2009年ゴールデンウイーク始末記Ⅰ
このゴールデンウイークの記事もちゃんと書いていたのだが、ヤフーの本ブログを間違って消去してしまったために写真と記憶で補完する。この2009年ゴールデンウイーク、俺の連休は2日から6日までの5連休だったようだ。撮った写真の日付で分かる。
俺ら家族は宿を取らずに車中泊で信州松本を目指した。行きは中央道-長野自動車道で松本へ。そこから国道158号線の絶景を楽しみながら岐阜の飛騨高山に移動して、東海北陸道-名神-山陽道-九州道で猪町に帰郷する計画だ。
国道158号線は日本屈指の山岳国道で、アップダウンの激しい飛騨の大動脈だ。飛騨高山までは145キロあるが、平成の大合併で通る自治体は松本市と高山市だけだ。今のところ、完全なる観光道路になっているようだ。沿線には上高地・乗鞍高原・白骨温泉・奥飛騨温泉郷など著名な観光地が並ぶ。寄りもしないのに、彼の有名な上高地の看板が見えたときは我ながら感動した。
身体が汗臭かったので、松本の湯の華銭湯瑞祥の家族湯で一風呂浴びた。家族風呂には信楽焼のつぼ湯と檜風呂があった。どうして信州松本かと言ったら、現存天守の松本城を見てみたかったからだ。天守が国宝指定されている残り4城の内、彦根城、姫路城、犬山城には行った。松江城は山陰だからいつでも行ける。あと国宝ではないが、現存12天守の丸岡城には行った。さすが国宝松本城、ゴールデンウイーク中の人出は半端なかった。勿論、城内には入った。
飛騨高山には長居できなかった。もう一度歩いてみたかった古い町並みも車から眺めただけだ。東海北陸自動車道-中部縦貫道「高山西インター」を降りて直ぐの「道の駅ななもり清見」で猪町へのお土産を仕入れて高速に乗った。昨日と今日で総走行距離2千キロ以上、嫁と交代しながら睡眠を取って一気に走り抜けた。
猪町に着いたのは朝8時頃、実家への登り口にあるファミマで朝飯を買って実家へ。親父とお袋はもう起きていた。年寄り犬の五郎が嬉しそうに尻尾を振って俺ら家族を出迎えてくれる。息子のちゃんは五郎の一番の親友だ。
今回、親父が脳梗塞から順調に回復できたのは親戚の助力の賜だ。だから、俺は長男として意地でも里帰りして親戚へのお礼参りをする必要があった。大野(猪町町の一地区)の本家の叔父叔母、中野(猪町町の一地区)の叔母、長坂(隣町の江迎町の一地区)の伯父伯母、そして、次男・三男。
この前退院したときの電話では、喋りは元に戻っていたが、やはり後遺症が残っていた。パーキンソン病のお袋のようにひょこひょこと歩く。身体の自由が利かないせいか、家の中が結構散らかっていた。綺麗好きの親父には考えられないことだ。
親父は冗談で、「俺も母さんと同じ病気になってしもうたわ」と笑っていたが、俺は痛々しくて見てられない。その不自由な足で、盆帰ってくる息子たちのために例年作るスイカの苗を3株畑に植えてくれていた。
親父とテーブルを囲んで、「俺信州に行ってきたんや。土産買うてきたけん今から本家と中野にお礼方々行ってくるわ」と告げると凄い剣幕で、「中野にゃ行く必要なか。もう絶縁じゃ!」
俺は私は耳を疑う。「おっさんどげんしたとや。中野の婆さんは親父の姉貴やねぇか」
「姉貴でん関係なか。深月(隣町の江迎町にある地区で親父の従兄が居る)でまともに字も書っきえん(書けない)って俺を馬鹿にしたと。いくら姉貴でも言うて良かことと悪かことのあるとやなかと…」
言葉尻の方は俺に同意を求めるような言い方する。
親父は一族の長男として親類の和を何よりも大切にしてきた筈だ。親父らしくない。頭がおかしくなったのか。
「おっさんほんとに縁切るとや。今回幸太郎(中野の伯母の息子で俺の六つ上)には相当世話になったろもん。幸太郎とも縁切らないかんぞ」
「あぁそうなる」
「分かった。親父がそこまで言うなら俺はもう何も言わん。そんなら本家に行って来るわ」
俺は土産の飛騨そばを取り出して本家に行く準備にゆっくり取り掛かる。俺がまさに出て行こうとしたそのとき、親父は考え直したのか、「せっかく土産買うてきたんやけん中野にも行って来い」
「おう分かったわ」と俺は二つ返事で応え、家族3人、親父のギャランで数百メートルしか離れていない本家へ。
ゴールデンウイーク中はずっと晴天に恵まれていたが、朝方からぽつぽつと雨が降り出した。俺は本家で聞きたいことがあった。親父の言うことは本当のことなのか?
午前中だったので叔父叔母は家に居た。今回一番世話になったのは叔父夫婦だ。親父の無理も聞いて貰った。脳梗塞は3時間以内に治療に掛かるかどうかで後の後遺症に影響する。親父が倒れたのは入浴中だった。まだお袋がそこまで惚けてなかったのですぐ電話で叔父に知らせたようだ。知らせを受けた叔父が飛んできて佐世保の総合病院に担ぎ込んでくれた。
「おんちゃん、このたびは色々とお世話になりました。これからもお世話にならないかんことがあるち思いますがよろしくお願いします。信州行ってきたんでそば買うて来ました」とまずお礼の挨拶から入る。
叔父は、「いやいや、兄弟やけんお互い様ってことよ。わざわざ土産まで貰うてありがとう」
叔母は、「(俺たちが)帰って来ておとさんたち喜んどらしたろ(喜んでいただろう)。貢(みつぎ。叔父の長男)はまたタイに行ってしもうて簡単には帰ってこれんごとなったせんね」
「そいは親父から聞いとります」
叔母が出してくれた茶を一啜りして、俺は本題を切りだす。
「ところで、親父が中野の伯母さんに字も書っきえんって馬鹿にされたけんもう縁切るって騒ぎよるんやけどそげなことあったんですか?」
叔母は、「まだ兄さんそんな馬鹿なこと言いいよらすとね。それは随分前のことなんよ。中野の姉さんも悪気で言うてないってことは兄さんも当時は分かっとらしたとよ。脳梗塞になってから急にそがん(そう)言い出したとたい。昔の事が今頭にきよらす(頭にくる)とよ」
俺はたまげた。脳梗塞とはそんなやっかいな病気なのか!
あと、老犬五郎の事とか俺の兄弟の確執の事とか語り合って本家を後にする。
次は中野の伯母の家に向かった。出迎えてくれたのは幸太郎の嫁さん。嫁さんは本家に行っている伯母と従兄の幸太郎を呼びに行ってくれた。
中野の伯母にも飛騨そばを土産に渡した。叔母はもう83歳だが元気だ。幸太郎の嫁さんは俺らに暇乞いをしてゴールデンウイーク期間中の恒例になっている有田の陶器市に出掛けた。幸太郎夫妻には子供が無く、奥さんの趣味の鑑賞用の水槽が玄関の上がり口に飾ってある。中にはメダカも泳いでいる。
叔母も先日九州の日田に老人会の旅行で行ったようで、俺らが旅行してきた飛騨を日田と勘違いしたようで大笑いだ。今回の親父の脳梗塞では中野には相当世話になってしまった。パーキンソン病のお袋は介護が必要なので、親父が総合病院に担ぎ込まれてからの数日間、幸太郎には本家の叔母と代わる代わるお袋を見て貰った。
親父が倒れて3日して兄弟3人が集り、お袋を20日間(その間に親父は何とか退院できるだろうという目算のもと)田平の老人施設に入れることにした。親父は退院した翌日、お袋を手元に戻した。まだ脳梗塞からの回復が十分じゃないからもう少し預かって貰っていたらと言う親戚の言葉を振り切って。中野の伯母は親父の脳梗塞がお袋の介護疲れから来たんじゃないかと言っていたし、このままだったらまた重大な事態に陥ってしまうんじゃないかとも危惧していた。
4月の中頃、伯母から初めて俺の携帯に電話が掛かって来てびっくりした。今度、猪町町の役場から福祉の人間が来てお袋の介護の相談をするからできたら鹿町に帰ってきてくれないか。もし帰るのが無理だったら自分が二人に付き添って役場に意見を言うので任せてくれないかとのことだった。
伯母は俺が長男だから了解を貰いたいとわざわざ電話をくれた。両親の事をそこまで、まるで我事のように心配してくれる83歳の伯母に俺は感謝感激だった。
色々な話をする中、俺には初耳な事が伯母から零れた。中野の伯母が船ノ村のお袋の実家の、俺は“いけ好かない”伯母から聞いたとのことだった。
お袋は去年の年末倒れて江迎中央病院に入院し1月の中頃に退院したが、伯母の話に拠ると、佐世保のお袋の弟・幸夫夫婦がお袋の見舞いに実家を訪れたとのこと。何月何日に俺の実家にお袋を訪ねて来たかは訊かなかったが、てっきり親父が退院してきてからだろうと俺は早合点していた。
幸夫叔父は全く目が見えない。病気が進行して還暦前に失明してしまい、市役所を早期退職した。お袋の東京在住の妹も還暦前後に失明していて、兄貴二人はここ数年で相次いで亡くなった。その事を幸夫叔父の嫁のよしえがこう親父の前で言ったそうだ。
「姉さんの兄弟はみんな病気で大変ですね。主人と東京の姉さんは目が見えないし、兄さん二人も病気で亡くなってしまったうえに姉さんもこんな酷い病気になってしまって…」
この叔母の言葉に親父が切れてしまい、「土産なんか要らん。持って帰れ!」と追い払ったとのことだった。
――親父の奴、度を越しとる。また誰でもかんでも噛み付きよる。まさか目が見えず足許が覚束ない中、わざわざ見舞いに来てくれた幸夫夫婦ば追い返すちゃ。俺はまた親父の尻拭いせなならん。
伯母との話の中で私はもう一つ俺は驚愕の事実を知ってしまった。何と、来年の3月31日をもって猪町町と江迎町は佐世保に吸収されてしまうと言う。叔母が言うには、小佐々町と吉井町はすでに佐世保に合併していて、職員に2人自殺者が出たとのことだった。
この話をしている最中、猪町町の課長職である幸太郎はやっぱり淋しそうにしていた。確かにこの日本の最西端の辺境の地、猪町町は高齢化も激しく、単独では自治体としてやっていけないというのは分かるが納得いかない。こういった現象は長崎県だけのことだろうか?日本中に言えることなら人口1万人以下の自治体は全部消滅してしまう。勿論、懐かしい伝統も、ほのぼのとした地域社会も。
そう言えば、俺ら家族が訪れた飛騨高山もどんどん拡大しているが、北九州市は五市対等合併以来、周辺の町村との合併話なんか全くない。それに俺が以前住んでいた佐賀県鳥巣市でも……。
“佐世保市猪町町”
――嫌じゃ。生理的に嫌じゃ。嘘やろ。いい加減にしちくれ。どこまで膨張したら気が済むんじゃ。俺の故郷は北松浦郡猪町町じゃ。佐世保じゃねぇ!
俺は自分の生れ故郷が地球上から抹殺される気がした。ちなみに江迎町の隣の田平町はどうなったか伯母に訊いたら平戸市になるそうだ。俺の本音としてはどうせ合併するなら平戸市と一緒になったほうがまだ気が済む。確か数年前までは小泉内閣の下で田平と江迎・猪町で合併話が進んでいる筈だった。何時頓挫したのか?そこまで財政が苦しくなっていたのか?そんなに佐世保は金持ちなのか?
叔母は俺に言う。
「早猪町に帰ってこい。立派か家もあるんじゃけん。田舎は良かよ。特に年取ったらゆっくり暮らされるけんね」
俺は長男として親父に頼み込まれていた。
「この家は俺が一生懸命働いた退職金で建てた家なんじゃ。くれぐれも幽霊屋敷にせんでくれよ」と。でも、猪町が佐世保になると聞いてす~っとその気がなくなっていく。佐世保になんか帰る気はしない。親父には悪いが。それなら全く知らない街に移住して、例えば琵琶湖の畔などで余生を過ごした方がずっとましに思える。
帰り際、伯母は幸太郎に米を10キロ精米に行かせて俺ら家族に持たせてくれた。