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君に話したいこと

作者: 腹黒兎

短編「貴方に伝えたいこと 」の夫編です。

これだけでも読めますが、先に妻編を読んで頂けると良いかと思います。


三年の交際を経て結婚した彼女との生活は新婚らしくつまづきながらも順調だった。

のんびりと話す声や、穏やかな気質と、柔らかな丸みのある体が好みだった。

何より口を開けて楽しそうに笑う笑顔が可愛かった。


なんの気無しに言った一言でビーフシチューを作ってくれたのは嬉しかった。

味はまぁまぁ。出張で行った時に食べさせてもらったビーフシチューの方が美味かった。

そんな感想を言えるわけもないから大人しく黙って食べた。

それからしばらくの間食卓に並ばなかったから、作るのは大変だったんだろう。


結婚してもうすぐ一年になろうとしたある日。

帰ると彼女はずっとそわそわしていた。言いたいこたがあるなら言えばいいのに。

ちょっとだけイラついたら、「あのね…」と上目遣いでようやく口を開いた。

「赤ちゃん、出来たみたいなの」

咄嗟に子どもの将来までいくらかかるのか計算して黙り込んでしまった。不安そうな彼女に「そうか」と声をかけ、予定日やこれから病院の話をした。

父親になるのか。仕事頑張らないとな。


調子のいい上司と文句の多い顧客にイライラしながら仕事を終えて帰る。

明かりのついていない部屋で妻がぐーぐーとソファで寝ていた。

いつから寝ているのか、洗濯物はカゴに入ったままで、台所には朝の食器がそのまま残っている。

こっちは朝から晩まで仕事してるっていうのに、いいご身分だよ、まったく。

明かりで目が覚めたのか、のそのそと起き上がった妻が俺に気がついて謝ってくる。

謝るぐらいならちゃんとしろよ。

「妊婦ってだけで病気じゃないんだから、しっかりしろよ」

臨月まで働いてる人もいるんだから、まだ五ヶ月程度でこんなぐうたらするなんてちょっとだらしないんじゃないだろうか。


妊婦は労われと母に言われ、同僚から言われ、看護士に言われる。何度も言わなくても分かっているし、ちゃんとやっている。

悪阻が落ち着いたのか、妻はよく動く。大きなお腹を抱えてよく動く。俺が手伝う必要がないぐらいよく動く。

見ているこっちがハラハラするから、少し休んでくれ。

妻の代わりにゴミ出しもするし、買い物もして帰るし、休日には食器まで洗った。

「俺、けっこうイクメンだよな」

そう言うと妻は微妙な顔で「そうね」と返事をした。


息子が生まれ、娘が生まれ、家の中は大騒ぎだ。

家に帰ると、妻と子ども達が一緒になってぐーぐー寝ていた。

前にもこんなことがあったな。

リビングに散らかったおもちゃを踏み掛け、ため息をついておもちゃ箱に入れる。

また晩ご飯ができていない。

一日中家にいるのに、本当に何をしているんだらう。なんで要領よく家事ができないんだ。

不思議で仕方ない。

忙しいって俺よりも楽だろ。主婦なんだから、ちゃんと家のことをやってくれよ。


子どもを生んで彼女は母になった。

だが、俺の奥さんだって忘れてないか?

少しは二人で話したりしようよ。

彼女の頭の中は子供のことでいっぱいみたいだ。

会話も子供のことばかり。子どもたちが寝たら大人の時間だろ。

なんで一緒に寝てるんだよ。

浮気してやろうか。

疲れてイビキをかいて寝ている妻に布団を掛け直してやる。

嘘だよ。嘘。そんなモテねーよ。


「お父さんたちの結婚記念日っていつ?」

娘に聞かれて、結婚記念日が一週間前だったのを思い出した。

しまった。忘れていた。

でも妻も何も言わなかったから、アイツも忘れてるんだろう。相変わらず、ずぼらだな。俺が言えた立場じゃないが。

今更お祝いでもないし、プレゼントっていうのも日にちが経ち過ぎている。

「花でも贈ってあげなよ」

最近こましゃくれてきた娘がわけ知り顔で助言をする。

どんな顔して渡せというのか。

いいんだよ。十五年なんて中途半端じゃなくてもっとデカい記念日にまとめてするから。



二十年目で磁器婚式。

二十五年で銀婚式。

三十年で真珠婚式。

三十五年で珊瑚婚式。

四十年でルビー婚式。

四十五年でサファイア婚式。

五十年で金婚式。


五十年目に何かしてやろう。その時はお互いに八十前か。

その前にどこか連れて行ってやりたい。そういや、昔、温泉旅行とか言っていたな。



胃に大きなポリープができた。

会社の健康診断で判明した。病院に行けば良性ですが大きいから取りましょうと言われ、仕事の調整をしてとっとっと取ることにした。

妻の過剰な心配を笑うかのように手術はあっさりと終わった。

病院の消灯は早い。

なかなか寝付けずに寝返りを打つ。この時間はよく妻と珈琲を飲んでいたな。

思い出すと、無性に妻と話がしたくなった。

スマホを取り出せば、待ち受け画面にした家族写真が表示された。

もう五年も前の写真だ。子ども達は幼く、妻は相変わらず呑気そうに笑っている。

ああ、会いたいな。

会って君と話がしたい。

子供の話でも、ドラマの話でもいい。

笑う君の顔が見ながら、君の話を聞きたい。


娘が結婚した。

なぜだろう。息子が結婚した時とは違う寂しさを感じる。

息子が家を出ても感じなかった寂しさだ。

相手の男は気に入らないが、娘が選んだのだから仕方ない。離婚歴も犯罪歴もないし、仕事も安定しているし、人柄も悪くない。

「貴方みたいに頼りがいのありそうな人でしたわね」

妻がおっとりと笑うから、仕方ないと許してやった。

だが、やはり寂しいものは寂しい。

一人残ったリビングでゆっくりと酒を飲んだ。

幸せになれ。


近所に住む息子が嫁と子どもと遊びに来た。

妻と嫁、俺と息子がそれぞれ話していると赤ん坊が目を覚ましてぐずり出す。

息子がすぐ立ち上がり赤ん坊を抱き上げる。その上、手際よくオムツを換え出した。

なんだお前がやるのか。嫁は何をやってるんだ。

呆れる俺に息子は「父さん古いなぁ」と笑った。

「うちは共働きだからね。一緒に子育てしないと。奥さんばかりに負担はかけられないだろ」

そう言うが、男と女じゃ働く量も質も違うだろ。俺が若い時は男が育児をするなんて考えられない時代だぞ。

なぜか言い訳じみている気がした。

家族を養う為に働いてきたんだ。後ろめたく思う必要ないて、ない。

「父さん、よく離婚されなかったよね」

呆れる息子の言葉にカチンときて「うるさいっ」と怒鳴れば、驚いた赤ん坊が泣いてしまい大いに慌てた。

すまん。じいちゃんが悪かった。


子どもたちが幼稚園か小学生ぐらいの頃に、妻のカバンからはみ出したていた紙があった。

なんの気無しに手に取ったそれは緑色の届出。まだ未記入だったが衝撃的で、ちゃんと元に戻したかも覚えていない。

どんな意図でもらってきた物か分からないが、渡されたことも話を切り出されたこともないので、知らないふりを続けている。

………苦労を、かけたんだろうな。

妻の実家は遠く、年に一回帰るかどうかだった。子どもが生まれてもそれは変わらず、よく義母と電話をしていた。

そんな妻に「よくそんなに話すことがあるな」と揶揄ったことがあった。

妻は笑っていた。と、思う。

いつも控えめに笑っていた。

いつからだろう、楽しそうに全力で笑う顔を見ていないのは。


旅行に行こうと誘ったら、妻は目を見開いた。

露天風呂や砂風呂もある温泉宿で、離れの一棟を予約したと言えば、驚きすぎて口が開いたままだった。

そんなに驚くことか。

「昔は温泉に入るだけなんて退屈だっておっしゃったのに」

「なんだ。嫌なら行かなくていいんだぞ」

「あらやだ。拗ねないでくださいな」

妻は朗らかに笑う。

「ありがとう、あなた。とても楽しみだわ」

国内の温泉で喜ぶなんて、安上がりな妻だ。

金婚式は海外に行こうと目論んでいる。もちろん、妻には秘密だ。サプライズってやつだ。

アメリカ、ハワイ、オーストラリア、ドイツ、フランス、イギリス。

どこがいいだろうか。

書店の旅行雑誌を見ていると、イタリアの街並みが目に飛び込んできた。

そういや、妻に誘われて観に行った映画の舞台がイタリアだったな。

イタリアか。悪くないな。


金婚式を来年に控えたある日、医者に妻の余命を告げられた。

発見した時にはもう末期近かったのだと。

「奥さん我慢強い方なんでしょうね。痛みは随分前からあったはずですよ」

淡々と話す医者になんと返しただろう。

痛み?そんな素振りはなかった。

いつも通り、肩こりだ、腰が痛いとは言っていた。

いつからだ。いつから、妻の体調が悪くなったのか。

余命宣告をするべきか、しないべきか。

ああ、その前に子供たちへも伝えないといけないのか。

何を、どうすれば。

妻のいない家で、ひとり途方に暮れた。


病室の妻は日に日に痩せ細っていく。

ちゃんと食べてるのかと聞けば、食欲がわかなくてと困ったように笑う。

逆に「あなたはちゃんと食べてますか?」と心配された。

大丈夫。息子の嫁が時折お裾分けを持ってきてくれる。

来週は娘も孫を連れて遊びに来るそうだ。

「あの子に、お母さんダイエット成功しそうよと伝えておいてくださいな」

そう言って笑う妻に返す言葉が見つからなかった。


大晦日の面会は夜の八時まで。

賑わうテレビをふたりでイヤホンを分け合って見ていた。

紅白も若い人だらけだ。と言えば、私は半分以上も知ってますよと妻が笑う。

面会終了の時間が近づくと妻は「残念だわ」と呟いた。

金婚式にイタリアに行きたいと思っていたのだと、温泉旅行のお返しに内緒で計画しようとしていたという。

「美術館に行ったり、広場を歩いたらして、有名なドゥオーモから街を見るのよ。あなたとふたりで行ってみたかったわ」

チューブに繋がれた妻は「残念だわ」と寂しげに笑った。

「治ったら行けばいいさ。どこでも連れて行ってやる」としか言えなかった。

「そうね」と何もかも分かっている妻が嬉しそうに笑った。



綺麗なところだな、イタリアは。

ドゥオーモから見る眺めは最高だが、年寄りに階段はキツイな。君も息を切らすはずだ。

少し痩せたらどうだ。と言えば、あんまり痩せすぎると貧相に見えるからこのくらいでいいんです。と応えたな。

なぁ、見えるか。見えているか。

初めての海外旅行だ。

こんな年になって初めてというのも笑えるな。

もっと早く連れて来ればよかった。金婚式になんて決めつけないで、いつでも良かったんだ。


ああ、会いたいな。

君のおしゃべりが聞きたい。

今、この時、景色を眺めながら「綺麗ですね」と笑う顔が見たい。

夢でもいい。

会いたいな。

会いたいんだ。


「私ばかり話したんじゃ不公平じゃありませんか。お話をいっぱい携えて、私に話してくださいな」


輝くように君が笑うから、俺はもう少し頑張って土産話を集めていくよ。

もう少しだけ待っていてくれ。



*おわり*

お読みくださりありがとうございました。


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[良い点] 緩やかに移ろってゆく世情の変化に戸惑いつつも確かにそこにあった幸せが寂しくもあるけれど暖かくて愛おしい、そんな作品でした。 [気になる点] 作中での50年以上にも及ぶ時の流れがとてもリアル…
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