ハミングバード
毎週土曜日の夜、1万文字以上、2万文字程度の百合短編を投稿しておりましたが、
中編・長編を手掛けながらの更新が難しくなってきました。
そのため、月一での更新となります。
もしも、もしもですが、楽しみにされていた方がいらしたとしたら、
本当に申し訳ございません。
代わりに、短編以外では今までよりも精力的に更新する予定ですので、
そちらもよろしければ、楽しんでもらえると幸いです。
それでは、時間が許すのであれば、是非立ち寄っていってください。
拙い文章にはなりますが、週末の暇つぶしにでもどうぞ!
(1)
分厚い雲の隙間から、爛々ときらめく月が顔を覗かせる。
青白い光に当てられた煉瓦造りの建物の間に、野良犬の遠吠えが響く。
寒々とした風から身を隠すように、コートの襟に頭を埋めながらも、回転させる足の動きを決して止めはしない。
遠くから、犬の鳴き声以外にも、人の怒鳴り声や、警笛の音が聞こえてくる。
騒がしい夜だ。
しかし、それらの喧騒も、黒い風のような彼女を捕らえることは出来ない。
風を切るように、屋根の上を次から次へと飛び移る。
重力を微塵も感じさせない羽毛のような軽やかな動きに、何もかも後方へと置き去りにしているような感覚を覚える。
ふと、周りを見渡すと、ちょうどよく飛び移れそうな建物が見当たらなかった。
「さて…」
月光に照らされた町並みを見下ろす横顔を、風が撫でる。そんな彼女の目に、人工の無粋な光が映った。
夜を切り裂く、白いライトの光。
十分に距離を取ったと思っていたが、想像していたよりも上手に追われてしまっていたようだ。
「さて…」と少女は屋根の上から、一番近い着地点を探す。
多少の距離はあるが、勢いさえつければ、無理な場所ではない。
屋根の端のほうまでゆっくりと歩いて戻り、それから、大きく助走をつけて、月明かりの舞う空中に身を飛び込ませた。
耳元で鳴る、風を追い越す音。
内臓が浮き上がる、独特な浮遊感。
地面が近くなることで、自然と湧き上がる恐怖。
数秒間、虚空のキャンパスに己の体で放物線を描いた少女は、自分の感情の一切をコントロールするべく、意識してシニカルな笑みを仮面の下に刻んだ。
ブーツの踵が、一際大きな音を立てながら、塀の上に突き刺さる。
強烈な衝撃。
足に電流が流れて、痺れるような感覚が下から這い上がってくる。
少女は、細い塀の上で、その衝撃を受け流すために体を丸めようとした。
しかしながら、彼女が次の足を踏み出し、回転する前に、がくり、と足元が突然崩れて、バランスを失った。
「しまっ――」
塀が老朽化していたのか、元々たいした作りではないのか…。とにかく、着地の衝撃に耐えられなかったようだ。
音を立てて上から瓦解した塀に、足をすくわれるようにして、少女は落下した。
普段なら、屋根の上からだって飛び降りても、上手に受け身を取れる彼女も、あまりに不意を打たれて、無様に地面に倒れ込んだ。
体の節々が、鈍い痛みを感じていたが、そんなものに構っている場合ではない。
薄い砂煙の中、さっと身を起こし、目を細め、辺りの様子を窺う。
どうやら、大きな屋敷の敷地内に落ちたらしい。幸い、まだ騒ぎにはなっていないが、直に人が集まってくる可能性だってある。
無関係な人の家の塀を壊したことには、多少の罪悪感を覚えるが、こんなところで立ち止まっていては、追手に追いつかれる。
また今度、何かこっそり謝罪の品を送りつけておけばいいだろう。
そう考えながら、少女はその場を後にしようとした。だが、ふと、落下の拍子に、大事な戦利品を落としてはいないだろうか、という不安に駆られ、慌てて腰に巻いたポーチに手を伸ばし、中を探った。
…良かった、ちゃんとまだある。
月明かりを頼りに、ポーチの中を覗き込んだ少女は、月光を反射して輝く戦利品の眩しさに、目を細めた。
眩しい、と感じた刹那、ハッと違和感を覚えて、顔に手をやった。
そこにあるはずの感触が、ない。
戦利品は落としていなかったが、仮面を落としてしまったようだ。
探さなくては、と辺りに視線をやった少女の顔に、今度は月明かりよりも眩しい光条が、真っ直ぐと照射され、反射的に目を細め、光の方向を振り向いた。
光は、屋敷の上のほう、ちょうどバルコニーの辺りから降り注いでいた。
ライトだ、と気付くとほぼ同時に、人影がこちらを見下ろしているのが視界の隅に映った。
白いレースのパジャマを着た若い女の子が、大きく目を見開き、唇を震わせている。
彼女の金の糸のような髪が、風を受けて揺れていた。
慌てて顔を片手で隠し、壊れた塀のほうに全速力で駆け出す。
少女は、先ほどの女性が悲鳴を上げないことを祈りながら、人通りのない道を選び、ジグザグに走り続けた。
それから、十分ほど足を動かし続けた後、ようやく少女は足を止めてコートを脱ぎ、建物の窪みで大きく深呼吸をした。
肺が拡縮する度に、乾いた痛みが走る。しかし、少女はそんなものは気にも留めず、再び歩き出した。
徹底して、夜の至るところに蔓延る影を縫い、自分が寝起きしている建物の扉を、音も立てずにくぐる。
そうして自分の部屋に戻った瞬間、四肢の力が抜けて、思わずその場に座り込んでしまった。
呼吸は整いつつあるのに、心臓の鼓動は荒波のように激しくなるばかりで、凪は遠かった。
…まずいことになった。しばらくは、怪盗稼業も休止しなければならない。それで解決すればいいのだが…。
普段なら、コートに包んで持って帰ってくる、仮面のことを思い出す。それから、ありもしない仮面に手を伸ばすかのように、少女は片手を広げ顔に当てた。
――あぁ、顔を、見られたのだから。
(2)
ホームルームが終わりを告げる鐘の音が、学校の敷地の中央にある教会から鳴り響いてくる。
それを聞いた教師は適当にホームルームを終わらせ、解散した。流れるように教室から出ていく生徒たちを目で追いつつ、みんなとは遅れるようにして、教材をバッグに詰め込んだ。
教室を後にする生徒たちの間では、怪盗の話題でもちきりだった。
夜風に紛れ、私腹を肥やす上流階級から、汚い私財を盗み出し、人知れず貧しい人々へと施しを与える義賊、もとい怪盗。
女性であるとも噂されるし、中性的な男性とも言われることもあった。共通して言われるのが、細身で、軽やか、そして、仮面の下から紡がれる声音は、澄んだテノールであるという点だ。
喋ったことなどないのだけれど、と内心、肩を竦めながら話を聞く。
そして、誰が呼んだか、その名も、怪盗『黒風』。
夜闇を映した黒い外套を常に身にまとい、屋根伝いに風のように町を飛び回る姿から、そう呼ばれているようだった。
ようだ、というのは、少なくとも自称でないことの表れでもある。
その怪盗『黒風』が、昨夜再びハイソサエティの住まう住宅街に出没し、宝石を盗んでいった、ということで、生徒たちは話の種にしているというわけだ。
ある程度の支度を整えてから、少女――カナリア・バックライトは頬杖をついて、窓の外に広がる、澄んだ青天井を見つめていた。
人が減るのを待つついでに、昨夜の失態で巻くはめになった包帯を、軽く巻き直す。軽い捻挫で済んだわけだが、問題は怪我のほうより、顔を見られたことだ。
…覚悟を、しておかなければならない。
問題は、顔を見られたことだと言ったが、本質的にはそこではない。もちろん、それも致命的ではある。
根本、見られて困るものは、顔のパーツなどではないのだ。
本当に見られて、困るのは――。
ドン、と机が強く揺れて、そのはずみで、頬杖が外れる。
「あ、ごめーん」とあからさまにこちらを小馬鹿にした声が、頭上より響いてくる。
じろり、とそちらを見やる。思考の邪魔をされたのが、酷く気に障った。
「バックライトさん、さっさと帰らないの?」
「…帰るよ」
複数人のクラスメイトが、遠巻きにカナリアを見ている。その中の一人だけが、代表として彼女にちょっかいをかけてきたようだ。
淡々とした様子で応じたカナリアの態度が、お気に召さなかったのだろう、女生徒は歪んだ笑みを浮かべつつも、どこか満たされない表情で、再びカナリアに言葉をぶつける。
「ごめん、ごめん。『黒目』って、トロいんだっけ?すっかり忘れてたわ」
黒目、という単語に、周囲が呼応してくすくすと笑う。
明らかな挑発だったので、わざわざ乗ってやって、相手を喜ばせてやる必要もない。
そう判断したカナリアは、すっと音もなく立ち上がると、女生徒の横を通り過ぎようと体を逸らして、すれ違った。
ドン、と衝撃が走る。
普段ならば、見てからでも避けられるわざとらしい体当たりだったのだが、今日に限っては、捻挫した足のせいで、上手くかわせなかった。
倒れないよう踏ん張ろうとしたことで、かえって足首が痺れるように痛み、思わずバランスを崩し、誰のとも分からない机にぶつかり、手をつく。
「ドンくさっ」と鼻を鳴らして嘲る少女。連鎖するように、周囲が笑う。
さすがに苛立ちが募って、じろりと相手を睨み返す。すると、一瞬だけその視線に怯んだ女生徒は、歯噛みするような表情を浮かべ、口汚く、「黒目のくせに」と吐き捨てた。
――黒目、アジア系、とりわけ、日本人の血が混じった人間を、ブリテンが馬鹿にして口にする呼称だった。
オニキスの瞳を鈍くきらめかせたカナリアは、相手が逆上しない程度に鋭い視線を贈り続けると、不意に、興味を失ったかのように背中を向け、教室から去ろうとした。
そんなカナリアの背に向けて、女生徒が少し大きめの声で皮肉を放つ。
「ねぇ、貧乏なバックライトさんのところには、怪盗『黒風』は来ないのかしら?」
無視して、歩みを続ける。
「来ないわよね、あんなボロ小屋みたいな孤児院に」
ぴたり、と足を止める。
カナリアの頭の中には、孤児院の管理者である老シスターと、幼い兄妹たちの姿が浮かんだのだが、その優しい面影をなじられたような心地になってしまい、無意識のうちに歯ぎしりしていた。
自分ではなく、自分の家族に向けて告げられた侮蔑の言葉に、カナリアの中の灼炎が怒りとなって瞳の中で逆巻く。
踵を返して、ずんずんと女生徒の元へと引き返す。カナリアが躊躇なく近づけば近づくほど、女生徒の顔には焦りの色がはっきりと表れていく。
「私の家族を馬鹿にするな、ライム野郎」
瞬間、女生徒の真っ白い肌が、かあっと燃えるように赤くなった。
人種差別的な発言に、似たような蔑称で返礼をするのは、相手と同じ土俵に立つようで、我ながら情けなくもあった。ただ、屈辱に震えた彼女の表情を見られただけで、その犠牲の価値はあったようにも思えてしまう。
「…このっ、黒目…!」
周囲が喧騒に包まれる。そのざわめきのほとんどに、『黒目』という言葉が混ぜ込まれていて、ここまで徹底されると、むしろ感心するな、とカナリアは鼻を鳴らした。
多勢に無勢か、とは思わなかった。
結局、彼女らは羊の群れにすぎない。
牙を剥き出しにする痩せ細った野良犬にすら襲いかかれない、ハリボテの強さを、本当の強さだと信じている集団だ。
見つめ合う距離を、さらに縮める。互いの顔は目と鼻の先だった。
一見すれば、恋人同士みたいな距離感。
びくり、と相手が驚いたのが分かった。わずかなプライドのためか、顔は動かさなかったが、視線はさっと、素早く背けた。
この距離なら、首元に素早く飛びかかれる。
なんとなく、そんなことを考えていると、コンコン、と響くノックの音が聞こえた。ハッと意識を吸い寄せられ、弾かれるように音のしたほうを向く。
教室の入口に立っていたのは、金糸を腰の辺りまで伸ばした少女だった。
少女、と呼ぶには、明らかに自分たちよりも違和感がある。大人びている、と言えば分かりやすいか。もちろん、顔のパーツ一つ一つには、まだあどけなさが残っているのだが。
「ちょっとよろしいですか?」
気取ったような口調なのに、嫌味っぽくないから不思議だ。学校の中にはまるで興味のない自分でも、彼女のことは知っていた。
才色兼備、という言葉が相応しい女性だった。
容姿端麗であることは言わずもがな、羊たちの前で演説するその姿からは、才気煥発であることも容易に察せられていた。
喧騒は静まり、カナリアを囲んでいた生徒たちは、我先にと他人のフリを始める。こういう己の身が一番可愛い、という振る舞いが、羊の群れだというのだ。
代表としてカナリアとぶつかっていた生徒は、今や、群れに見捨てられた哀れな羊となっている。その証拠に、ゆっくりと近寄ってくる少女の名前を呼ぶときの声は、少しだけ震えていた。
「サ、サヨ会長…。どうされたんですか?」
声をかけられた少女――サヨ・ベルベット生徒会長は、不思議そうな微笑みを浮かべると、軽く何度か首を振って、「貴方ではなく、そちらの方に用事があるのです、イザベラさん」と静かに告げた。
「すみません」とすぐに教室の隅に後体したイザベラは、物言いたげにカナリアとサヨのほうを交互に見比べたのだが、視線に気づいたサヨに見つめ返され、大人しく俯いた。
そちらの方、というのが自分のことだということは、さすがに疑いようもない。
「…私に、何の用でしょうか?」
怪訝な表情を隠すことなく、カナリアが告げるも、サヨは、ただひたすらに、じっとこちらを見つめるだけで、何も反応を示さない。
まるで、観察している、いや、何かと照らし合わせて鑑定しているようだ、とカナリアは直感的にそう思った。
いつまでそうしているつもりだ、といい加減腹立たしくなってきたところで、サヨがぼそりと呟いた。
「…見つけた」
あまりに小さい声だったので、聞き間違えかと思ったカナリアだったが、急にサヨは彼女の手を取ると、「ちょっと、生徒会室へ」と言って引っ張った。
なんて冷たい手なんだろう。
冬の外気に晒していたのか、と思ってしまうほど、彼女の手は冷えていた。
なんとなく、手を繋ぐという行為が恥ずかしくて、細やかな抵抗をしてみせるも、彼女はまるで聞くつもりはなさそうに、無理やり教室の入り口まで移動した。だが、それから何かを思い出したかのように振り返ると、羊の群れを見渡して、美しい微笑と共に言った。
「余計なお世話かもしれませんが、英国人としての誇りがその胸にまだあるのなら、特定の人種を貶めるような言葉は恥と思いなさい」
サヨの視線は、最後にイザベラで止まると、それから相手の反応を見ることなく、またカナリアに戻ってきた。
ほんの少しだけ溜飲が下がりつつあるカナリアだったが、サヨが厳しい視線で、「貴方もです。売り言葉に買い言葉では、貴方も同じ穴のムジナですよ?」
よくそんな言葉を知っているな、と感心した。ただ、それも束の間で、彼女ら羊の群れとひとくくりにされたことに無性に腹が立ったカナリアは、唇を尖らせるのだった。
(3)
「貴方、名前は何とおっしゃるの?」
出し抜けにそう尋ねられたとき、そんなことも知らずに、どうして自分をこんなところに連れて来たのだろう、と心底不思議に思った。
生徒会室は、冬の乾いた空気に似た静けさによって、閑散としており、資料が並んでいる戸棚からも、表彰状やトロフィーからも、どこか、言葉にし難い冷徹さが滲み出ているようであった。
今日は、生徒会役員は自分を除いて全員帰したらしい。そう、サヨが言っていた。
疑問を口にするのが先か、名乗るのが先か迷ったカナリアだったが、波風立ててもろくなことはないと判断し、テノールを響かせながら自分が好きではない、自分の名前を口にした。
「…カナリア・バックライトです」
「カナリア?」と意外そうに、サヨが聞き返してくる。予想通りの反応だ。「カナリアって、あの金糸雀?」
「さぁ、どうでしょう」
「ああ、気を悪くしないでね。ただ…、そう、日本人の血が混じっているとは思えない名前だなぁ、って思っただけなの」
「よく言われます」
カナリアとは、金の羽を持つ鳥だ。自分よりも、彼女にこそ、この名前は相応しい。
「黒目のくせに、生意気だと…」カナリアは、つまらない嫉妬に駆られて、皮肉を口にした。
「品格の劣る人間の言葉など、捨て置きなさい」
思いのほか、強く断言されて、わずかに呆気に取られたカナリア。そんな彼女に向けてサヨは微笑むと、立ったままのカナリアに片手を差し出して着席を勧めた。
長居するつもりはなかったので、最初はその提案を断ったが、強情なサヨに押されて、渋々腰を下ろす。
「足を怪我しているというのに、不思議な子。そんなに早く帰りたい?」
「まぁ、多少は…」
「正直でよろしい」とサヨは笑った。
「名前って、自分の自由にはならないから、難しいものね。私の『サヨ』っていう名前も、まるで日本人みたいでしょ?」
言われてみれば、確かにそうだ。だが、もちろん彼女からは、アジア系の香りは微塵も感じられない。
「父に聞いたら、ナイチンゲールの和名である、『小夜啼鳥』から取ったらしいのよ。父が親日家でね」
「…変わった方なんですね」
これは嫌味のつもりではなかった。ただ、『黒目』として日々蔑まれている自分が言うと、自然とそういう皮肉に聞こえたのだろう、サヨは困ったように口元を歪めると、「本当ね」と悲しそうに呟いた。
彼女がかすかでも悲嘆に暮れた表情をたたえているのを見ると、どうにも落ち着かない気分にさせられた。
美人とは、こういうときも得なものだ、と勝手に自分を納得させつつ、とにかく、話題を元に戻して、今の無意味なやり取りを忘れてもらおうとカナリアは考えた。
「それで、私の名前も知らないサヨさんが、一体何のようなんです?」
「もう、意地悪ね」
上品ににっこりと笑う彼女に、ほっとした気持ちになる。少なくとも、今のは冗談だと受け取ってもらえたようだ。
サヨは、ガサゴソと生徒会長の机に掛けてある鞄に手を突っ込んだ。
「用、というほどでもないの。ただ、落とし物が届いているだけで、それを返そうと思って…」
「落とし物?」
そんなもの、わざわざ呼び出さずとも、担任の教師にでも預ければいいのに。
呆れてそう考えていた矢先、カナリアは、サヨがおもむろに取り出した『落とし物』を見て、驚愕することとなった。
「はい、これ」
白魚のようなサヨの指先には、顔の上半分を隠せるよう、数少ないツテを頼って特注してもらったデザインの仮面が握られていた。
ひゅっ、と息を飲みながら、言葉を忘れた唇を懸命に動かすが、やはり上手く動かない。言葉を失った口は、往々にして無力だ。
「あら、何を驚いているの?」
コツコツと、足音を立てながらサヨは愉快そうに笑い、カナリアのそばに移動した。
「わ、私は知りません」ようやく絞り出した言葉に対し、サヨは小首を傾げた。
「どうして嘘を吐くの?安心して、壊した塀を弁償しろ、なんて言わないわ。あそこの塀はすっかり老朽化していたもの」
サヨは口を動かしながら、すっと、自然な動作でカナリアの足元に跪き、優しい手付きで包帯の上から足首をさすった。
「それよりも、そのせいでこんな怪我をさせたことのほうが大問題よ、ねぇ?きちんと謝ろうと考えていたのよ?」
「人違いじゃありませんか、塀?なんて、私、壊した覚えが――」
言い逃れを試みたカナリアの足首を、突然サヨが力を込めて、ぎゅっと握った。まるで予想していなかった痛みに、「いっ…!」とカナリアの口から呻き声が漏れる。
相変わらずの微笑を崩さないサヨは、ゆっくりと手から力を抜くと、今の行為を、まるでなかったことかのように扱って、続けた。
「私も馬鹿じゃないから、顔を見た相手のことぐらい、そんなに直ぐには忘れないわ。…あぁ、そうだ」
サヨは妙案だと言わんばかりに顔を明るくすると、手に持っていた仮面をカナリアの顔に流れるような動作で装着した。
「ほら、ぴったり」今までで一番嬉しそうな顔つきで、サヨが笑った。「これでも、まだ人違いだって言うのかしら?」
「わ、私は…」
どうしてバレたんだ、と顔を曇らせる。いくら顔を見ていても、月明かりとライトの光だけで、あの距離からはっきりと視認されるなんて…。
そこまで考えてから、ハッ、とカナリアは自分が小一時間ほど前に想像していたことを思い出した。
髪か。いや、瞳もかもしれない。なにはともあれ、黒髪黒目は、この国では目立つ。カツラでも被って、怪盗稼業に勤しむべきだったかと後悔したが、後の祭りだ。
「貴方が、怪盗『黒風』なんでしょう?髪も瞳も、真っ黒。あのとき見たのと同じ。夜闇よりも深く、濃い、あまりに美しいブラックダイヤ。見間違えるわけがないわ」
確信に満ちたサヨの眼差しから逃れる術がなくて、カナリアは瞳を忙しなく左右に動かし、なんとか気を落ち着けようとした。しかし、その努力も虚しく、功を奏さない。
当然だろう、彼女がすぐ目の前まで顔を寄せて、こちらの目を覗き込んでいたのだから。
サファイアの瞳が、カナリアの体を縫い止めるようにして見つめていた。かと思うと、サヨは何の前触れもなく体を離し、ぽんと、カナリアの膝の上に仮面を放った。
手にすれば、自分の物だと認めてしまうことになりはしないか、と判断に迷ったが、サヨが自信たっぷりな笑みを残し、背中を向けたことで、今更何に気をつけても無駄か、と思い直す。
握った仮面が確かに自分の物だと確信する、と同時に、サヨ・ベルベットの狙いは何なのかを考えた。
金、ではないことは間違いない。自分よりもサヨのほうが裕福な家庭であることは、その手入れの行き届いたブロンドのロングヘアからも、一目瞭然だ。
「警察に突き出すんですか」分からないなら、とりあえず聞いてみようの精神で尋ねる。
「警察?まさか!」
何がおかしいのか、コロコロ笑ったサヨは、自分の席にゆったりと腰を下ろした。
彼女の青い瞳が、きらりと妖しく光る。何かを企んでいるのは、確かのようだ。
「そのつもりなら、初めからそうしてると思わない?」
「じゃあ、なんで…」
相手の意図が全く把握できず、気付けば自然とそう口にしていた。
その言葉に、待っていましたと言わんばかりにサヨは佇まいを正し、一度咳払いをしてから、目を閉じ、椅子の背もたれに深くもたれかかった。
ぎしり、と音が鳴る。それを合図にしたかのように、彼女が数秒の沈黙を生み出す。時間が止まったみたいだ、と錯覚する。
やがて、ぱちりと目を開いたサヨは、背もたれから体を離し、両手の指を重ねて前のめりになると、その隙間からこちらを覗きながら言い放った。
「頼みがあるの。とっても、大事な頼みよ」
深刻さは、言われずとも伝わってきていた。真剣な口調から、そのぐらいは察せられる。
「聞いてくれる?」と内容を教える前からそう尋ねたので、軽く首を振って、「話を聞くまでは、答えられません」と返事をした。
「それもそうね、ごめんなさい」
素直に謝ったサヨは、苦笑いを浮かべたまま、同じ姿勢で一度天井を見上げた。それから、決心がついたかのように瞳に力をみなぎらせると、はっきりとしたアクセントで、ゆっくり丁寧に言った。
「私の家から、盗んでほしいものがあるの」
「え?」と反射的に口にした。「あ、貴方の家から、ですか?」
どうして、という言葉を口にするよりも早く、サヨは、「理由は聞かないで、答えられないから」と説明する。
…いや、説明にはなっていないか。
「一体、その盗んでほしいという品物は何なんですか?」
「それは、貴方が依頼を受けてくれるというなら教えるわ」
「無茶だ」思わず、呆れと苛立ちに染まったため息を吐いてしまう。「中身も分からず、そんな頼みを引き受けられるわけがない」
「では、どうするの?」
「どうするって…。もしも、私がこの件を受けなかったら、どうなるんですか」
にこり、とサヨが微笑む。微笑む、というのは些か傲慢な気配を感じるものではあった。
「もちろん、貴方を通報するだけよ?」
絡めていた指先を離し、頬の横に揃えて小首を傾げた彼女は、平然とした様子でカナリアを脅してみせた。
「どのみち…、私に選択肢なんて初めからないんじゃないですか…!」
サヨはカナリアの鋭い視線にも、ただ曖昧に笑うだけで、何もきちんとした答えを口にしようとはしなかった。
相手を射殺すように睨みつける傍ら、カナリアの頭の中には、バックライト孤児院の子どもたち、年老いたシスターの顔が浮かんだ。
…ここで、私が斃れては、孤児院は終わりだ。
清廉潔白なシスターは、私が『黒風』として送りつけた資金にはまるで手を出そうとはしないし、小遣い稼ぎをして手に入れた、と言って渡す金銭も、みんなの将来のためにと溜め込むばかりで、ろくに使おうとしない。
世の中は、そんな気高さだけでは生きてはいけないのに。
私を黒目と呼んで罵る奴らも、孤児院出身者を不当に見下し、まともな教育も受けさせようとしない社会も、スラムの店先に並んでいる食料ほどに腐っている。
わずかな逡巡の後に、カナリアは顔を上げた。
「分かりました。ですが、タダ働きというのでは、あんまりです」
「ふぅん、というと?」
「報酬を」
「いくら?」
カナリアは素早く思考を切り替えて、自分が失敗して捕まっても、しばらくは孤児院が安泰でいられる金額を提示した。もちろん、前払いで半分は頂くとも伝えた。
そこそこ無理を言ったつもりの値段だったのに、サヨは躊躇なく頷いた。そして、近々孤児院宛に寄付金として送る、とこちらの事情を把握しているかのように告げた。
いや、きっと、彼女なりにすでに下調べしているのだろう。つまり、この場を上手く逃げおおせたとしても、意味はないということだ。
カナリアがサヨの提案を飲むと、彼女は穏やかな顔つきで、「契約成立ね」と微笑んだ。
契約もなにもない気がしたが、今更それを言っても仕方がない。
とにかく、失敗しないことと、盗みを成功させた後に、サヨがどう私を扱っても問題のないようにしておかなければならない。
盗人を使役しておいて、それでさようなら、などと簡単に済ませてもらえるとは思えないからだ。
「では、教えてください。貴方の家から盗んでほしいものとは、一体何なんですか?」
「ええ、分かりました」
サヨは、それから直ぐには問いに答えず、もったいぶった様子で、ゆったりとカナリアの座っているそばに移動してきた。
上から見下ろしてくる、紺碧の海を模した、深い青の瞳。
どこまでも続いていて、底がない、そんな印象を受ける。
深く、暗い海の底で、何かが蠢いた。
「我がベルベット家から、盗み出して欲しいもの、それは…」
「それは?」気がはやってしまい、催促するように繰り返してしまう。
「――サヨ・ベルベット、私自身です」
(4)
ボロボロになった木製の扉を押し開けながら、重い足取りでカナリアは我が家でもあり、孤児院でもある建物の中に入った。
ドアにベルは付いていないが、中に人が入ってきたことは容易に分かる。蝶番の軋む音が、あまりにうるさくて、建物中に響き渡るのだ。
一応、祈りを捧げる場所となっている、小さな礼拝所を抜け、左に曲がる。すると、すぐに中から良い匂いが漂ってきた。
「ただいま」とカナリアが呟く。
鍋の中を覗き込んでいた老シスターが、深く皺の刻まれた顔を上げ、笑顔になって返事をした。
「あら、おかえり。遅かったのね、カナリア」
「色々あってね」とバックを、近くのツギハギだらけのソファに放り投げて、「手伝うよ」と腕をまくった。
さっとご飯の準備を済ませる。今日は、鶏肉のシチューだった。ただし、肉は全体の2パーセント程度の量しか入っていないし、人参やじゃがいもも同様だった。一番多いのは、きっと水だ。
どうやら子どもたちは、夕暮れが迫ってきているにも関わらず、まだ庭で遊んでいるらしい。まともな遊具は無いが、広さだけには恵まれたバックライト孤児院だった。
食卓へと運ぶ途中、床の木板が、両端が盛り上がるようにして、破損しているのを見つけた。
またか。どうせ、悪ガキ共がボールでも落としたのだろう。
ここはまだ壊れていなかったはずだ、と改めて周囲を見渡すと、床に限らず、壁も天井も穴だらけ傷だらけだ。
どう見ても、もうガタがきてしまっている。
「ねぇ、シスター」
「はい?」とのんびりとした声を上げてこちらを向く彼女に、呆れに近い感情を覚え、カナリアは肩を竦める。
「いい加減、修繕したほうがいいんじゃない?あそこも、ここも、また新しく穴が空いてるよ」
「あらぁ、本当ね」
「あらぁ、じゃなくて…」
「でもね、カナリア。分かっているとは思うけれど、うちにはそんな余裕はないのよ…」
急に眉毛を下げて、申し訳無さそうな様子で言ったシスターは、いつの間にかシチューを並べ終えた様子だった。
もう随分高齢になるはずだが、未だに動きの衰えはないようで安心する。だが、この貧乏生活が高齢の体にこたえない、ということはありえない話のはずだ。
「あのさ、やっぱり、あのお金使ったら?」
「駄目、あれは使ってはいけないの」
慈悲深い顔をして、首を左右に振るシスター。
「何で?別にいいじゃん。怪盗『黒風』って、違法ギリギリの手段で私腹を肥やした連中からしか、盗みはしてないんだよ?」
相変わらず、風のない湖面のように穏やかなシスターの表情が、どことなく、カナリアの気に障る。
「怪盗がやってることはさ、連中から不当に搾取されてきた私たちの、立派な代弁行為なんだと思う。奪えば奪われるんだってこと」
自分の正当性を語るようで、さすがに子どもっぽいかと思ったが、それでも、怪盗が――私がやっていることは、正しいのだと信じている。
一つ、冷静になるためにため息を吐いて、シスターから顔を背けつつ、独り言のように続ける。
「命を奪われないだけ、私たちよりマシだけど…」
シスターはそんなカナリアのほうへ、静かに寄ってくると、説き伏せるように言った。
「それでもねぇ、あのお金はやっぱり正しいお金ではないんだよ。それを分かっていて、自分たちの生活のために使うなんてこと、私には出来ないの」
「みんなのため、だよ。栄養のある食事を用意できれば、ガキ共だって、健康な体を手に入れられる。貧乏だからって、うちを、馬鹿にされることもなくなるはず…」
「馬鹿にされたのかい?」
「…別にたいしたことじゃない。黒目だなんだって、クラスメイトが絡んできたから、ライム野郎って脅し返してやった」
「そんな情けないことを、誇らしげに言わないの」
「…そんなつもり、ないし」
カナリアは、シスターのこうした清廉さをとても愛していたし、尊敬もしていたが、ある程度大きくなった今、そういう形のないものだけでは、生きていけないことも学んでいた。
――やっぱり、私がなんとかしなければ。
幸い、前金だけでも結構な額を頂ける。もしも、私が失敗したとしても、そう直ぐに孤児院も潰れたりはしないだろう。
未だに、ワケの分からない頼みをしてきたサヨの目的ははっきりとしていないが、どのみちもうやるしかない。やるしかないのだ。
「ちょっと、カナリア、どこに行くんだい?ご飯はもうすぐだよ」
「うん、直ぐに戻るよ」と言いながら、カナリアは自分の部屋へと足を向ける。ボロボロの孤児院だが、部屋数だけは多い。
部屋を出る途中、ぴたりと足を止めて、シスターのほうを振り返ったカナリアは、不安と期待の入り混じった顔で尋ねた。
「ねぇ、シスターは怪盗『黒風』のやっていることって、間違ってると思う?」
「さあて、それは私が決めることではないね。もちろん、貴方が欲しい言葉を与えることは出来るけど、それで、意味はあると思うかい?」
質問に質問で返すなよ、と苛立ち混じりで自室に向かったカナリアは、中に入るや否や、直ぐに白い紙を用意し、その上に、文字を書き込み始めた。
カナリアの背後に掛かっているコートと、ポーチは、あの夜使ったものだった。その中にはまだ、例の宝石が残っている。早く、闇市場で換金してこなければならない。
すらすらと、紙の上を、インクが滑る。
怪盗稼業を始めたときから、こういう時が来るのではないか、と考えたことがないわけではなかった。
――『明日の夜、二十三の鐘が鳴るとき、ベルベット家の至宝、『サヨ・ベルベット』を頂戴に参ります』 怪盗『黒風』より
(5)
カナリアは、ベルベット邸に出向いてすぐ、屋敷の主人の顔を見たとき、思わず絶句してしまった。
「こんにちは、話は聞いているよ」
野太い声でそう告げた男の顔に、カナリアははっきりと見覚えがあった。
「ど、どうも。ベルベットさん」
「さあ、上がってくれ。娘も上で待っているから」
サー・ベルベット。彼は、この町の警察組織のトップに名を連ねる男だった。名前もろくに知らない男だったが、追いかけ回されるうちに、何となく顔は覚えてしまっていた。
凛々しい眉毛と口ひげ、サヨは母親譲りなのか、彼は茶色の髪だった。
道中、彼はまさか自分が怪盗『黒風』に狙われる側となるとは、思いもしなかったと明るく話していた。しかも、予告状まで出してくるなんて、初めてのケースだとも目を丸くして言った。
どうやら彼は、未だに半信半疑ではあるらしい。今までの怪盗のやり方とは、大きく今回は外れていたからだろう。
豪華な内装の各部屋を何度か通り抜けているうちに、サー・ベルベットが、「ここが娘の部屋だ」と手を差し出して教えてくれた。
「ありがとうございます」
「お礼なんていい。今夜中娘のそばにいてくれる、という君の優しさに感謝を」
そう言って片目をつぶったベルベットは、去り際に、「やはり、日本人の義理堅さは見習うべきものがあるな」と告げていった。
あぁ、そういえば、サヨの父親は親日家なんだったな、と思い出しながら、肩を竦める。
申し訳ないが、義理人情など私にはない。
他人を思いやる優しさや、義理堅さは、日本人という血に宿るのではなく、裕福さという心の余裕に宿るものなのだ。
それを知らない、貴方が悪い。
そんなことを考えながら、部屋の扉をノックする。
「どうぞ」と普段と変わらない声が中から聞こえてきたのを確認してから、扉を開けた。
「あら、いらっしゃい」
白いドレスに身を包んだサヨを無視して、窓際に近寄る。そこからは、小さなバルコニーと、崩れたままの塀が見えた。
「…警察の人間だったなんて、聞いてませんけど」
「それは、言ってない私が悪いの?それとも、怪盗なんてしてるくせに、知らないカナリア?」
チッ、とわざと聞こえるように舌を鳴らし、荷物を下ろす。
結局、サヨと話し合って出した結論は、先に中に入ってしまうというものだった。
幸い、攫われる人間が協力的なので、どれだけでも作戦の練りようはあるし、嘘の吐きようもある。
それに加え、学校が同じなのも、プラスに働いた。おかげで怪しまれることはない。
そうして二人は、夜が来るのを待った。食事も、風呂も、厳重な警戒の元で行われた。
時刻はすでに二十二時。後一時間もすれば、サヨはベルベット家から消えてなくなる。もちろん、自分の意思で。
計画は簡単だった。時間になれば、外に向けて爆竹でも放り投げて、注意を一瞬だけ逸らし、その後、私が大きな声でサヨが攫われたことを周囲に知らせる。
おそらく、警備の人間が部屋に飛び込んでくるだろうが、その間、サヨにはベッドの下にでも隠れてもらっておいて、私は、壊れた塀の向こうを指差す…。
それで、警備の人間は軒並み敷地の外に出ていくだろう。わざわざ家の中を探す馬鹿はいない。
それから、少しだけ時間を遅らせて、私たちは反対側から敷地の外に出る、という算段だった。
うん、イレギュラーは起こるかもしれないが、ある程度はまとまった計画だ。
しかし、それを実践する前に、カナリアにはやっておかなければならないことがあった。
「サヨ・ベルベット」彼女の名前を静かに呼ぶ。
「え、なに?急にどうしたの?」
呑気に読書に耽っている彼女を見て、緊張しないのかと不思議になる。
「貴方は、どうして攫ってほしいなんて頼んだの」
頭の中はもう、一生徒と生徒会長ではなく、怪盗『黒風』として、サヨに接していた。
「…言わなきゃ、駄目?」
「私が知っておきたいだけ。もう一時間もすれば、本当に戻れなくなる。その前に、気持ちの整理はつけておきたい」
「そんなもの、とっくについているわ」
「貴方のだけではない。私のだって、そう。迷いや疑問があると、動きが鈍って、ミスの可能性が上がる」
その発言を受けて、さすがに言い返せなくなったのか、サヨは少しだけ考え込む素振りを見せてから、独り言のように言った。
「私ね、このままじゃ、卒業と同時に結婚させられるの」
「結婚?」カナリアは眉をひそめた。「卒業と同時って…、もう数ヶ月もないよね」
「そう。親が金と血筋だけで決めた、顔も知らない許嫁。そんなものに、身も心も捧げろと言うのよ、ぞっとしないでしょう?」
確かに同じうら若き身としては、同情を禁じ得ない話だ。しかし、そんな話、上流階級であれば掃いて捨てるほどあるだろうし、なにより、餓死の恐怖にのたうちまわっている、貧困層の悩みに比べれば贅沢な悩みだ。
それを口にすると、サヨは、ここにきて初めて、怒りを露わにした。
「勝手なこと言わないでよ、何も知らないくせに」
「それはそうかもしれない。だけど、そんな理由で、アテのない生活をするなんて馬鹿げてる。どのみち体を売るハメになる」
「…だったら、どうしろって言うの…」
「今は知らない相手でも、いつかは好きになれるかもしれない…んじゃないの?ごめん、恋愛に関しては、その、全く分からないけど」
「好きになんて、一生ならないわ」自嘲するような笑みと共に、サヨが告げる。「どうして?なぜそう言い切れる」
不意の沈黙。明らかに、彼女が言いたくない何かを黙っているのは分かった。それを無理やり引きずり出すわけにもいかず、カナリアが、気まずい沈黙に耐えていると、とうとう彼女のほうから口火を切った。
「私…、女の人が好きなの」
「え?」間抜けな声を出してしまう。「女性が、女性を?」
「どうせ、貴方も変だって思うんでしょうね…!でもね、しょうがないのよ、そう生まれてきちゃったんだから、どうすることも出来ないのよ」
追い詰められるような彼女の口調から、自分では想像のしようもなかった悲しみが感じられて、思わず、カナリアは息を呑んだ。
だが、だからといって何も言わずにいると、サヨが恐れている偏見を、こちらが抱いているように思われるような気がして、慌てて言葉を紡ぐ。
「あ、いや、ごめん。さっきも言ったけど、私は恋愛に疎くて、驚いてしまっただけ。色眼鏡で見るつもりはないんだ。ほら、私だって、怪盗なんてやってる、いわゆる変人なわけだし」
「…同情なんて、いいわ。貴方は、仕事さえしてくれれば」
「待って、同情なんかじゃない。その…、同性愛が正しいかどうかは、私にはよく分からないけれど、少なくとも、生まれ持ったもので差別される世界は、間違っていると思う」
「貴方…。あぁ、そうね。貴方は、日本人だものね」
「どんな血が流れていようと、男が好きだろうと、女が好きだろうと。人はそんな目に見えない何かのために、分け隔てられるべきではない、と私は考えた。そう、今、サヨの話を聞いて、思った」
「…不思議な人ね。カナリア・バックライト。貴方、本当に怪盗なの?まるで政治家か、宗教家みたい」
「怪盗だよ。そもそも私は、富めるもの、貧しきもの、っていう壁を少しでも低くするために、こんな怪盗稼業をしているんだからさ」
すぐに、どちらからともなく小さく笑い出した。理由はよく自分でも分からなかったが、シスターが言葉にはしなかった何かを、今サヨを通して知ることが出来た気がしたのだ。
月の光が明るくなったことで、刻限が近いのを悟る。
「サヨ・ベルベット」
改まって、カナリアはサヨの名前を呼んだ。
「はい」
どうやらサヨの中でも、攫われるものとしての覚悟が決まったようだ。
「貴方の選択は、きっと今よりも貧しい生活に身を落とすこととなる。それでも、いいんだね?」
「ええ、私は裕福さより、魂の自由を選ぶ。それだけよ」
サファイアの瞳が、大きな渦を巻いて私を見ていた。
なるほど、彼女なら、多少の貧しさの中でも美しく、気品を落とすことなく生きられるかもしれない。…例えば、バックライト孤児院みたいな。
それを知って、ほんの少しだけ安心した自分が不思議だった。どうして、彼女を心配したのだろうか。
その答えが出る前から、カナリアはすっと手を差し伸べていた。どうせ、また離すのに、意味のないことをしてしまっている。
「分かった。それでは貴方を攫っていくことにする。サヨ・ベルベット。それはそうと、外に出たら、行く宛はあるの?」
現実に引き戻した途端、サヨの表情は暗くなったが、すぐにその毅然さを取り戻し、「何とかするわ」と答える。
こくり、と頷き、どうしても我慢できなかった提案をカナリアは口にした。
「それなら、良い物件がある。ボロボロで、床板も割れまくってるし、悪ガキとシスターとシェアハウスだし、おまけに怪盗の隠れ家になっているような孤児院なんだけど…、まぁ、家賃は割安かな。サヨさえ良ければ、案内するけど…?」
自分で言っていて、何だか恥ずかしくなってきた。
だってこれは、一緒に暮らさないか、と言っているようなものだし…。
顔の熱は、直後にサヨが発した返答を聞いて、さらに上昇した。
「それは素敵。ねぇ、怪盗さん、私をそこに連れて行ってくれるかしら?」
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