Case01.スプライサー
円形の法廷。
発言者のためのステージには、ノートやペンなどの学習用具が散らばり、それに混じってバツ印のつけられた子ども向けの絵本やゲーム機が散乱している。
それから、ぼくの眼前には光り輝く女の姿があった。
一糸まとわぬ彼女は、身の丈三メートルはあろうかという巨体だ。
振り乱した髪、すべてを呑みこまんと開かれた口、我が妹から苦情の出そうなほど大げさな乳房。
下半身はひとではなく、大蛇ときている。
狂った母性の象徴をひと通りそろえたそれは、少年のころの姿の依頼者をかき抱きながら、もう一対の腕で侵入者たるぼくを叩き殺そうと待ち受けていた。
『クライエントの脳波に覚醒の兆候アリよ』
たび重なるアクセスは依頼主の生体脳やエビングハウス回路の負担となるだろう。
ナビのアラートを受けた僕は駆け出し、いにしえの魔物から少年をもぎ取る。
「取りかえした。あとはこのメドゥーサもどきを退治するだけだな!」
子を奪われた女がハレーションを闇へと反転。黒い炎に包まれる。
怒り狂う炎蛇はこちらへ飛びかかってきた。
それは悪手だ。相対速度が上がると、痛い思いをするのはそっちだぞ。
記憶と思考の世界では想像力がすべてだ。
渾身の一撃を放たんと、カラテの構えを取り、打ちこみに動員される筋肉たちに語りかける。
「必殺……!」
ところが、かずかずのヒーロー作品を研究して考えだした自慢のパンチを繰りだす前に、視界内のすべてがゆがみ、眼前の蛇女も霧散してしまった。
「切断」だ。
水中を急浮上するかような感覚に身体と脳内が支配される。
心理の海溝が遠ざかり、背中とイスのあいだの熱を思い出す。
……目覚めると、額に小さな痛みを感じた。
彼女の突きたてた人差し指が爪を食いこませている。
こうするときの彼女は「不満」や「不安」を感じているはずだ。
『ごめんなさい。想定より早く目覚めてしまったわ』
彼女はぼくの電脳へ直接語りかけると、額から指を離した。
手がどけられると、いつもの淡いローズアッシュのボブヘアーと、想定通りの感情パターンを宿した黒い瞳が現れる。
彼女はこちらを少し見つめたあと、依頼人の腰かけた椅子へと視線を移す。
「お目覚めですか、ジェムソンさん」
彼女の問いかけに初老の男性は気怠そうに返事をし、「終わったのだな」と口にした。その口調からは、問診時に見せた若輩者の治療者たちに対する「高慢さ」は消えているように思えた。
『ノマド、落ちこむことはない。治療は成功だ』
ぼくは妹の電脳へと、通信でささやきかけた。
『成功と判断できるだけの情報があったの?』
『彼の口調で分かる。それに、蛇女に抱かれていた少年は引き離されることを拒絶しなかった』
『そう。それはあなただけにしか分からないことね』
ノマドはそっけなく返事をすると、ノートパソコンを操作するふりをして、ジェムソン氏の記憶データの書き出しを始めた。
ローズアッシュのショートボブ。黒いワンピースドレス。ひざ丈の短いスカートから覗くのは白いタイツに覆われたすらりと細い足、ローファーはブラック。
モニターを眺める瞳はクールで、閉じたくちびるは可憐。そんな容姿をした彼女は、スプライサー業のパートナーで、ぼくの自慢の妹だ。
彼女は感情分析よりも数学的な演算や電子的な干渉を重視して開発されている。ぼくは感情分析と物理干渉が得意だ。
対照的な兄妹。効率的な役割分担。ふたりでひとつだ。
ぼくはいまだ後頭部を押さえる依頼人に温かいお茶を出し、ノマドはゲーム化した書き出しデータのリプレイ方法を説明する。
先ほどの裁判所の光景は、現実であって現実じゃない。
あれは依頼人にして患者である、悩める弁護士ジェムソン氏の「記憶の世界」だ。
アンドロイドであるぼくらは、人間の脳に貼りつけられた記憶チップ“エビングハウス回路”に干渉することができる。
人間は生まれてすぐ施術を受け、その生体チップのもとを脳の奥に隠された海馬体へと埋めこまれる。チップの役割は、衰えた記憶能力のサポートと社会倫理や職能のインストールだ。
それから、不快感の除去。
睡眠時にプログラムが走って、その日に受けた不快な記憶や感情を削除・改ざんしてくれるのだ。
ところが、そのプログラムには弱点がある。
人間の記憶データというものは莫大だ。一生分をすべて保持することはできないし、それだけの読み書きを毎日おこなうと、チップやナマの脳への負担が大きい。
だから、デリートはデータそのものではなく、それを呼びだすための「ラベル」を剥がすだけに済ませる。
原始的な磁気記憶装置ハードディスクと同じ手法だ。
つまり、削除データはフリーの利用可能領域として判定されているだけで、実際にはチップ内に残っている状態。
その断片データになんらかの切っ掛けでアクセスがおこなわれると、日常生活に支障をきたしてしまうのだ。
エリート弁護士ジェムソン氏の場合は、齢六十にして初の敗訴という失態をきっかけにデータの混乱が起こり、その症状は家庭内暴力という形で発現した。
理知的な彼にとって、妻子に手をあげたり、家具や壁に穴を開けることは不快だ。
その暴行もまた除去プログラムによって消去されてしまう。
とうぜん、被害を受けた家族もその体験を憶えていない。
昨晩までは無かった痣をこしらえた妻と娘、荒れた部屋、そして……痛むこぶし。
ジェムソン氏が弁護士という職でなければ、あるいはうしろ向きな生きかたをしていれば、脳がバイアスを掛けて答えを導きだすことを拒否しただろう。
彼は自身の罪を証明し正すために、スキーマ・ネットワーク中を検索し、「記憶を繋ぎなおす」というイリーガルな治療のすべを発見した。
そうして、ぼくら“記憶繋ぎ屋”にたどり着いたというわけだ。
「ジェムソンさん、本当に平気かしら?」
依頼者を見送ったノマドが不安げにつぶやく。
「平気さ。書き出しデータのリプレイをすれば、異常行動もトラウマも消えるはずだ」
ぼくは彼女の肩に手を掛け、励ましてやった。
励ましてやった……はずが、何やら我が妹は怒りの表情を見せている気がする。
「アルツ」
彼女がぼくの名を呼んだ。ぼくは返事をしなかった。
「あれでスプライスが完了するのなら、ジェムソンさんの母親を退治しようとしたのはなぜ?」
「トラウマの根源は叩きのめさなければな」
「それは彼自身がやるべきことでしょう? どうせまた、必殺技を試したかったとかそういうところでしょう!?」
感情特化型のAIではないくせに、最近は表情が豊かになってきたと思う。
兄として成長が嬉しい。
「悪手を打とうとしたのはあなたのほうじゃない! それに、わたしは別に、不必要に大きな乳房に怒ったりはしないわ!」
ナビゲートを務める彼女は、アクセス中のぼくの思考を読むことができる。
まったく、プライバシーの侵害というやつだ。
ノマドは罵詈雑言を並べ立て始めた。
女性型思考パターンに超高性能演算機能が加われば、ぼくの過去の失敗のかずかずを「オキョウ」のように唱えるのもお手の物だ。
ぼくは人差し指を立て、我が妹の前へと突きだしてやった。
「今日はきみが夕食の買い出し当番だろう? パイクパーチのレモンクリーム煮が食べたければ、苦情は後回しにするんだな」
オキョウがやみ、悄然とした表情で「ずるい」とつぶやくアンドロイドの女。
ははは。ぼくの勝ちのはずだが、胸がとても痛むな?
買い出しへゆく彼女を見送り、ぼくはダンベルを片手に携帯端末でお気に入りの正義のロボットアニメの視聴を始めた。
妹をお使いに出して、自分だけ遊んでいるわけじゃない。
これは、趣味であるのと同時に、大切な仕事の糧だ。
人間のこころを知るという、ぼくらの使命のための。
西暦五五五五年。
人類がよすがを失い、記憶を生体チップに頼るようになってから久しい。
不快感を忘れ、効率化を尊び、余暇で憑りつかれたように娯楽にふける……。
一見して幸せな社会だが、システムの狭間に落ちこみ生活をドロップアウトするひとびとが増える現状。
ぼくたち兄妹は、そんな彼らを救うべく紛れこんだ、いるはずのない存在。
鏡の国へとやってきた侵入者だ。
ひとの深層にアダプトし、スプライスして、サルベージする。
そして、ぼくらはもう一度、繋がらなければならない。
だから、ずっと覗き続けるだろう。きみたち人間のこころを……。
* * * * *