


 これは終わりではない。

 むしろ、新しい始まりなのかもしれない。


 颯は、そう感じていた。



 朝靄の立ち込めるロンドンの空の下、颯は静かに目を覚ました。日の光がレースのカーテンを透かして、部屋に柔らかな光を投げかけていた。


 起き上がろうとした瞬間、それは訪れた。


 突如として込み上げてきた吐き気に、颯は思わず身を前のめりにする。喉元まで這い上がってくる不快な感覚。慌てて脇に置いてあった磁器の洗面器に手を伸ばした。


 吐き気は、まるで波のように押し寄せてきた。


「まさか……」


 颯の脳裏に、ある可能性が稲妻のように走る。その考えは、即座に全身の血を凍らせた。


 鏡に映る自分の顔が、蒼白に変わっていくのが分かる。両手が小刻みに震え始めた。


 さらに思い返せば、ここ数日、何か違和感があった。微かな疲労感。食べ物の好みの変化。そして、最も決定的な徴候――。


「生理が……」


 颯は計算する。指を折りながら日にちを数え、その事実に愕然とした。確かに遅れている。それも、かなりの日数を。


 しかし、まだ希望的観測を捨てきれない自分がいた。

 

 過度な運動による体調不良かもしれない。

 単なるストレスの影響かもしれない。

 そう思いたかった。


 けれども、身体が示す兆候は、もはや偶然とは言えないほど明確だった。


「確かめなければ」


 颯は震える声で呟いた。


 その日の午後、颯は変装して、街の産婦人科医を訪ねた。待合室の長椅子に座りながら、彼女の心は激しく揺れ動いていた。


 前世の記憶が、不意に蘇る。

 かつて自分が、愛人たちにこの同じ状況を経験させていたこと。

 その時の自分の冷淡さ。

 そして今、自分がその立場に置かれている皮肉。


「グレイストンさん」


 看護婦に名前を呼ばれ、颯は深い溜息をついてから立ち上がった。診察室に入る足取りは、かつてリングに上がる時のような重さがあった。


 検査の過程は、まるで拷問のように感じられた。

 一つ一つの質問。

 それぞれの検査項目。

 すべてが、自分の予感を確信へと変えていく。


 そして、ついに医師が口を開いた。


「確かに妊娠しています」


 その言葉は、颯の耳に絶望として響いた。


 帰り道、颯は足を止めて、近くの公園のベンチに腰を下ろした。冷たい風が頬を撫でていく。


 彼女の手が、自然と腹部に触れる。

 そこには確かに、新しい命が宿っている。

 暴行の夜に植え付けられた、望まない種。

 しかし、紛れもない生命。


 颯の目から、静かに涙が零れ落ちた。


 それは悔しさの涙なのか、絶望の涙なのか、それとも――。

 

 彼女自身にも、まだ分からなかった。


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