●第3章:栄光と苦悩
颯の名声は、瞬く間に広がっていった。
「奇跡の女性ボクサー」
「リング上の女神」
「ボクシング界の革命児」
新聞は競うように颯の記事を掲載し、上流社会のサロンでは、彼女の話題で持ちきりだった。
しかし、颯の関心は別のところにあった。
女性のためのボクシング教室には、予想以上の反響があった。最初は物珍しさから集まった女性たちも、次第にボクシングの本質的な魅力に引き込まれていく。
「ボクシングは、単なる暴力ではありません」
颯は生徒たちにそう説く。
「それは自分自身との戦い。そして、技術を磨くことで、私たちは強くなれるのです」
その言葉には、前世の経験が深く染み込んでいた。
雨の降りしきる木曜日の午後、颯の教室には普段以上の熱気が漂っていた。
「エリザベス、その左ジャブ、もう少し腰を入れて」
颯の声が、ジムに響く。サンドバッグに向かって打ち込みを繰り返すエリザベスは、婦人参政権協会のリーダーの一人だ。彼女の額には汗が滴り、その表情には強い意志が宿っていた。
「ありがとうございます、エレノア先生」
エリザベスは一瞬動きを止め、深く呼吸を整える。その横では、同じ協会のメアリーとジェーンが、ミットを使った練習に没頭していた。
「昨日の集会で、また警官に囲まれたわ」
ミットを受けながら、メアリーが静かに語り始める。
「でも、怖くなかった。この教室で学んだことが、私の中で生きていたの」
颯は黙って聞いていた。メアリーの目には、かつての臆病さは見られない。
「体の使い方を知ることは、心の使い方を知ることでもある」
颯はそう言いながら、メアリーのスタンスを軽く修正する。
「重心を下げて。そう、その姿勢なら、誰にも簡単には倒されないわ」
教室の隅では、新入りのキャサリンが黙々とシャドーボクシングを続けていた。彼女は先週の抗議活動で投獄され、昨日釈放されたばかりだ。その目には、まだ恐怖の残滓が見える。
「キャサリン」
颯は静かに声をかけた。
「あなたの恐れを、力に変えましょう」
キャサリンの動きが一瞬止まる。
「でも、私には……」
「大丈夫。ここにいる誰もが、最初は不安を抱えていた。でも見てごらんなさい」
颯は、サンドバッグに向かうエリザベスの姿を指さした。その力強いパンチの一つ一つには、確かな意志が込められている。
「私たちが求めているのは、暴力ではありません。自分の心と体を知り、コントロールする力。そして――」
「そして?」
キャサリンが、期待を込めて尋ねる。
「そして、立ち上がり続ける勇気です」
その言葉に、教室全体が静まり返った。
「今日は、新しい技を教えましょう」
颯は、中央に立つ。
「相手の力を利用して身を守る方法。これは、ボクシングの基本でもあり、私たちの戦いの本質でもあります」
生徒たちが、自然と颯の周りに集まってくる。その表情には、真摯な学びの意志が浮かんでいた。
「暴力に暴力で応えても、何も生まれません。でも、相手の力を受け止め、それを昇華させる。その技を、今日は学びましょう」
雨音が、窓を叩く。しかし、教室の空気は澄んでいた。
「実は今日、チャリング・クロス駅前での演説を予定しているの」
練習の合間、エリザベスが切り出した。
「警官たちが来ても、もう逃げません。でも、決して暴力は使わない。この教室で学んだように、毅然と立ち続けるだけ」
颯は静かに頷いた。そこには、単なるボクシングの技術指導を超えた、深い理解が流れていた。
「私も行くわ」
「私たちも」
次々と声が上がる。それは、かつての臆病な声ではなかった。
夕暮れ時、練習を終えた生徒たちが帰路につく頃、颯は窓際に立っていた。雨は上がり、西空には薄明かりが差していた。
(彼女たちの中で、確かに何かが変わっている)
それは、単なる技術の向上ではない。自分の身体を知り、コントロールすることで得られた自信。そして何より、共に学び、共に立ち上がる勇気。
翌日の新聞は、チャリング・クロス駅前での出来事を報じた。
「婦人参政権運動家たち、整然と演説。警官隊との衝突を巧みに回避」
その記事の隅には、毅然と立つエリザベスたちの小さな写真が載っていた。彼女たちの姿勢には、颯の教室で学んだものが確かに生きていた。
一方で、颯の試合は続いていた。
男性選手との試合は、毎回が注目を集めた。しかし、颯は決して奢ることはなかった。むしろ、勝利を重ねるごとに、より慎重になっていった。
(この時代の男たちのプライドを、必要以上に傷つけてはいけない)
そう考えた颯は、試合では必要最小限の力しか使わないようにしていた。それでも、その実力は群を抜いていた。
夕暮れ時のジムは、まだ熱気に包まれていた。颯の華麗な試合運びに、観客たちは興奮の渦の中にいた。
「素晴らしい試合でした!」
「まるでダンスのようでしたわ」
観客たちの歓声が、まだ耳に残っている。颯は着替えを終え、ジムを出ようとしていた。石造りの廊下には、ガス灯の明かりが揺らめいていた。
「エレノア・グレイストン嬢」
突然、暗がりから声がかかった。振り向くと、そこには一人の男が立っていた。端正な顔立ちだが、目元には何か冷たいものが潜んでいる。見覚えのある顔だった。ボクシング連盟の重鎮、ジェームズ・ハリントン卿である。
「残念ながら、あなたの試合は、もう見られなくなるでしょう」
その声音には、どこか愉悦が混じっていた。颯は背筋が凍るのを感じた。
「どういうおつもりですか?」
颯は平静を装いながら問いかけた。廊下に漂う湿った空気が、急に重くなったように感じられた。
「私たちボクシング連盟は、決定を下しました」
ハリントン卿は、高価な杖を軽く突きながら、ゆっくりと颯に近づいてきた。靴音が石の廊下に冷たく響く。
「女性のボクシングは、スポーツとしてあるべき姿から逸脱している。これ以上の試合は認められない」
その言葉に、颯の内側で怒りが燃え上がった。しかし、表情は冷静さを保っていた。この時代に生まれ変わって以来、幾度となく目にしてきた現実がある。女性への偏見、そして権力者たちの傲慢さ。
「では、非公式でも」
颯は、最後の可能性を探った。しかし、ハリントン卿の口元に、冷笑が浮かぶ。
「それも、できなくしてあげましょう」
男の目には、もはや隠そうともしない敵意が浮かんでいた。その瞳は、まるで蛇のように冷たく光っていた。
「私には、それだけの力がある」
その言葉には、揺るぎない自信があった。颯は、この男の持つ影響力を知っていた。ボクシング界の重鎮というだけでなく、上流社会にも強い発言力を持つ存在??。
ガス灯の明かりが揺れ、廊下の壁に二人の影を大きく映し出す。
「なぜ、ここまでするのです?」
颯の問いに、ハリントン卿は杖を軽く持ち上げた。
「秩序を守るためです。あなたの存在は、私たちの築き上げてきた世界を揺るがしている」
その言葉には、偏見以上のものが込められていた。それは、既得権益を持つ者たちの、変化への本能的な恐れだった。
翌日から、状況は驚くべき速さで変化していった。
新聞各紙は、一斉に颯への批判を展開し始めた。
「女性のボクシングは、道徳に反する」
「淑女の品位を損なう行為」
「社会の秩序を乱す危険な風潮」
「女性のボクシングは、社会の秩序を乱す」
「悪しき風潮を助長する」
かつての支持者たちも、次々と距離を置き始める。上流社会のサロンでは、颯の名前を口にすることすら、タブーとなっていった。
しかし、それは始まりに過ぎなかった。
ジムの経営者たちは、颯の使用を拒否するようになった。試合の主催者たちは、彼女の名前を聞いただけで首を横に振る。
まるで、目に見えない壁が、颯の周りに築かれていくかのようだった。
ガス灯の明かりの下、颯は自分の影を見つめていた。
(これが、この時代の現実なのね)
しかし、颯の目には、まだ諦めの色はなかった。むしろ、新たな決意が宿り始めていた。
権力に屈するのではなく、別の道を探す。
それこそが、自分に課せられた試練の意味なのかもしれない。
夜空には、か細い月が浮かんでいた。
◆
夕暮れ時の応接間。重厚な家具が並ぶ室内に、残照が斜めに差し込んでいた。颯は背筋を伸ばしたまま、絨毯の模様に目を落としている。正面のソファには父が、その横の椅子には母が座っていた。
「もう十分でしょう」
父の声は、普段の穏やかさを失っていた。むしろ、これまで聞いたことがないほどの厳しさを帯びている。
「あなたは、私たちの娘です。これ以上、家名に泥を塗るのは許されません」
颯は両手を膝の上で強く握りしめた。レースの手袋の下で、爪が掌を刺すほどに。
「でも、お父様。私は間違ったことをしているわけではありません」
颯の声は、かすかに震えていた。それは怒りなのか、それとも悲しみなのか。おそらく、その両方が混ざり合っていたのだろう。
「間違っていない?」
父は立ち上がり、窓際まで歩いた。背後から差し込む光に、その姿が影のように浮かび上がる。
「新聞を見たのですか?」
父は机の上の新聞を手に取り、声に怒りを滲ませながら読み上げた。
「『上流階級の令嬢、暴力的な見世物に加担』。これがグレイストン家の娘についての記事だというのに」
母が小さなため息をつく。「エレノア、私たちはあなたを誇りに思っていました。淑女としての教育も完璧でしたのに」
颯は顔を上げた。
「母様、教育は今でも活かしています。ボクシングは決して野蛮な暴力ではありません。それは技術であり、芸術なのです」
「芸術?」
父が振り返る。
「拳で人を殴り合うことが、どうして芸術になりますか」
「それは違います」
颯の声が強くなる。
「私が教えているのは自己を磨くための技術です。生徒たちは皆、心身共に成長しています」
「生徒?」
父が嘲るように言う。
「あなたが教えているのは、同じように道を踏み外そうとしている娘たちではありませんか」
その言葉に、颯の瞳に怒りの光が宿った。前世の記憶が、心の奥で疼く。
「道を踏み外す? 誰がそれを決めるのですか?」
「社会がです」
父は厳かに言った。
「私たちは、この社会で生きていかねばならない。そして、その社会には秩序があります」
「でも、その秩序は」
「もう十分です!」
父の声が、応接間に響き渡った。母が小さく身を縮める。
「明日からは、一切のボクシング活動を禁止します。サー・ジョージにもその旨を伝えておきましょう」
颯は立ち上がった。ドレスのスカートが、その動きに合わせて揺れる。
「お父様、そうはいきません」
「エレノア!」
母が制止するような声を上げる。
「私には、守らなければならない者たちがいます。生徒たち、そして」
颯は一瞬言葉を詰まらせた。そして、強い決意を込めて続けた。
「そして、私自身の信念があります」
父は長い間、黙って颯を見つめていた。窓から差し込む光が徐々に弱まり、部屋の中に影が濃くなっていく。
「あなたは」
父が静かに、しかし氷のような声で言った。
「本当に、グレイストン家の娘なのですか」
その言葉は、颯の心を深く突き刺した。
しかし、彼女は背筋を伸ばしたまま、まっすぐに父を見つめ返した。
「はい。だからこそ、自分の信じる道を歩みます」
颯はゆっくりと部屋を出た。重いドアが閉まる音が、静かに響く。
応接間に残された両親の姿を、颯は二度と忘れることはなかった。それは、時代との戦いを決意した瞬間の、永遠に心に刻まれる光景となった。
追い詰められた颯は、サー・ジョージに相談した。
「残念だが、今は時期尚早だったのかもしれん」
サー・ジョージも、肩を落として言った。
「しかし、諦める必要はない。今は一時的な後退を選んでも、必ず道は開ける」
その言葉に、颯は深く考え込んだ。
(確かに、この時代での限界は見えたかもしれない。でも……)
教室に通う女性たちの、生き生きとした表情が蘇る。
(彼女たちの希望を、簡単に諦めるわけにはいかない)
颯は、新たな決意を固めた。
「サー・ジョージ、私から提案があります」
「何かね?」
「公式の試合は諦めましょう。その代わり、教室は続けさせてください。形を変えて、より基礎的な運動を教える教室として」
サー・ジョージは、しばらく考え込んだ。
「なるほど。穏健な形で、種を蒔き続けるということか」
「はい。確かに今は時期尚早かもしれません。でも、雌伏していつか必ず」
その言葉に、サー・ジョージは静かに頷いた。
こうして、颯の活動は表面上は沈静化した。しかし、それは決して諦めを意味するものではなかった。
むしろ、新たな戦いの始まりだった。
しかし、颯の前に、さらなる試練が待ち受けていた。
それは、前世での罪が、最も残酷な形で彼女を襲う出来事だった。