●プロローグ:栄光と堕落
浅葱颯の右ストレートは、世界バンタム級王座統一戦の相手の顎を的確に捉えた。
「ダウン!」
レフェリーのコールが響く中、観客席からは割れんばかりの歓声が上がった。
挑戦者のトニー・マッケンジーは、よろめきながらも8カウントで立ち上がる。しかし、その目は既に焦点が合っていなかった。
颯は冷徹な目で相手を見据えた。
(終わりだな)
間合いを詰め、左ジャブで相手の視界を奪う。そして、得意の右アッパーを顎に叩き込んだ。
マッケンジーの体が、まるでスローモーションのように宙を舞う。
「KO!」
歴代最速での防衛戦勝利。それも完璧なKOで。
颯の戦績は、ここで23戦23勝(23KO)となった。
「化け物か!」
「こんな強いバンタム級のチャンピオン、見たことない!」
「まさに、神の右手を持つ男だ!」
沸き上がる観衆。メディアは、颯を「バンタム級の魔王」と呼んだ。その強さは、まさに伝説的だった。
しかし。
「よお、チャンプ。今夜も付き合ってくれるよな?」
試合後、颯の元にギャンブラーたちが群がってくる。
「ああ、今夜は勝った勢いで一発当てようぜ」
颯の口元に、薄笑いが浮かぶ。
カジノに繰り出した颯は、まるで試合の興奮を引きずるかのように、次々と大金を賭けていった。
「こんなに賭けて大丈夫か?」
「まあ、見てろよ」
しかし、ギャンブルに勝負の神はいない。
たった一晩で、試合のファイトマネーの大半が消えていった。
「くそっ!」
颯は悪態をつきながら、携帯を取り出した。
「もしもし、愛子か? ああ、俺だ。悪いんだけど、また金を工面してくれないか?」
電話の向こうで、女性が泣きそうな声を漏らす。
「でも、先月貸した分もまだ……」
「うるせえ! お前が俺に尽くすのは当然だろうが!」
颯は怒鳴りつけた。愛子は、颯の愛人の一人だ。というより、金づるの一人と言った方が正確かもしれない。
「わ、分かったわ……」
電話を切った颯は、ラウンジで新しい女性に声をかけていた。
「よお、一緒に飲まない?」
声をかけられた女性は、初めは警戒した様子を見せる。しかし、颯が世界チャンピオンだと知ると、すぐに態度を変えた。
「まあ、本当に颯さんなの!? よろしければ是非ご一緒させていただきます」
(チッ、こいつもおれの表面鹿見ない打算的な女か)
颯は内心で舌打ちしながらも、愛想よく振る舞う。
数時間後、ホテルのスイートルーム。
「颯さん、素敵……」
女性の甘い声が響く。しかし、颯の目は既に冷めていた。
(また一人、カモが増えたな)
颯にとって女性は、ただの玩具であり、金づるでしかなかった。
翌朝。
「颯さん、また会えますよね?」
女性が期待を込めた目で見つめる。
「ああ、もちろんさ」
颯は軽く答えたが、既に目の前の女性の名前も忘れていた。こんなやり取りは、もう何度繰り返したか分からない。
一週間後。
「あの、颯さん……あたし、また妊娠したみたいなんです……」
愛人の一人、美咲が泣きながら告げる。
「は? また、か」
颯は冷たく言い放った。
「ほら、いつもの病院に行けよ。金ならやるから」
「でも、もう三回目です。私、この子を……」
「うるせえ!」
颯は机を叩きつけた。
「お前が勝手に産むなんて言い出したら、ただじゃ済まさねえぞ」
颯の脅しに、美咲は震えながら頷くしかなかった。
(まったく、面倒な女だ)
颯は、また新しい愛人を探すことを考えていた。
そんな颯を、世間は英雄として崇拝していた。
「あの浅葱颯が、ボクシングしか知らない単なるグレートチャンピオンだと思ったら大間違いだ」
あるスポーツライターは、そう評していた。
「彼は知的で紳士的。リング外では別人のように穏やかで優しい。まさに、現代の侍と言っていい」
しかし、それは表の顔でしかなかった。
内実は――。
「この女、もう使えねえな」
颯は一人の女性の番号を携帯から消去する。
「次は、もっと金持ちの女を探すか」
それが、浅葱颯の日常だった。
強さと堕落。
栄光と暗部。
その極端な二面性は、やがて彼自身を破滅へと導いていく。
そして、その報いの時は着実に近づいていた。
しかし、その時の颯は、まったく気づいていなかった。
自分の蒔いた種が、これほどの苦悩となって返ってくるとは。