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●第2章:リングへの帰還

 それから数日後、颯は決意を行動に移した。


 夜が更けるのを待って、颯は男装をして屋敷を抜け出した。メイドたちの目を盗み、路地裏のあの即席ボクシング会場へと向かう。


 石畳を走る足音が、夜の闇に吸い込まれていく。


「おい、そこの若造」


 会場に着くと、まず目についたのは、がっしりとした体格の男だった。


「見学かい? それとも、まさか試合でもしたいのかな」


 颯は深く被った帽子の下から、静かに答えた。


「試合がしたい」


 その言葉に、周囲から失笑が漏れる。確かに、颯の男装姿は華奢で、とても試合ができそうには見えなかっただろう。


「おい、危ないぜ。こんな小僧を」


 誰かが心配そうに声を上げる。しかし、颯は動じなかった。


「やらせてもらえませんか?」


 その声には、かつての世界チャンピオンとしての自信が滲んでいた。男は少し考え込むように颯を見つめ、それから肩をすくめた。


「まあ、自分から望むんならな。ただし怪我しても知らんぞ」


 そうして、颯は即席のリングに上がった。対戦相手は、体格の良い若い男だった。


(良い機会だ。この時代のボクシングがどの程度のものか、試してみよう)


 ゴングが鳴る。


 対戦相手は大振りのパンチを繰り出してきた。しかし颯の目には、その動きが手に取るように読めた。


(遅い!)


 颯は軽やかなステップで相手のパンチをかわし、カウンターのジャブを放つ。正確無比なその一撃は、相手の顔面を捉えた。


「なっ!?」


 観衆から驚きの声が上がる。颯の動きは、この時代のボクシングとは明らかに違っていた。洗練された防御、正確な攻撃、そして何より、完璧なフットワーク。


 相手は怒りの形相で突進してくる。しかし、その単純な攻撃は、颯にとって物足りないものでしかなかった。


(これなら……!)


 颯は相手の大振りのパンチをかわしながら、的確なカウンターを重ねていく。それは、まるでボクシングの教科書のような完璧な技の応酬だった。


 わずか2分。相手は崩れるように倒れ込んだ。


 場内は静まり返った。


「お前……一体何者だ?」


 主催者らしき男が、驚きの表情で尋ねる。


「私は……」


 颯は一瞬言葉を詰まらせた。そして、ゆっくりと帽子を脱ぐ。金色の巻き毛が、夜の闇の中でほのかに輝く。


「女だと!?」


 どよめきが起こる。しかし、颯は毅然として立っていた。


「私はエレノア。ただのボクサーよ」


 その言葉には、強い意志が込められていた。これは、新しい人生の始まりだと、颯は感じていた。


 その夜を境に、颯の日課は変わった。


 陽の光が降り注ぐ応接間で、颯は背筋を伸ばしていた。


「エレノアお嬢様、背筋をもう少し……そう、その位置でよろしい」


 礼儀作法の教師、ミセス・ハリソンの細い指が、颯の背中に触れる。


 完璧な姿勢で座り続けることは、かつてリングで何度もKO勝ちを重ねた颯にとっても、想像以上の苦行だった。


「では、お茶をお注ぎください」


 颯は意識して、手首の返しに優雅さを込める。陶器の触れ合う音が、静かに室内に響いた。


「もう少しゆっくりと……そう、その程度でちょうど良いですわ」


(この茶を注ぐ動作一つにも、こんなに細かい作法があるとは)


 内心で溜息をつきながらも、颯は淑女としての仕草を丁寧に反復する。


 午後になると、今度は刺繍のレッスン。


「この薔薇の花びらは、もう少し柔らかな曲線を描くように」


 刺繍教師のミス・ウィンターズが、颯の不器用な手つきを心配そうに見つめる。


 拳でパンチを繰り出すことには長けていても、この細かな針仕事は颯の手に余った。指先は糸に絡まり、布地は歪な刺し傷だらけになる。


「申し訳ありません」


 謝りながらも、颯は諦めずに針を進める。この忍耐も、また鍛錬の一つだと言い聞かせながら。


 夕食後、颯は自室に戻る。


「今夜も早めに休ませていただきます」


 メイドたちに言い残し、颯は扉に鍵をかけた。


 しかし、それは休息のためではなかった。


 颯は素早く男装に着替える。上流階級の令嬢の優雅な衣装を脱ぎ捨て、粗野な少年のような出で立ちに変貌する。髪は帽子の下に隠し、顔つきまでが一変した。


 二階の窓から、庭に面した樫の木に飛び移る。この動作も、ここ数週間で随分と上達した。


「行くぞ」


 自分に言い聞かせるように呟き、颯は夜の街へと消えていく。


 路地裏のボクシング会場は、昼間の世界とは別物だった。


 煙草の煙が漂い、汗の臭いが充満する。粗末な照明の下、男たちの怒号が飛び交う。


「おい、来たぞ! あの化け物が!」


 颯の姿を認めた男たちが、どよめく。


「今日は誰が挑戦するんだ?」

「まさか、またあのガキに負けるのか?」


 颯は黙って、即席のリングに上がる。


 かつて世界チャンピオンだった時の記憶が、体の奥底から湧き上がってくる。この高揚感。この緊張感。これこそが、自分の求めていたものだった。


 しかし同時に、疲労も蓄積されていく。


 昼間の礼儀作法で酷使した背筋が悲鳴を上げ、刺繍で痺れた指先が、グローブの中で震える。それでも、颯は戦い続けた。


 深夜、再び屋敷に忍び込む頃には、全身が鉛のように重かった。


 また明日とささやく声が、耳元で嘲るように響く。明日もまた、令嬢としての一日が始まる。礼儀作法に刺繍、フランス語にピアノ。そして夜には、また別の顔を持つ戦士として、リングに立つ。


 寝台に横たわりながら、颯は自問する。


(なぜ、ここまでして続けているのだろう)


 答えは、まだ見つからなかった。


 しかし、不思議と諦める気持ちは湧いてこなかった。


 ただ、この二重の人生の先に、きっと何かがある。


 そう信じて、颯は短い睡眠の中に身を委ねた。明日もまた、令嬢とボクサー、二つの顔を使い分ける一日が始まる。


 窓の外では、ロンドンの霧が静かに立ち込めていた。


 やがてエレノアの噂は徐々に広がっていった。


「化け物みてえな技を使う女ボクサーがいる」

「誰にも負けたことがないらしい」

「まるで、未来から来たかのような戦い方をしやがるらしい」


 そんな噂は、やがて思わぬ人物の耳に入ることになる。


「面白い。ぜひ会ってみたいものだ」


 その人物は、イギリスボクシング界の重鎮、サー・ジョージ・アシュワースだった。彼は、同時に女性の社会進出に理解を示す進歩的な考えの持ち主として知られていた。


 一方で、颯の心境も少しずつ変化していた。


 毎晩のようにリングに立ち、様々な相手と戦う中で、颯は気づき始めていた。この時代の男たちの多くは、ボクシングを単なる暴力の発露として捉えている。その姿は、かつての自分と重なって見えた。


(暴力は、技術によって昇華できる)


 そう考えた颯は、徐々に自分の戦い方を変えていった。相手を倒すことだけを目的とせず、技術の美しさを見せることに重点を置くようになる。それは、ある意味で自分の過去との決別でもあった。颯は、自分の戦い方を根本から見直すことにした。


 まず、基本に立ち返る。左ジャブから。


 これまでの颯のジャブは、相手を崩すための単なる手段でしかなかった。しかし今は違う。


「フリッカージャブを軸にして」


 颯は呟きながら、軽やかなステップで前に出る。左手を素早く繰り出すが、それは決して力任せではない。むしろしなやかで、まるで蝶が羽ばたくような優美さがあった。


 スパーリングの相手は、その変化に戸惑いを見せる。


 颯はさらに、フェイントを織り交ぜる。左ジャブを出すふりをして相手の反応を誘い、間合いを詰める。そこから繰り出されるのは、上体を小刻みに揺らしながら放つ連続フック、いわゆるデンプシーロール。


 しかし、それは往年の破壊的なデンプシーロールとは違った。


(リズムだ。ボクシングは、一つの舞踏なのだ)


 颯の動きには、明確な抑揚があった。弱い打撃と強い打撃を織り交ぜ、相手を翻弄しながらも、決して一方的な暴力には終わらせない。


 上段への攻撃を仕掛けたかと思えば、巧みなボディブローを織り交ぜる。それは「ドラゴンフィッシュブロー」と呼ばれる技の応用だ。下段から上段へと波のように打撃を繋いでいく。


 防御も、より洗練されたものとなっていた。


 ただ固く身を守るのではない。ダッキングやスウェーで相手の打撃をかわし、その動きの中に次の攻撃の芽を仕込んでいく。それはまるで、古武術の達人のような境地だった。


「なるほど……これが本当のボクシングなのかもしれない」


 サー・ジョージが、感嘆の声を漏らす。


 颯は、コークスクリューブローを繰り出す。体を捻りながら放つこの打撃は、相手にダメージを与えることは容易い。しかし颯は、あえてその力を抑える。


 代わりに、その技の持つ美しさを際立たせた。体の回転から生まれる遠心力。重心の移動による力の伝導。それらが織りなす、まさに芸術的な動き。


「お見事です」


 スパーリングの相手を務めた男性が、深く頭を下げる。


「これまで、ボクシングとはただ相手を倒す技術だと思っていました。しかし、違う。これは……拳を通した魂の対話なのですね」


 その言葉に、颯は静かに頷いた。


(そうだ。かつての私は、この素晴らしい技術を、ただの暴力の道具としてしか見ていなかった)


 ガゼルパンチ。跳躍しながら放つこの技も、颯の手にかかると芸術となる。単なる力業ではない、重力との対話とでも呼ぶべき動き。


 颯の新しいボクシングは、次第に評判となっていった。


「まるでバレエのようだ」

「これこそが、真のノーブル・アートではないか」


 観客たちからも、そんな声が聞かれるようになる。


 それは、ボクシングという競技の新しい可能性を示すものでもあった。そして何より、颯自身の魂の変容を表現するものでもあった。


 そんなある日、颯は思いがけない来訪者を迎えることになる。


「エレノア・グレイストン嬢にお会いできて光栄です」


 サー・ジョージ・アシュワースが、颯の屋敷を訪れたのだ。


 豪奢な応接間で、颯は困惑しながらも彼を迎えた。


「私の噂をお聞きになったのですね」


「ああ。素晴らしい才能の持ち主だと聞いている。是非とも、正式な試合で戦ってもらいたい」


 その言葉に、颯は目を見開いた。


「正式な……試合?」


「そう。私の経営するジムで、正式なルールの下での試合をしてほしい。もちろん、相手は男性になるが」


 颯は一瞬、躊躇した。路地裏の即席試合と、正式な試合では意味が違う。それは、表の世界に出ることを意味する。


「ご両親には、私から話をつけよう。君の才能は、路地裏で埋もれさせておくにはもったいない」


 サー・ジョージの目は真摯だった。颯は、深く考え込んだ。


(これは、チャンスなのかもしれない)


 前世では、ボクシングを利己的な目的のためだけに使ってきた。しかし今なら、それを違う形で活かせるかもしれない。


「承知いたしました」


 颯の返事に、サー・ジョージは満足げに頷いた。


 それから一週間後。颯は、サー・ジョージの経営するジムで初めての公式試合に臨むことになった。


 観客席には、物珍しさから集まった上流階級の人々が座っている。中には、女性参政権運動に関わる活動家の姿もあった。


 対戦相手は、新進気鋭の若手ボクサー、トム・ハリスン。彼は最初、女性との試合を嫌がったが、サー・ジョージの説得で承諾した。


「女だからって、容赦はしねえぜ」


 試合前、トムはそう宣言した。


「望むところです」


 颯も負けじと応じる。


 ゴングが鳴る。


 トムの動きは、路地裏で戦ってきた相手たちとは明らかに違った。基本に忠実で、無駄な動きが少ない。


(なるほど、この時代のプロの実力か)


 しかし、それでも颯の目には物足りなく映った。


 颯は、相手の動きを完全に読み切っていく。ジャブを交わしては的確なカウンターを入れ、ボディブローを狙われれば巧みにかわす。その動きは、まるでダンスのように美しかった。


 その後の試合は、まるで一幅の絵のように展開していった。


 相手のジャブが繰り出される。しかし颯は、その動きを予測していたかのように、わずかに首を左に傾けて回避。同時に、相手の腕が戻るタイミングを捉えて、鋭いクロスカウンターを放つ。


「な……」


 相手の動揺が見える。しかし颯は、そこで攻めを緩めない。


 相手が距離を詰めてフック狙いの体勢に入った瞬間、颯は絶妙のタイミングでスウェーイを使って上体を後ろに反らす。相手のフックが空を切る。その瞬間、颯の左ジャブが相手の顔面を捉えた。


 続いて相手が仕掛けてきたのは、左右のフリッカージャブからのボディブロー。

 オーソドックスな攻めだ。


 しかし颯は、軽やかなフットワークでハーフステップを踏み、相手の射程圏外に移動。ボディブローが空を切った瞬間、下から跳ね上がるように、相手の顎にアッパーカットを叩き込んだ。


「見事な防御から的確なカウンターパンチ!」


 実況が沸く。


 相手が仕掛けてくる一連の攻撃に対し、颯はまるで水が流れるように自然な動きで対応していく。プルカウンター、スリップ、ダッキング――。あらゆる防御技術を駆使しながら、隙を見つけては正確無比なパンチを返していく。


 コークスクリューブローを交わしながらのボディショット。

 相手のステップインを読んでのチョッピングライト。

 フェイントに騙されない冷静な防御から放つガゼルパンチ。


 その一つ一つの動きが、無駄がなく洗練されていた。


 まるで、相手の動きを完全に把握しているかのような試合運び。しかしそれは、単なる力の誇示ではない。


 颯の動きには、ある種の美しさがあった。


 無駄のない防御の中にも優雅さが漂い、的確なカウンターパンチには芸術的とも言える正確さがある。それは、暴力的な格闘技を昇華させ、一つの芸術へと高めたかのようだった。


「まるでボクシングのバレエだな」


 観客席から、誰かがそうつぶやくのが聞こえた。


 颯のデンプシーロールさえ、この時代の粗野な殴り合いとは一線を画していた。左右の重心移動が生み出す律動的なリズム。その中から繰り出される、正確な左右のフックの連打。


 それは確かに、一つのダンスのようでもあった。

 

 技術と美しさが融合した、究極の格闘技の姿。


 颯は、それを体現していた。


「これは……本当にボクシングなのか?」


 観客から驚きの声が漏れる。確かに、颯の戦い方は、この時代の常識を超えていた。


 3ラウンド目。颯は決定的な一撃を放った。


 トムの大振りのフックをかわし、クロスカウンターを決める。その瞬間、会場から大きな歓声が上がった。


 トムは、崩れるように倒れ込んだ。


「勝者、エレノア・グレイストン!」


 レフェリーが颯の手を上げる。会場は熱狂の渦に包まれた。


 特に、女性たちの反応は熱かった。


「素晴らしい!」

「女性にもできるのよ!」

「私たちにも力があることを、証明してくれた!」


 勝利の余韻の中、颯は気づいた。


(これは……単なるボクシングの試合じゃない)


 それは、この時代の女性たちの希望を象徴する出来事になっていた。


 試合後、サー・ジョージが颯に近づいてきた。


「素晴らしい試合だった。これからも、私のジムで試合を続けないか?」


 その申し出に、颯は迷わず頷いた。


「はい。でも、一つ条件があります」


「何かな?」


「女性のための、ボクシング教室も開きたいのです」


 その言葉に、サー・ジョージは少し考え込んだ。しかし、すぐに快諾の笑みを浮かべた。


「面白い。やってみよう」


 こうして、颯の新しい挑戦が始まった。


 それは、前世での罪を贖うための、一つの道筋でもあった。


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