◯出席番号3番
『普通の女の子』
彼女は普通の女の子だ。
自宅でピアノの講師をしている母親のレッスンはとても厳しかった。
習いに来る生徒のほとんどが長続きしない。
息子の俺は音楽の才能が全くなく、弾くことに興味もなかったため早めに英才教育から逃げることに成功した。だから全くピアノを弾くことができない。
初めは俺のような子供も含めて多くの生徒を迎え入れたが、あまりの鬼レッスンに残ったのは音大を目指す年上ばかり。その中で唯一俺と同じ五歳だった女の子がいた。それが彼女だ。
レッスンの始まる十分前には必ず来る彼女。
家はそんなに遠くはないらしく、小学校の学区は別だが中学は同じになるとわかった。
いつも母のレッスンは長引くため、彼女はリビングで譜面を眺めながら待っていた。
同い年の女の子が家にいるのになんだかソワソワして、俺はその様子を廊下からこっそり覗き込む。それを見ていた祖母が俺と彼女に声をかけて、自分の部屋に招き入れた。
六歳のことだった。
「そんなに気になるなら一緒に遊べばいいのに」
「なっ……きになってなんか……」
「ふふふ」
祖母の部屋は和室で、たまにここで琴の教室を開いている。
そもそも彼女がここに来るようになったのは、彼女の母親が祖母の琴の体験教室に来たことがきっかけだ。
ピアノ教室を丁度探していたらしく、その数日後娘を連れて来た。
祖母は普段は触らせないのに、何故かこの日は俺達に琴を教えてくれた。
顔を合わせたことはあるけれど話したことはなかったから、ふたりで並んで正座させられた時はちょっとモジモジしてしまった。だが彼女は琴に興味津々で、目を輝かせていた。
「うーんと……こんなかんじですか?」
「ええ、上手よ」
「けっこう、ちからいるんですね」
「そうね。あなた達の可愛くて小さい指じゃ、ちょっと大変だったかしら」
「でも、たのしいです。おばあさん、さわらせてくれてありがとうございます」
「いいのよ。あの子まだ時間かかるだろうし、いつも待たせちゃってごめんなさいね。カズとも仲良くしてあげてね」
そう言われて、ふたり目が合う。
ニコっと微笑んで俺を見る彼女。
とても可愛いと思った。不思議と花畑も一緒に見えたような気がする。
いつの間にか祖母は部屋を出ており、ふたりっきり。
緊張をほぐすように琴に向き直り、俺は指を弾く。
「あれ、ここじゃなかったっけ。ばあちゃんのいってたおとじゃない」
「しちはここだよ、ここ。それでうえがはちで……」
俺の手を取って、一緒にさっき習ったことを復習する彼女。
「ね、できた!」
「うん……もういっかいやろ?」
「いいよ」
触れた手を離したくなくて、俺はそう言う。
結局、本来のレッスン開始時間を三十分もオーバーして始まるまで、俺達はふたりで琴を楽しんだ。
それからというもの、彼女のレッスンの日は、始まるまでの間一緒に遊ぶ時間になった。
トランプをしたり、ただただおしゃべりしたり。この週一回の時間がとても楽しかった。
一度彼女に、何であんなに厳しいレッスンを受けているのかと訊いたことがある。
そうしたら、彼女は「何を言っているのだろう」という不思議そうな顔をして答えた。
「せんせい、やさしいよ? ほかのひとにならったことないから、くらべられないけど。ちゃんとみてくれてるって、わたしわかるもん」
「そう? でもみんなやめちゃうよ?」
「うーん……なんでだろうね。わたしはせんせい、すき!」
「っ!!」
彼女の「すき」という言葉の衝撃は、この先ずっと忘れることはないだろう。
たとえそれが俺自身に向けられたものじゃないとわかっていても。
小学生になってからも、俺達の関係は変わらなかった。
「見てここ。今日の体育で足擦りむいた」
「もー、何やってんの」
「バスケやってたんだけどさ、モリオが……あ、同じクラスの男子なんだけど、そいつがボールを奪おうと相手のチームに突進して。でも避けられて危うく他の女子にぶつかりそうになったのを咄嗟に庇ったんだよ。そしたら思いっきり弾き飛ばされた。モリオの奴、バカみたいに力強いからな」
そう言いながら赤くなった場所をさする。
血はそんなに出なかったし既にかさぶたができているが、大袈裟に彼女に痛さをアピールする。クラスのみんなの前では擦りむいたことさえ言わなかったのに。
すると彼女は自分の鞄を探り何かを取り出した。
「はい、これ使って」
「……サンキュ」
それは可愛らしい柄の入った絆創膏だった。
正直必要ないと思ったしこんなの貼っているのを誰かに見られるのも恥ずかしかったが、ズボンで隠せそうな場所だったからいいかなと、それを受け取った。
貼り終わったのを見て彼女は、絆創膏の上から手をかざして撫でてくれた。
「カズ、もうこれで痛くないよ」
「……うん」
何だか心があったかいようなむしろ熱いような気持ちがして、恥ずかしいけど彼女から目が離せなかった。
ある時二階の自分の部屋で音楽を聴いていると、ノックが聞こえ彼女が入ってきた。
俺の部屋は防音じゃないから、一階にも漏れ聴こえてしまったようだ。
部屋には何度か入れたことがあるから、俺はその日も彼女を招き入れた。
考えてみれば、実家がピアノ教室だと知られると弾けもしないのに何か弾いてと言われそうで、友達を家に連れてきたことがなかった。部屋に入れた友達は、彼女ひとりだけだった。
「もう、そんな時間だったんだ。これ聴いてたから来てたの気づかなかった。ごめん、うるさかった?」
「うるさいとかじゃなくて、リストが聴こえたから。でも、全然違うの。知ってるメロディーなのに別物で気になって」
「あぁ。これさ、父さんからもらったCDなんだけど、海外の歌手らしくて。クラシックをアレンジした曲を出してる人なんだって。興味ある?」
「あるある!」
「そう言うと思った! 貸すからちょっと待ってて」
プレイヤーからCDを取り出し、棚からそのアーティストの他のものも集めていく。こういう曲は母親の好みではないから、レッスン中で防音室の中にいる時だけこうして俺も大音量で聴くことができる。ちょっと前から好きだったお気に入りの歌手を好きな子にも共有できるのが、堪らなく嬉しかった。
「え、こんなにいいの?」
「もちろん! あ、でも母さんに見つかるといい顔しないだろうから、帰り際にこっそり渡すよ」
「ありがと、カズ!」
「おう!」
こんな風に趣味を分かち合える彼女は、一緒にいて心地がよかった。
またある時は、正月の書き初めの宿題にアドバイスをくれたことがあった。
ここ以外にも習い事をしているのは知っていたが、こんなに上手いとは思わなかった。
「ここのハネはもっと丁寧にしないと」
「え、こう?」
「そうじゃなくて。ほら、こうやって……」
「っ!?」
「ねぇ、聞いてる?」
「聞いてる、聞いてる!」
筆を一緒に持ち体を寄せ合って紙に向き合っていると、初めて琴を一緒に演奏した時のことが思い出される。
あの時よりだいぶ成長した彼女はどこか品があって、同い年だということを忘れそうになる。
そんな俺のドキドキした心臓のことなど気にもせず、相変わらず彼女は目の前のことに真剣に向き合っている。それがまた、彼女の魅力のひとつでもあった。
近過ぎる距離に自分の感情を抑えることに必死で、彼女のアドバイスが耳に入らなくなる程だった。
それでも、少しでも同じ空間にいる時間を忘れないように、しっかり彼女の横顔は目に焼きつけた。
いつの間にか彼女は自分にとって特別な存在になった。
学校は違うし、週一しか会えないけど、とにかく守りたいと思った。
だが、五年生の頃から様子が変わってしまった。
顔を合わせても、どこか素っ気ない態度をされるようになった。
気のせいだと信じたかったが、中学生になった時、それは間違いじゃなかったと気づいた。
同じ中学に上がり、俺は入学式のその日に彼女を探した。
同じクラスにはなれなかったけど、これから家以外でもたくさん会えると思うだけで嬉しかった。
でも見つけ出した彼女は、俺の顔を見ると冷たく言葉を発した。
「もう、話しかけてこないで」
「え?」
「……お願い」
「え、何で?」
「……私みたいな子と仲良くしない方がいいから」
「は?」
「カズのこと、好きな子がいっぱいいるでしょ。私が近くにいちゃダメだよ。お互いの為にも距離を置いた方がいい」
「他の奴、関係ないじゃん。俺はーー」
「……それじゃ」
手を掴もうとしたが、それよりも早く彼女は逃げるように去ってしまった。
意味がわからない。
それから気がつくと、俺は彼女を目で追ってばかりの日々だった。
彼女はクラスに溶け込んでおらず、孤立していた。
中には根も葉もないことを言う者がいて、そんな奴らが許せなかったし近くにいることを拒否られた自分自身に腹が立った。
他の女子のことなんか見られるわけがない。俺の守りたいのはひとりだけなんだ。
家でも避けられるし、学校でも逃げられる。俺にはどうすることもできなかった。
せめて、彼女の味方が他にも現れてくれたらと思うだけだ。
彼女は気が利くし優しい。笑うと凄く可愛いし、ピアノも頑張ってて偉いと思う。字も上手で勉強もできて、そして普通の女の子だ。
俺にとって、たったひとりの特別な子なんだ。




