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Case19.柵の中の放浪

「ねえ、あっちに何かいる。あれはシカ?」

「トナカイだそうだ」


 立派な角を生やした獣たちが、イチゴの低木に紛れて立ち並んでいる。風が吹きぬけ、背丈の短い草原が陰影の波を作った。続く緑。草木果てなく。この近辺は、地球環境が危機に瀕したさいも、自然が生き残り続けてきたという。


 そんな貴重な天然の世界に、人間が作った「柵」がある。地上から数メートルの高さまで赤い光が伸びており、人間の出入りを監視するレッド・ラインだ。

 地上付近を赤い霧のようにハレーションさせているそれは、酷く無粋に思える。

 横で「やっぱり邪魔ね。この景色には要らない」の声。


「オオカミは居ないかしら?」

「オオカミは奥地の森の中に暮らすらしい。パンフレットの映像で我慢するしかないな」


 恋人は「森、森……」とつぶやきながら世界をなぞる。

 それから、「赤い線の向こう側ね、残念」と言った。


 ここは世界の最果て、自然保護地区のひとつ。

 人気の観光スポットだ。

 ぼくは休暇を利用して恋人とともにここへやってきた。


「トナカイの鼻は赤いって本で読んだんだけど、嘘だったみたいね」

「そんなもんだろう……。何か出てきたぞ」


 目を凝らすと、森のほうから獣の集団が緑の波をかき分けて、トナカイの群れへと接近しているのが分かった。


「双眼鏡も無しによく見えるわね。……すごい! 本物のオオカミだわ」

「狩りをするんだろうか」

「足の遅いトナカイがいるわ」


 群れは敵を察知し、オオカミたちから遠ざかっていく。だが、遅れたトナカイが先頭を走る狩人にアタックを仕掛けられた。すぐには倒れなかったものの、さらに鈍足となり、瞬く間にチームプレイの餌食となってしまった。


「ねえ、トナカイの鼻が赤いっていうのは、こういうことなのかもしれない」

 まだ生きている。息継ぎをするかのように毛皮の中から頭をあげたトナカイの鼻先は自身の血でまっかに染まっていた。

 天を仰ぎ喘ぐ姿は、どこか「祈り」を彷彿とさせる。


「レッド・ラインって自然保護のために引かれてるって話だけど、本当は人間のために引かれてるんだわ。あの線の向こう側に自由があるとか、ファンタジーがあるという人もいるけれど、その反対ね。生きるためだけに生きて、不自由をしなくちゃいけなくなる」


「そうだな。あの狩りの様子は、まさしく現実だ。ファンタジーとはほど遠い」

 それに。ぼくは続ける。

「人間がひとりもいないと考えると、寂しくて死んでしまいそうだ」


 笑い声があがった。「あなたもそういうことを言うのね」。


「言うさ。人間は社会性の強い動物だからな」

「そうね。だけど、獣にだって社会はあるんでしょ?」

「自然の掟と動物的本能に従った厳しい社会だ」

「でも、動物の中にはわざと足を引きずって注目を引く習性を持つものもいるって」

「群れの維持のためだろう」

「冷たい表現だわ。“誰かのため”って言ってあげて」

「だが、遅れた個体を振り返る仲間は一匹もいなかった」

「冷たいわ。やっぱり、獣は私たちとは違うのかな……」


 冷たい、か。ぼくも冷たいのかもしれない。

 ここのところ、そのことばかりが頭の中をぐるぐるしている。


 考えるのはよそう。せっかくの休暇なんだ。この時間を楽しまなければ。もう数日すれば、嫌でも基地へ戻らなければならない。基地での暮らしも悪くはないが、やはり彼女といっしょのほうが安心できる。


「そうだ、コルネットを吹かなくてもいいのか?」

「忘れるところだった。そのために来たんだった」


 恋人は周囲を見渡し、小高い岩を指差して「あの上で()りたい」と言った。

 ぼくは彼女が岩によじ登るのを手伝ってやり、岩から離れた。


 大きな三つ編みの少女が風の中で黄金の楽器を掲げる。

 音色は風に掻き消され、こちらまでは届かない。けれど、大自然の中でひとり立ちつくす彼女は、とても綺麗に思えた。

 だが、突風が彼女をふらつかせ、演奏は始まらずに終わってしまった。


「ダメね。風が強過ぎて、私の音は届かない。ここに来ればインスピレーションが沸くかと思ったけど、圧倒されるわ。世界に呑みこまれちゃうような気がした」

「絵にはなっていたぞ。ぼくが撮影家だったらカメラを構えていた」


 褒めたつもりだったが、ルネからは不満そうな表情を貰った。


「昔は誰でもカメラが使えて、なんでも撮影したそうだけど、それって無粋だと思う。撮りたいほどのものがそこにあるのに、撮ることに気をつかうなんて」

「そうか? 撮影もクリエイティブな活動だろう」

「ファインダー越しの世界と、身体で感じた世界は違うわ。記録よりも記憶がいいの」

「ちゃんと目で見て、エビングハウス回路に記憶させてもらうさ」


 ルネはぼくの前で両腕を広げた。無言だが、何を言いたいのかは分かる。

 「ナマのルネちゃんがここにいるんですけど?」、だろう。


 ぼくは彼女の小さな身体に腕を回して抱擁する。

 確かにここにある、体温。


「チップなんかじゃなくって、アルツの脳に刻みこんで。私のこと、忘れないで」

「忘れるものか」


 彼女はつぶやく。「温かい」。

 反して、ぼくの胸の中には冷えたかたまりがひとつ。

 それから逃げるように、ただ温かさへと必死にしがみつく。


「痛いんですけど。そのムダな筋肉で私をへし折る気?」

「ムダではない。筋肉は脂肪よりも熱を持つ。温かいのは筋肉のおかげだ」


 ため息をつかれた。「あなたとロマンチックをするのは難しいわ」。


「筋肉というワードを出したのはきみなんだが……」

「私もへたっぴかも。ストレートなほうが得意だし、あなた以外とはロマンチックをしたこともないし」


 ルネはころころと笑った。


「ロマンチックか……。やっぱり、赤い線はないほうがいいな」


 緑と青の景色には、赤は派手過ぎる。

 だが、獣たちは監視の光には慣れっこになっているようで、自由に境界を出入りしている。さっきのトナカイたちも「こちら側」に逃げてきたはずなのに、速度を緩める様子はなかった。


「人間に自然はまだ早い、か」


「ハイスクールのころ、歴史学習で資料館に行ったときに知ったんだけど、第一文明時代には草原で暮らす民族がいたそうよ」

 ルネは続ける。

「ウマやヤギを飼って、季節に従って移動して、テントを張って暮らすんだって」

「優雅だな。人間も自然の一部だったってことか……」


 人間と自然が切り分けられたのはいつのことだろうか。

 叶うのならば、ぼくも旅に……。


「そういう人たちのことを――――って呼ぶそうよ」


 唐突に視界がブラックアウトをした。



 ……。


『博士がいい加減にベース人格を決定してくれとボヤいてたぞ。ぼくも名前が決めづらいし、早くしてほしいところだ』

『まだ、試したい個性があるのよ。この本のお姫様のまねをしてみたい』

『またか。よし、きみの名前を決めた。――――だ』

『遊牧民? どうして?』

『放浪者のほうの意味だ。いろいろなパーソナリティをうろついてるからな』

『酷い! じゃあ、あなたの名前はアルツにするわ』

『なぜアルツなんだ?』

『教えてあげない。酷い名前の付けかたをしたお返しよ』

『ということは、ぼくの名前の由来も何か? ま、響きはキライじゃないからいいが』


『テキトーね。……でも、名前をありがとう。大切にするわ。あなたからもらったものだから』


 知らない女性の、少しぎこちない笑顔。


 ……。



「アルツ、大丈夫?」

 ブラウンの瞳が覗きこんできている。

「すまない、少し眩暈がしただけだ」


 今のはなんだったんだ? ぼくが誰かと……。

 何かを見た気がしたが思い出せない。まるで夢を忘れてしまうように溶けて消えてしまった。


「疲れてるのね。私がたっぷりおもてなししてあげるから、帰ろっか」

「来たばかりじゃないか。もう治ったし、心配しなくていいぞ」

「心配もあるけど、もういいかなって。ここに来ればいい曲が浮かぶかと思ったけど、赤い柵の内側にいるのがはっきりしただけ。けっきょくは、どこでもいっしょなんだなって」


 ルネは見習いコルネット奏者のかたわら、作曲にも手を出している。

 ぼくの見立てでは彼女は将来、大成すると見ている。


「帰りにどこかに寄るか?」

「どこでもいっしょなら、うちがいい。あなたの部屋なのに私しか使ってないし。ビーフシチュー、練習したから味を見て欲しいの」

「楽しみだ」

「あなたよりもおいしくできる秘策があるの」

「ほう?」


 ルネはもったいぶらずに言った。「お肉マシマシ! たんぱく質マシマシ!」。


「それは素敵だ」「でしょ?」。ぼくらは笑い合う。


 帰る前にもう一度だけ景色を焼き付けておこうと、手を繋いで草原を眺めた。

 赤いラインのはるか上空、鳥の群れが編隊を組んで山のほうへと消えていく。


「空を飛ぶのは、鳥の特権なのよね」


 ルネは繋いだ手をほどき、再びコルネットを取り出した。

 「何か浮かんだのか?」と訊ねようとしたが、すぐに耳を塞ぐ羽目になった。



 ぷっぷーーーっ!



 割れんばかりの大音量で吹き鳴らされるコルネット。


「なんてことするんだ!」

「ごめんごめん。何だか急にムカついちゃって」


 ルネはいそいそとコルネットをケースにしまい、ぼくにかがむように言うとキスを一発くれて腕へと抱きついた。


「よし、すっきりしたし帰ろ。私たちのうちへ!」


* * * * *

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