Case25.誰かを忘れていませんか?
その顔の青白さは、どこか機械の妖精に似ていた気がした。
自分の首から上が、かっと高温になるのを感じた。理解、ではないと思う。
呼吸と心音はナシ。まだ温かい。吐いた跡。ぼくが支度しておいたビーフシチュー。テーブルで倒れたコップは、雫を床へ供給し続けている。
まだ間に合うと思ったときには、詰まっていたビーフのかたまりの除去を終えており、筋肉に向かって「へし折ってくれるなよ」と命じていた。
そこから何秒、何分経ったか分からない。あるいは何時間か。
力加減はどうだったろうか。酸素はちゃんと届いたのか。何よりも通報が先だったんじゃないか。AEDと呼吸器はマンションの共同廊下に一台づつあったはずなのに。
ルネが激しく咳きこんだ。
「あなたに助けてもらったのは三度目……」
二度目だよ。ぼくは泣いていた。
すぐに病院へ連れて行ったが、ルネに大きな異常は見られなかった。意識ははっきりし、麻痺もない。生体チップもナマの脳よりも強靭なため、医者からは専門医による精密検査すらも勧められなかった。
けっきょく、二日のあいだ病室の一角を間借りしただけで退院できてしまった。
「これも、あなたの対応がパーフェクトだったからね」
ルネはますますぼくへの愛情を増したようだった。
ぼくとしては無我夢中で、あとから振り返ると背筋の寒くなるような選択が多かったように思えて仕方がない。褒められるのは心臓マッサージの際にルネの肋骨を折らなかった筋肉くらいだ。
ことの発端は、重いインストール酔いで不調なルネに彼女の好物のビーフシチューを用意したことにある。気を失う可能性も充分に考えられたのだから、用意すべきは食べやすい消化のいいものだった。
以前も、気を利かせてやった調理で何か失敗をしたような……。
あっても些細なことだったろう。人生において、今回以上の失敗をやった覚えはない。
「ね、帰ったらビーフシチューが食べたいな」
ぼくは開いた口が塞がらなかった。
いや、あれだけの出来事だ。消去されたんだろう。あるいは、窒息とシチューが関連付けられなかったか?
ぼくが助けた事実は憶えていたようだが……。強いて言うなら、回数が違ったか。やはり消去プログラムが仕事をしたようだ。
ともかくルネは、ぼくにまた大きなかたまり入りのビーフシチューを作らせた。
いっしゅん、仕返しじゃないだろうかと不吉な考えがよぎったが、逆らえない。彼女はシチューをほおばると、「やっぱりあなたが作るシチューは美味しいわね。でも、いつもよりお肉が柔らかいかも?」と言った。
ルネは食事を済ませたあと、「コルネットを吹いてみるね」と言った。
それはぼくも気になった。細やかな運指や舌使いに支障が無ければいいが。
「よかった」
ルネは胸をなでおろしたが、ぼくは首をかしげた。
なぜならば、彼女は演奏ではなく、ケースを開けたときにそう言ったのだから。
それから、定番曲の“繰り返されるオールド・カルチャー”のコルネットパートを上手に吹きこなし、リクエストは無いかと訊ねた。ぼくは「特には無いよ」と返す。
次は“熱血シリーズ”の定番BGMの“夕陽のテーマ”が吹かれた。
ルネは額に汗し、息を切らすほどに一所懸命だ。でも、ぼくの胸には響かず、音は右から左へと抜けていった。
「調子悪いんでしょ? それとも何か……」
ぼくは誤魔化すように彼女の身体を抱きしめた。
唯一のすがれるものが不確かになった気がして、ぼくのほうこそ窒息してしまいそうだった。
しばらくして、背中が優しく叩かれた。
翌週から、立場が逆転した。
ルネは気丈にも、軍の科学技術研究所欧州分所の脳科学科に通うようになった。そこの“音の部屋”にて準研究員としてサポートをするそうだ。
彼女はコルネットほどではないが、ほかの楽器にも通じている。何より、音感はインストール不可の領域だし、立派な専門家というわけだ。
いっぽうで、ぼくは休職した。あの日以来、燃え尽きたようになってしまった。
ルネのことがきっかけではあるが、エンテという女ロボット兵器のやったことと、マイドの女の子のティーンのことが頭から離れない。
ただぼんやりと過ごし、たまに筋トレをして、室内飼いの犬のように飼い主を出迎える生活。
あれだけ好きだったアニメやSF映画も視聴しなくなった。
端末に表示されるオススメ番組や人気上位番組はどれもこれも戦争がらみで、週一で公開されるエンテの戦いと、各都市の第一部隊の戦闘映像が並んでいる。そんなもの観る気もしない。
もう戦いはうんざりだった。誰かが死ぬのも、殺すのも。前線にも出ず、身体ばかりがデカい男がこう言うのも情けないが。
ぼく以外にも痛手を負った者がいる。
プフィル中佐だ。彼女はあの上映のあと、ルネと同じように発作を起こして倒れ、病院へ搬送された。彼女は基地には帰らず、マージナルにある赤レンガの精神病棟へ移された。
カミヤ隊長はアフターの食事会をやらなくなった。ぼくの端末も一度も鳴らない。彼は広報部が設置したサイトの人気投票のトップランカーだ。今日も彼は殺している。
クスティナは一度、見舞いに来てくれた。彼は軍を批判し、どうにかして停戦し、マイドの国と和平を結べないかと相談してきた。できればいいとは思うが、ぼくの手には余る。
彼はティーンの様子も伝えてきた。しばらくは忘我に陥っていたそうだが、今は元気らしい。すっかり基地に馴染んで、パーシモンから料理を習っているんだとか。出入りする業者に見られたらしいが、「さすがあのエンテの居る欧州軍の第一基地だ」と感動されて、口外しないことも約束して貰ったらしい。
あとは……フージャオも見舞いに来たな。
頭が痛かったから居留守をしてインターホンのモニターを眺めてやった。彼女はしばらく待っていたが、そのうちにチャイナドレスだというのに逆立ちをしてあられもない姿になったり、演武のようなことをし始めた。
「アチョー! ゴリラさん、組手するネ!」だとか「アイヤー、無視しないで欲しいアルー!」だとか言っていたが、警察が到着して共同廊下はようやく静かになった。通報したのは初めての経験だった。
「ランプさん、心配かも。ずっと目の下にくま作ってるんだよ」
部門は違えど、同じ技研の同敷地内にいるルネとランプは、昼食を共にしているようだ。だが、ランプは基地へメンテナンスに出かけるとき以外は、自分のラボにこもりきりらしい。エンテに使われていた圧倒的な技術にショックを受けてはいたが、折れたのではなく、エンジニア魂に火が点いたらしい。爆発して大惨事にならなければいいが。
ルネは休暇のたびにぼくを外に連れ出した。
ショッピングや食事、文化鑑賞。トレーニングジムの会員にもなった。
それから、特に何もないマージナル地区の町に出掛けたりもした。
ルネは「一時期ここに住んでたことがあるんだよ」と言った。それはおかしい。彼女はスイス地区のハイスクールを出てから、ずっとセンター暮らしのはずだ。
ここのところ、彼女は妙な記憶違いが増えてきたようだった。
私たち、無人機災害の前にも会ってない?
このコルネットって、あなたが買い直してくれたものよね?
妹さんは元気?
やはり、専門医に診せたほうがいいのではないだろうか。
行動に不審な点も多い。よく後頭部を押さえてぼやいてるし、出先でお手洗いに行き、長いなと思ったら物陰からぼくをじっと観察してたりするし、やたらと“熱血シリーズ”の共同観賞をしたがるし。
繰り返して言うが、アニメやファンタジーはもう卒業だ。
何度か付きあったが、ルネも察してくれたようで言わなくなった。
夜のほうも変化があった。彼女は静かなスキンシップだけで満足するようになった。ぼくとしてはそれでありがたい。名実ともに不能になっていたのだから。男性ホルモンは筋トレだけがかろうじて、といったところだ。
ある日、その筋トレ――五〇キロのダンベルカール――をしていると、ルネがやってきて、黙って観察を始めた。
カールを終え、ダンベルフライをし、フレンチプレスをする。
「ね、間違って憶えてるってことはない?」
ルネが出し抜けに言い、ぼくはダンベルを動かす手を止める。
「姿見でチェックをしているから、それはないと思うが」
「トレーニングのフォームの話じゃなくって。私がたまにするヘンな質問のことよ」
「ヘンという自覚があるのか」
「まあ、自分でもよく分かってないし。でも、ヘンなのはあなたの頭のほうかも?」
「そりゃ、不快感消去プログラムは不能だが……」
「誰かのこと、忘れてるってことはない?」
彼女はぼくの前まで来て、まっすぐと見つめて言った。
「例えば、妹さんとか」
「ダンベルが危険だから離れてくれ。ぼくは孤児院育ちだって言っただろ。妹がいたとしても生き別れだろうし、会ったこともないよ」
彼女の質問は続く。
「アルツって大きなケガをしたこと、ある?」
「憶えてる範囲では無いかな。筋肉痛ならほぼ毎日だが」
「病気は?」
「風邪は引かないが頭が病気だ。お医者さんごっこか?」
ルネはくすりと笑った。「そうね」。
彼女は失礼にもぼくの股間を凝視したが、急にため息をついて顔をあげた。
「もう一度だけ聞くね。誰かを忘れていませんか?」
ぼくの返答は変わらない。忘れているのだから思い出せるはずがない。
彼女は納得しないようだったが、「それでも」と汗だくのぼくへ抱きついた。
「あなたがなんだろうと、この世界が引っくり返っていようと構わない」
「なんだ、急に?」
「愛してるから。私があなたのこと、絶対に元気にしてみせるから」
「おう?」
ぼくは生返事だ。
彼女はしばらくくっついたままだった。
ダンベルを半端な位置に停止させたままだったので、筋肉が抗議した。
「ね、筋トレもお手伝いさせてくれない?」
ルネがちょっとした戯れを提案した。ぼくは少しだけ興味を惹かれて承諾し、彼女のお尻を両手のひらにのっけてダンベル代わりにした。
「む、ダンベルより軽いな。……四二キログラムとみた」
「当てないで!」
暴れた彼女が手のひらから落っこちてキャッチ。
ぼくらは久し振りに笑い合った。
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