覚悟
魔の恐怖に充てられ震え上がってしまったレインはその後、グリーニヤに送られる形で宿まで帰ることが出来た。
本当ならすぐにでもカリンとライガに話すべきだったのだが、疲れ切ったレインは部屋に入るやいなや、即眠りに落ちてしまった。
その結果、起きた頃にはライガはもう仕事へ出掛けてしまった後だった。
「おはようレイン。昨日は遅かったわね。」
起床し、リビングに出て来たレインを迎えたのは、昨夜の事情を全く知らないカリンだった。
「……おはようカリン。」
「何よ元気ないわね。二日酔い?飲むのもほどほどにしなさいよ。アンタ酒癖悪いんだから。」
レインはまだ起きたばかり。頭が回っておらず、脳にこびり付く不快さがそれまで眠気で蓋をされていた。
しかし、カリンが昨夜の事を尋ねたせいで不快感が眠気を突き破って出てきてしまった。
「うっ!!」
「え!?本当に二日酔い!?汚さないでよね!!」
レインは便所に駆け込んだ。肩に残る悪意の感覚を思い出し、胃の中身を思い切り吐き出す。一晩経って胃液で薄まった内容物が便器の水に落ちて行く。
酸味の強い独特な匂いがレインの鼻を刺したが、昨夜の記憶に比べればもはや心地良い位だ。
吐き切り、ぎしぎしと軋む奥歯を噛み締めてレインは水を流した。
「大丈夫?ほらお水。」
便所から出て来たレインにカリンはコップ一杯の水を差し出した。
レインはコップを見つめた。透明の容器に肌色が波打っている。澄んだ水の透明がカリンの白肌に侵されている、いや透明が色を映すのだ。何もかもを見透かすように。
レインにはそれが不安で不安で堪らなくなった。
「え……?」
不意にレインがカリンに抱き付いた。
カリンの手から離れたコップががしゃんと床に跳ねた。水が床に広がって行く。それぞれの色を映しながら。
「ちょ、ちょっと……何抱き付いて……」
「カリン、このまま話させてくれ。」
カリンは様子の違うレインに強い既視感を覚えた。小動物の様に縮こまって怯えるその様は、悪夢に叫んだあの日の姿と重なった。
「うん、良いわよ。」
カリンが優しく受け入れると、レインは昨夜の出来事を事細かに語るのだった。
……
「嘘……だって、アイツは百年あの館に捕らわれていたのよ?人間の知り合いなんて……とっくに死んでるに決まってるのに。」
リード・ジストロックを知る者がこの町に居た。そしてレインが奴を打ち倒した者の一人だと気付かれていた。この事実はカリンの精神を揺さぶった。
「でも居たんだ。内に危険を孕む者が、あいつと同じ存在が間違いなくこの町に!!」
レインの身体の震えが止まない。抱きしめるカリンはその震えの感情を完璧に理解できた。
カリンが優しく、慈愛を持って抱きしめる。たった一人、悍ましき存在と相対したレインは、皮肉にもこの時初めてあの夜のカリンの気持ちを理解できたのだった。
カリンは肩に温もりを感じていた。服に落ちたレインの涙が悲しく、寂しい温もりを持っていた。
「ねえレイン。」
「……なに?」
「あたしはアンタが決めるなら何だって協力するし、何処だって着いて行くよ。だからさ、もし辛いなら……逃げちゃっても良いんじゃない?」
レインは何も言わない。
「三人でさ、何処か遠い所に行くの。王都の事とか難しい事は全部忘れて楽しく暮らすの。知らない奴から託された使命なんか捨てちゃって。……どう?」
天使の様に優しく今を守り、悪魔の様に酷く過去を後悔する提案だった。今のレインには毒にも薬にもなるだろう。
カリンは至って真剣に語っている。レインもそれは分かっていた。そうした方が自分達は助かることを。だから、
「やるよ。最期まで。」
レインは放り出すなんて決断は出来なかった。
「シン達の死体を見た時、カリンに魔方陣を刻んだ時、リードから使命を託された時、女将さんの声を聴いた時、俺の道は決まったんだ。だから……皆を置いて逃げ出せない。」
俯くレインの視界の外で一瞬、カリンが悲しい顔を見せた。彼を想う慈しみの顔だった。
「じゃあ……進む道が決まってるならやるべきことがあるんじゃないの?」
「やること……?」
カリンは指を一本ずつ立てていく。
「協力してくれる人達に館での事を話しておく事。もしそいつと戦う事になったら以前の様に館の様な閉じられた空間で戦える訳では無いだろうから、大事な知り合いを逃がしておく事。これ位はやっておくべきじゃない?」
「ああ……そうだな。」
レインが顔を上げた。目元の涙を拭い去った。
「やる気が出て良かった。じゃ、行きましょっか!!」
そう言ってカリンは羽織っていた上着を余所行きのものへと交換した。
「どこへ?」
カリンが出掛けようとしているのは分かったレインだったが、自分も共に出掛けるとは思っていなかった。
「そりゃ、アンタが何時も行ってる所よ。時計見なさい、と・け・い。」
レインが時計を見ると、針は正午を過ぎてもう三十分が経とうとしていた。
「え!?ロビーの所に行く時間が無い!!」
「だからアンタも早く支度しなさい。途中で心細くなって泣いちゃわないように、あたしも付いてってあげるから!!」
カリンは良い笑顔でレインを寝室へ押し込んだ。ここはカリンに甘え、レインは身支度を整えていく。
数分後、清潔感を身に纏ったレインが寝室から出て来た。カリンはレインの荷物袋にフーコを詰め込むと、腕を引いて宿の外までレインを連れ出した。
「よし、先ずは急いでハニープラムに向かおう。」
「なにその名前、美味しそう!!」
「先に行くからな!!」
呑気なカリンを置いて走り出すレイン。
「待って、走って行く気?」
彼の手首をがっしりと掴むカリン。レインは全身で駆けていた筈なのにカリンが剛腕一本で止めるものだから、レインの肩がぐぎと嫌な音を鳴らした。
「うおぉおおぉぉ!!肩がああああ!!」
「何やってんのよ。いい?走って向かうなんてナンセンスよ。」
悶絶するレインの横でカリンが大きく翼を広げた。
「こういう時に風よりも疾いあたしの羽が輝くのよ。」
そう言ってカリンはふわりと羽ばたいた。痛みに耐え、肩を擦るレインの上空に浮遊すると、
がしっ!!
「いだだだだだ!!!!」
レインの肩を鳥の様な足でがっしりと掴み込んだ。
「ちょっと痛いかも。」
「全然ちょっとじゃない!!」
カリンは人の話なんか聞かずに一気に高度を上げた。町を海ごと見渡せる超上空まで飛び上がったが、レインはそれを楽しむ余裕も無かった。
「ねえどの辺?」
「カリン、お前覚えとけよ……あっちだ。」
レインが指差す方向に向けて速度を出してゆくカリン。レインが普段三十分は掛ける道のりをたったの一分足らずで飛びきった。
「カリン、もうそろそろだ。あの、細い路地の所。」
「分かったわ。ちょっと怖いわよ。」
レインが反応する間もなくカリンは超高度からの急降下を始めた。
「した……まない……」
カリンが何か言っているようだが、全くレインの耳には届かない。顔面に掛かる風圧の激しさは外界と彼を分断しようと言うのだろうか。いや無い。
どんどんと地上が迫って来る。レインはカリンを信じてはいたのだが、この速度はおかしくないかと疑心暗鬼になる速度だった。
「あ……あ……かり……まっっ!!!!」
地に衝突しようかと言うその瞬間、レインの身体に凄まじい反作用の衝撃がもたらされた。レインの臓器は体内で跳ね返り、ぶつかり合い、一回転して元の位置に収まった。
「ふう、到着!!どう?中々スリリングだったでしょ?……ってあれ?」
空中で急ブレーキを掛け、レインを優しく地面に下したカリンだったが驚くほどレインからの抵抗が感じられない。見ると泡を吹いて失神するレインの姿が!!
「あ……まいっか。」
カリンは深く考えないようにした。
「えっとハニー、ハニー……あ、あそこか。滅茶苦茶ぴったりじゃない。流石あたし!!」
二人が降り立った地点から目と鼻の先にハニープラムの店名が見えた。レインが気を失った事実は忘れて自分を褒め散らかすカリンだった。
「ちゃちゃっと終わらせちゃいましょ。」
カリンはレインを担ぐと、ハニープラムの戸を叩いた。
「はい!!何か御用でしょうか?」
店の中から店主であるロビーが元気よく顔を見せた。
「アンタがロビー?」
「はい!!そうです!!……ってそれレインさんじゃないですか!?」
ロビーはカリンが担ぐ物体を早々にレインだと気付いたようだ。
「そうそう、あたしはコイツの友達なの。今日はごめんなさいね。待ってたでしょ?レインの事。」
「いや、それは大丈夫なんですけど。それ、レインさん大丈夫ですか?」
肩に担がれたレインは白目を剥いており、口から噴き出した泡がぼたぼたと玄関前を汚していた。
「まあ大丈夫でしょ。息もしてるし。」
「そ、そうなんですね……」
レインから話を聞いていたロビーは目の前の彼女がカリンという人物だと勘づいた。だってレインが言っていた適当さを遥かに上回る適当さだったから。
「何その顔。まあ良いわ。今日はそれだけ伝えに来たの。じゃあね。」
それだけ言ってカリンはさっさとレインを掴んで羽ばたき始めた。
「え!?それだけですか?」
「うん、そうだけど。……そうだ。近々レインから真面目な話があると思うけど、ちゃんと受け止めて上げてね。それじゃ!!」
一方的に言うだけ言ってカリンは空へと羽ばたき去ってしまった。
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