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●第1章:転生と混乱

 浅葱颯の最期は、まさに自分が蒔いた種を刈り取るものだった。


 闇金からの取り立てを、また一人の愛人に肩代わりさせたその日。彼は路地裏で複数の女性たちに取り囲まれた。それぞれの顔が、かつて自分が遊び、捨て去った女性たちだと気づいたときには、もう遅すぎた。


「お前のような男に、この世を生きる価値はない」


 一人の女性がそう言い放った瞬間、複数のナイフの切っ先が颯の体を何度も貫いた。


 死の淵で、颯は思った。


(くそう……なんで、俺が……こんな……)


 やがて意識は闇の中へと沈んでいった。



 目が覚めたとき、颯の意識は混乱に支配されていた。


 見知らぬ天井。古めかしい模様の壁紙。窓から差し込む薄暗い光。そして、自分の体の違和感。


「エレノア! 朝ですよ」


 聞き慣れない言葉で呼びかける声に、颯は慌てて起き上がった。全身の筋肉の感覚が、これまでと全く違う。そして何より――。


 颯は自分の胸元を見下ろし、愕然とした。そこにあるのは、紛れもなく少女の体つきだった。


「まさか……」


 颯は呟いた。声も、か細い少女のものだ。近くの姿見に映る自分の姿は、金髪の巻き毛を持つ16歳ほどの少女。そこには、かつての世界バンタム級王者の面影など微塵もなかった。


「エレノア! いい加減起きなさい!」


 声の主は中年の女性で、どうやらメイドのような立場の人物のようだった。


「は、はい……」


 颯は困惑しながらも返事をした。どうやら自分はエレノアという名前の少女として転生したらしい。エレノアとしての記憶を手繰ると、ここは1910年のロンドン。裕福な家庭に育った令嬢としての記憶が、前世の記憶と並行して存在していた。


「お嬢様、今日は刺繍のレッスンがございます。早めに支度を済ませてくださいませ」


 メイドの言葉に、颯は現実感のない状況に戸惑いを覚えた。刺繍? レッスン? これまでリングの上でしか生きてこなかった颯にとって、それは異世界のような響きだった。


 支度を済ませ、朝食のために階下に降りていく颯。豪奢な調度品が並ぶ邸宅の中を歩きながら、彼女は考えを巡らせた。


(なぜ俺は……いや、私は、この時代に?)


 そこで颯は、自分が改めて「彼女」になったことを噛みしめた。そして性別が変わったことへの戸惑いは、想像以上に大きかった。


「お嬢様、今日はいつもと様子が違いますが、お具合でも悪いのですか?」


 食堂で給仕をしながら、メイドが心配そうに尋ねる。


「いや別に俺は……いえ、大丈夫です」


 颯はなんとか取り繕いながら返事をした。窓の外には、ロンドンの曇り空が広がっていた。灰色の雲の下、馬車が石畳を行き交い、燕尾服の紳士たちが闊歩している。まるで古い映画のようなその光景に、颯は現実感を見出せないでいた。


 執事のジェームズは、銀のポケットウォッチを取り出しながら、淡々と一日の予定を告げ始めた。


「午前十時より、ミセス・ウィンターボトムによるピアノのレッスンでございます。本日は、ショパンのノクターンを」


 颯は密かに目を細める。前世では拳で紡いできた指が、今は繊細な鍵盤を奏でなければならない。


「続いて十一時半より、フランス語会話。ド・ラ・クロワ夫人がお見えになります」


(ボクシングなら世界一だったのに……)


 颯は内心で嘆息した。


「午後からは、まずレディ・アシュトンを交えての茶会。その後、刺繍のレッスン。本日は薔薇の模様を完成させていただきます」


 ジェームズの言葉は、まるで拳銃の弾丸のように颯の心を貫いていく。茶会では、背筋を伸ばしたまま小指を優雅に立て、紅茶を啜らなければならない。しかも、他愛もない社交辞令を延々と交わし続けることを要求される。


「夕方には、ウォーキングのレッスン。ミス・ハリエットが、より優雅な歩き方をご指導くださいます」


(リングでのフットワークなら誰にも負けなかったのに)


 颯の脳裏に、かつてのシャッフルステップが蘇る。しかし今は、膝を曲げすぎず、かかとから着地し、すり足にならないよう、まるで床に卵を置いて歩くかのような繊細さが求められる。


「夜のディナーでは、フォークとナイフの使い分けにご注意を。先日、スープスプーンとデザートスプーンを間違えられました」


 前世なら、素手で相手の顎を砕いていた指先が、今は銀食器を優雅に操ることを強いられる。


「そして就寝前には、明日の音楽会に向けてのハープの練習を。楽譜はお部屋に置いてございます」


 颯は、己の拳で世界を制覇したという誇りと、今の無力さのギャップに、深い溜息を漏らした。


「……承知いたしました」


 形だけの返事を告げながら、颯は窓の外に目をやる。春の柔らかな日差しが、庭園のバラに降り注いでいた。その光景は美しく優雅だったが、颯の心は依然として、リングの上の輝きを求めていた。


「では、朝食の支度が整っております。ダイニングルームへ」


 颯は立ち上がる。ドレスの裾を優雅に持ち上げ、背筋を伸ばし、顎を引く。それは、まるでボクシングのファイティングポーズの逆を行くような所作だった。


(ガードを上げて構えていた方が、よっぽど楽だったな……)


 そして、ここで気づいた。


(もしかして……これは俺への罰なのか……?)


 女性を軽んじて扱ってきた男が、上流階級の箱入り娘として生まれ変わる。それは何か意味があるに違いない。そう考えた瞬間、颯の心に奇妙な感覚が走った。


 それは、贖罪の始まりを告げる鐘の音のようだった。



 その日の午後、颯は衝撃的な光景を目にすることになる。


 刺繍のレッスンを終え、馬車で帰宅する途中。路地裏から聞こえる歓声に、颯は思わず足を止めた。


「お嬢様、そちらに行ってはなりませぬ!」


 付き添いのメイドが制止しようとしたが、颯は既に路地に足を踏み入れていた。そこで目にしたのは、即席のリングで行われるボクシングの試合だった。


 しかし、それはあまりにも粗野なものだった。


 選手たちの動きは野蛮で、技術的な洗練さを全く感じさせない。ガードの形は崩れ、パンチは大振りで、フットワークは不安定。まるで酔っ払いの喧嘩のようなその光景に、颯は思わず眉をしかめた。


「なんだ、あのぶさいくな試合は」


 思わず呟いた言葉に、周囲の男たちが不快そうな視線を向ける。しかし、颯の心の中では、かつての記憶が疼きはじめていた。あの頃の興奮、緊張、そして歓喜。リングの上で、相手と向き合う瞬間の高揚感。


(これが……この時代のボクシングなのか)


 クインズベリー・ルールが制定されて間もないこの時代。ボクシングは、まだ洗練された競技としての形を整えていなかった。それは颯にとって、ある意味で驚きであり、また可能性でもあった。


「お嬢様、こんなところで」


 メイドが必死に制止するが、颯の心は既に決まっていた。


(俺は……私は、この時代で、もう一度リングに立ってみたい)


 その思いは、前世の記憶と現在の立場の間で揺れ動く複雑なものだった。しかし、それは確かな衝動として颯の心に芽生えていた。


「帰りましょう」


 颯はメイドの促しに従いながら、しかし心の中では既に決意を固めていた。この時代に生まれ変わった意味。それを探るために、自分にできることは何か。


 その答えは、リングの上にあるはずだった。


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