2009年ゴールデンウイーク始末記Ⅱ
いつの間にか雨は本降りになっていた。一度実家に戻って親父に伯母から預かった日田の土産を渡し、5人で食卓を囲んで昼飯を食べている最中、嫁が幸夫叔父の話題を口にしてしまい、親父は臆面もなく熱く喋り出す。内容は伯母の言った通りだった。親父は、幸夫叔父に取った行為がさも当然の如く、正当化する。
大野の本家の叔母も、中野の伯母もお袋に掛ける親父の愛情らしきものが度を超えてるんじゃないかと俺に零していた。そして誰であっても、たとえそれが血を分けた子供・兄弟であっても、お袋を蔑ろにする者に親父は容赦しない。自分の余生は、パーキンソン病に侵されたお袋を擁護して生きることと思い込んでいるふしが見受けられた。
俺は今回の帰郷で、親父のお袋への言葉遣いに言い知れぬ違和感を感じていた。まるで、まだ自我の形成ができていない小さい子に供喋り掛けているようだ。寝床に就くときなど、「母さんや、はよぉこっちに来い。そろそろ寝ようかね」などと猫撫で声を出している。
――いくら病気のお袋が居た堪れなかったとしてもやっぱり親父はおかしい。そして、俺はまた親父の尻拭いじゃ。
俺は親父に悟られないように佐世保の幸夫叔父の家に電話した。電話には長男が出て、夫婦で宝泉寺温泉の別荘に行っているとのこと。携帯も教えて貰って掛けたが、不通だった。
「そんなら中野に長坂(猪町の隣町の江迎町の一地区)の伯母にも届けてくれるように頼まれたけん行ってくるわ」
雨が降っていて嫌気が差したんだろう、嫁は残ると言うのでちゃん(俺が勝手に付けた息子のニックネーム)と二人、長坂に向かう。長坂に行くのはほんと久しぶりだ。今はもう伐採されてないが、まだちゃんが小学校に上がる前、長坂にはビワの木が二本あって、家族三人でお邪魔して琵琶を腹いっぱい食ったのを思い出す。
長坂の伯父・伯母は、大阪府警を定年退職して長男が帰郷してきたので、母屋の一段上に建つ古い家に夫婦二人で住んでいる。久しぶりに訪ねたんで家が分からず雨の中右往左往してしまったが、何か事件があったようで、公民館には車が居並び、村の青年団が物々しく動き回っていた。
居なくなった村の住人をみんなで探しに軽トラックで出ようとする長男を、ちょうど伯母が見送りに出ていて助かった。俺は中野の伯母から預かった日田の土産を渡して今回のお礼を述べた。相当耳が遠くなっている義理の伯父に比べて、伯母は5月で米寿を迎えようというのに元気そのものだ。腰が痛いとは言っていたが、俺のお袋のことを思うと羨ましくて堪らない。
伯母は懐かしい団子を出してくれた。かから団子だ。俺は病気で甘い物が食えないのでちゃんに食べて貰う。ちゃんは団子がかからの葉から剥がれず四苦八苦する。このかから団子、猪町に住んでいた幼い頃の御馳走で、ずいぶん昔に亡くなった船ノ村の母方の祖母がよく作ってくれていた。早く食べたくてわくわくしながら、従姉妹と野原の小道脇に自生するかからの葉を摘みに行ったものだ。お袋は作ったことはない。だから、店で買わず家庭で作ったかから団子を見たのは数十年ぶりだ。
朝実家に着いたとき次男には電話を入れていた。昨日対馬から戻って実家に顔を出し、買い物に付き合ってくれたとのこと。親父が言うには今日は娘を迎えに博多まで行くそうだ。俺の電話に、夕方また実家に出て行くと答えてくれた。三男にも電話を入れたが、不通だった。折り返し電話があり、今日は娘の部活の試合で送迎せねばならず、時間的に無理があると言ってきた。
今までの俺だったら、どうせどうでもいい奴のことと、「ならいいわ」とすぐ割り切っていたところだが、老い先短い両親のためだ、兄弟の和やかな団欒を目に焼き付けさせてやるのが一番の親孝行だと俺は悟っていた。
「無理は言わんわ。ほいでも俺らが実家に集まって仲良くするんが最大の親父とお袋への親孝行やと俺は思うんじゃ。1時間でもええ、出てこいや。待っとるぜ」
「分かった兄ちゃん、考えるわ」
「そいから親父どうも頭がおかしいぞ。中野の婆さんと縁切るとか言い出したぞ」
「えっほんとや」
「あぁそいやけんおめぇも俺と一緒に親父の愚痴ようと聞いてやれや」
「分かった。また電話する」
長坂から帰って、お袋が包丁の切れが悪いというので、両親を実家の自家用車のギャランに乗せて、隣町の江迎町に新しくできたナフコに包丁を買いに連れて行ってやった。車を降りて、ちゃんが健気にお袋の手を引いてやり親父が感動する。ちゃんは今月修学旅行に行く予定だが、親父が手を引いてくれたお礼だと何と小遣いを1万5千円もくれた。その後、この辺で唯一のスーパーまつばやでもちゃんは店内でお袋の手を引いてやっていた。
「親父、今日は俺とやっくり(嫁のニックネーム)が晩飯作ってやるわ」と俺流のすき焼き作りに取り掛かる。ホットプレートを使ったすき焼きが不味く感じだしたので編み出したやり方だ。自宅では中華鍋を使うんだが、無いので、フライパンで牛肉を炒めて鍋に入れ、もやし、椎茸、えのきと順に炒めてまた鍋に入れ、白菜をたっぷり被せてすき焼きの素をジャブジャブ振り掛けて蓋を閉め、蒸らせばでき上がり。
佐世保総合病院を退院してきてから、連日ヘルパーが作ってくれる晩飯を夫婦二人で淋しく食っていたら気も滅入るというものだ。今晩の親父は上機嫌だった。いつも親子三人で実家に帰ってくるのは俺らくらいだ。賑やかな食卓に親父の気持も晴れる。どこの爺さんでもそうだろうが、この歳になれば毎日の晩酌がささやかな楽しみだ。これも車の運転とともに医者に止められている。
親父は俺の作ってやったすき焼きに目を落して、「今日くらい酒飲んでもええよな」
「おう親父呑め呑め!」
「今日は俺が居るけんまた脳梗塞でぶっ倒れたら30分以内の超高速で総合病院に運びこんでやるわ。安心して呑めや。ばって二杯くらいにしとってや」
親父の嬉しそうな顔。この顔を見るためにノンストップの12時間で1000キロ、飛騨高山から帰って来た。
晩飯を終えて俺の携帯に幸夫叔父から電話が掛かってきた。俺は開口一番親父の失礼な行為を詫びる。幸夫叔父は、「心配せんでも全然気にしとらん。あの日は兄貴の虫の居所が悪かったんやろうと割りきっとる。まぁ時が経てばほとぼりも冷めるやろ」
俺は幸夫叔父と久しく会ってない。まだパーキンソン病の前兆が出ていなかったお袋から、目を患ってよろけてしまったと聞いていたが、伯父貴の口調は壮年期と変わらず驚くほどしっかりしていて声にも張りがあった。
――幸夫叔父は義理の兄弟の俺の親父を兄貴って呼ぶんか。今まで知らんやったぞ。
「ほんとにすいません。ところで叔父貴がうちに来てくれたんはいつですか?」
「ええとあれは正月やったかいの」
「えっ、正月ですか?」
私は思わず聞き直してしまった。正月だったら親父の頭は正常の筈だ。あんな突飛な行動を取るほどお袋を馬鹿にされたと思ったのか?
親父はお袋と年が離れている幸夫叔父を弟のようにかわいがっていて、俺が物心ついたとき、幸夫叔父は佐賀大生だった。叔父貴はその頃知り合った佐賀の短大生の叔母と結婚した。叔父貴は結婚前に俺ら家族を佐世保に呼んで、婚約者の叔母を紹介してくれるほど律儀な人間だ。二人だけの甘い新婚生活の空間にも俺ら家族を招待してくれた。それほど親しかった。親父は、幸夫叔父が家を建てるので金を貸してくれと頼って来たとき、二つ返事で用立ててやったとも言っていた。
「ほんなら叔父貴、もしかしたら4月の初めに親父が脳梗塞で倒れたん知らんのやないと?」
「えっ脳梗塞で倒れた?」
俺は釈然としなかった。今までの親交は何だったのか。親父を親しみを込めて兄貴と呼ぶ、もう70歳に近い叔父貴が親父が脳梗塞で倒れたことも知らない。これこそ恥ずべきことではないのか。せっかくの見舞いを追い払われたことを親父の一時の気の迷いと捉えた叔父貴は一体何だ。時が解決するさと高を括り、放っておいたことは叔父貴の不徳じゃないのか。
全然気にしとらんではなく、相当気にしとるが本当じゃないのか。大いに気にしていたら、また叔母に手を引かれても再度親父を訪ねて誤解を解くべきではなかったのか。俺には幸夫叔父夫婦が兄貴夫婦のことなんかどうでもいいやと思っていたとしか考えられない。
俺は最後に幸夫叔父に救いの手を差し伸べる。幸夫叔父が親父のことを真剣に憂えているのなら乗ってくるだろう。そのまま何事もなかったように親父を訪ねても間違いなく玄関払だ。というより、もう二度と叔父貴は実家の敷居を跨ぐつもりがないような気がしてならない。
「叔父貴、もしまた猪町に来るつもりなら俺に電話してぇや。俺が親父との仲取り持つけ」
幸夫叔父からの電話の後、三男から携帯に電話が掛かってきた。
「兄ちゃん遅うなるかもしれんけど出て行くわ」
「おうそうか。待っとるわ」
「賢ちゃんにも電話したばってん通じんやった」
「あぁ、俺には電話掛かってきたぜ。今日は来れんけど明日の午前中に来るち言よったぞ」
「兄ちゃんすまん。俺は明日は無理や…」
「あぁ分かっとる。気にせんでええわ」
早速親父に報告すると、「そうかそうか哲が来るとか」と本当に嬉しそうだった。
俺がこの5日間という短いゴールデンウイーク中に信州から無理をしてでも猪町に帰郷したのにはもう一つ理由があった。親父の愚痴を聞くためだ。兄弟三人揃って聞いてやるのが一番良いのだろうが、そうもいかない。それぞれの家庭の事情も有るだろうから。