緊張
軽い吐き気で目が覚める。
不快感を感じ、袖で口元を拭った。
…またか。倦怠感を我慢し、立ち上がる。
何時から寝ていたのだろうか。周りを見て、最低でも七、八年は立っているだろうと推測を立てる。
ふと、胃の気持ち悪さと罪悪感、今の状況で更に吐き気が強くなった。体は吐こうとえずくが、奴らはそれを許してはくれない。なんせ久しぶりなものだからゆっくりと味わいたいのだろう。
重い体を動かし、周りに落ちたモノを抱え上げた。起きた時にはいつも最初にやっている事だ。
効力が薄くなっているのなら本当は直ぐにでも掛け直すべきなのだろうが、今の体調では上手く出来ないのは身に染みて分かっている。そうでなくとも最初にこれをやるべきだ。でないと私はヒトで無くなってしまう。
抱えたモノを長い階段を降りて何時もの部屋に運ぶ。それを何度も繰り返し、繰り返し、全てを運び出した。しかし、この部屋の匂いは嫌いだ。もう壊れ切った心が再び息を吹き返す。そんな気がするからだ。
ああ五月蠅い。こいつらは何時もそうだ。気を抜くと直ぐに顔を出そうとする。
棚に置いておいた器具を持ち、腹に数発撃ち込んだ。身体が前に倒れ込む。何時もの事だ。苦しみで勝手に呻き声が上がる。何時もの事だ。苦しみと共に口から吐き出す。そうすると奴らは首を引っ込める。何時もの事だ。
暫くのた打ち回った後よろめきながら立ち上がり、器具を棚に置く。ふと忘れ物に気づく。重い体で再び長い階段を上る。
廊下に出ると足元を二匹の鼠が走り抜けていった。ああ、何て哀れなのだろうか。出られない器に滑り落ちている。彼らも奴らも私もだ。いつか底に着けるのだろうか。
はあ、もうすぐ着くというのにまた…ああ、苦しい。何時まで経っても慣れないものは慣れないな。少し…休みたい…
領主の屋敷。忘れられた屋敷。外にはツタが絡み、苔生し、今にも崩壊しそうと思わせるほどの大きなひび割れが付いている。見るからに手入れをされていない様子のその屋敷の前にカリンは立っていた。
「やっぱり不気味ね。あまり近づきたくないけど。」
そう言いつつも、怯む様子も無く目の前の巨大な扉を軽々と開く。
中はやはり広く、外見程朽ち果ててはいないが、カーペットは破れ、蜘蛛の巣があちこちに張ってある。おまけに埃臭い。カリンは嫌そうな顔をしつつも中に入り込んだ。
エントランスには手前と奥に扉が三つと二階に上がるための階段が二つあった。館内の灯りは封鎖された窓の隙間から入る月明りのみで、二階や奥の扉は暗闇でよく見えず、辛うじて手前の二つの扉だけが薄っすらと見えていた。
シン達を探しには来たが、何が潜んでいるとも限らない。その為、カリンは小声で、
「シーン…、シーン。」
と言ってはみるが返答はない。
カリンは呼びかけを諦め、館内を散策することにした。出来るだけ明るい方に進もうと左側の扉へ向かった。
カリンが扉に近づいていくとあることに気が付いた。遠くからでは薄暗くて良く見えなかったが、扉は少しだけ開いており、その隙間から淡い光が漏れ出していた。
それを怪しく思ったカリンはゆっくりと扉を開け、中を覗き見る。扉の奥は廊下が続いていた。窓が多い為、エントランスよりも光が多く入ってきており、廊下の奥まで見通すことが出来た。
廊下に異常が無い事を確認し、カリンは廊下を進みだす。
カリンはおもむろに一番手前の扉を開けた。部屋の中には窓は無く、扉から入る少しの光しか頼りに出来ない程の暗さだった。壁を頼りに手探りで進み、小声で名前を呼ぶが、返事はない。
「シーン、シーン、きゃっ!もう、蜘蛛の巣が顔に!取れない!もー!!…はあ。」
少し気分を落とし、部屋を出るカリン。
その後、隣の部屋へ向かうが、部屋には入らずに声だけを掛ける。部屋の中にカリンの声が響くばかりで、最初の部屋と変わらず誰の返事も聞こえない。それを一部屋、二部屋と繰り返していくが、何も変わらないまま一番奥の部屋までたどり着いてしまった。
カリンは怪しかったのに何も無かったかと思ったが、とりあえず奥の扉を開けた。部屋の中を見たカリンは咄嗟に扉を閉めてしまった。
(灯りが、点いてた!?)
ゆっくりと、少しだけ扉を開けて中を覗く。中は今までの部屋と違い、壁に取り付けられたランプに火が灯されており、部屋の中を煌々と照らしていた。
中はエントランスや廊下とは変わらず、埃や蜘蛛の巣が放置されたままになっており、だからこそランプに火が灯っているこの状況は明らかに異質であった。しかし、人影は見えず、特段目立ったものも無かった為、意を決してカリンは部屋の中に入るのだった。
部屋の中には年代物の机や椅子、本がぎっしりと詰められた棚くらいしか無かった。ランプにも変わったところは無く、オイルの残りから火が点けられてそう時間は経ってはいないと分かった。
(シン達じゃ届かないだろうし、そもそも火を点ける道具何て持ってないわよね。と言うことは、他の誰かがここに居る?それなら早くシン達を見つけないと。)
とりあえずこの部屋を出ようとした時、カリンはふとあるものを見つけた。
(この地面の跡、何かを引きずったような。…この本棚?)
地面に跡が付いており、その先には大きな本棚があった。怪しく思ったカリンはその方向に本棚を押してみた。本棚はとても重く、精一杯押しても人一人が漸く通れるくらいの幅を作るので限界だった。
「…隠し扉。何でこんな所に?」
本棚の奥には空間があり、そこには扉が一つ隠されていた。
重い本棚を押さないと入れない隠し部屋。流石にこんな場所には居ないだろうとカリンは思ったが、扉は明らかに意図的に隠されていた。どうしてもその奥が気になってしまい、カリンはその扉を開けてしまった。
その中まで灯りは点いてはおらず、暗闇の中に薄っすらと階段が見えた。
奥も見えない程の暗さにカリンは少し怯んだ。しかし、好奇心が勝ってしまい、足を踏み出した。
(何やってるのあたし。早く探さないといけないのに。でも、何か、何かがこの奥にあるような。)
カリンは壁に手を付きながら、一段一段下って行く。階段は螺旋状になっており、すぐに元の部屋から入る明かりも無くなってしまった。
何時終わりに着くか分からない不安感と緊張で鼓動が早くなる。心臓の音が間違いなくカリンには聞こえていた。
何も無い空間に響く足音、鼓動、荒い息遣い。それらが不安感を更に加速させる。
段々と温度も下がり、異界に迷い込んでしまったのかとも思う程、ずっと闇が続いていた。
何分も降り続け、カリンが足を止めかけた時、階段の少し先に明かりのようなものが見えた。止まりかけたカリンの足が再び動き出す。
階段を降り終わったカリンは明かりの正体を見た。カリンの目の前には二本の火が付いた蝋燭と、それらが照らす古び、錆びついた一枚の扉だった。
その扉は館に在った他の扉とは違い、かなり重厚で、何処か不吉な予感を感じさせるような不気味さを醸し出していた。
カリンは扉に近づき取っ手に手を掛けた。蝶番が錆びているようで、扉を開こうとするとギイギイと嫌な音を立てる。軽く引いただけでは開かなかったのか、カリンは思いっきり力任せに引っ張った。割れるような音が鳴り、勢いよく扉が開け放たれた。
扉があいた勢いで後ろに尻もちを付いてしまったカリンは、部屋の中から漂ってきた匂いに眉をひそめた。立ち上がり尻を軽く払ったカリンは部屋の中、台の上、ソレを見た。
轟音が響いた。扉の前を塞ぐ邪魔な本棚が、赤熱した双剣によって無理矢理に切り裂かれた。
荒い息を吐き、赤い瞳を充血で更に真っ赤に染め上げ、体中から熱気と殺意を放つ女は散らばった無数の本には気にも留めず、部屋の出口へと近づいていく。
女は剣に炎を纏わせて部屋の扉を焼き切った。炎は木製の扉を瞬く間に灰となり崩れ去る。熱で揺らめくその身体はそのまま部屋の外へと向かい、
「…貴方、こんな所で何をやっているんですか?」
ご閲覧ありがとうございます。
次回の更新は22年2月22日0時です。
追記:一部改稿しました。