35年目の兄弟喧嘩Ⅰ
俺は25年、生き馬の眼を抜く車の営業の世界を生き抜いて、相当人間が丸くなってしまったのだろうと勝手に思い込んでいたが間違った認識だった。
昨日、実家に帰省した俺は手こそ出せなかったが、弟二人と大喧嘩をやらかしてしまった。それもパーキンソン病のお袋、俺の嫁、俺の息子、そして実家のすぐ傍に住む叔父夫婦が見ている前で。
切っ掛けは2日前に親父が脳梗塞で倒れた事だった。
48歳の次男は大学の教育学部を卒業して教職に就き、去年校長として対馬に赴任した。新築の自宅を構えている。次男には娘が乗る車を3月購入して貰い11日に納車の予定だ。子供は今年成人式を迎えたその娘が一人だ。
次男との交流は結構あり、盆・正月・ゴールデンウイークには顔を合わす仲だが、兄弟らしき会話はほとんど成り立たない。でも、次男の嫁が車の営業をしている俺を気にして自分用の軽を2台買ってくれた。俺から売り込んだことはない。
その気持ちは嬉しかったが、故郷から離れて働いている俺としては遠いことなどもあり、あまりお客としての関係は持ちたくないなと思ってしまう。しかし、セールスマンの性か、車を買うと言われれば、ほいほいと乗ってしまう自分が情けない。
三男は俺と同じ大学の商学部を卒業して市役所の水道課に勤めている。新築の家を持っている。子供は中学一年生の娘が一人だ。今年、45歳になる。俺と年が5つ離れているせいか、よく面倒を見てやったと自分では思っている。
浪人日記にも描いているが、中学の勉強も見てやったしいろんな相談にも乗ってやった。キャッチボールも二人でよくやった。中学のときには原チャリにも乗せてやった。三男が車の免許を取ったとき俺はもう自動車会社に就職していたが、俺の改造車で練習させてもやった。
俺はもう半世紀も生きて50歳だ。小倉の築40年の中古住宅に居を構えている。子供は中学三年生の息子が一人だ。
次男との関係。
よく、喧嘩するほど仲が良いと人は言う。いつからだろうか、次男と喧嘩することがなくなったのは?
思い起こせば、俺が中学三年のときの兄弟喧嘩が最後じゃなかったか。それから、俺と次男は同じ高校に進学したが、校内で会っても眼を合わすこともなかった。しかも、俺は次男を敵視していたのかもしれない。
親父はそんな俺らの冷えた関係に気付きもしなかったし、俺から家族の問題として提起することもなかった。
そう言えば、一度俺に心境の変化があった。あれは高校三年のときか?
俺は夜中ふとこのままでは絶対いけないと、がばっと蒲団から起き上がると両親の寝ている居間に出て行って叫んだ。
「親父、家族会議しようや」
親父は何がなんだか分からず眠そうに、
「何か、(せっかく気持ち良う寝とったんに)こげな夜中に起こして(迷惑なことや)…」
俺は親父の平平凡凡とした平和そうな顔を見て考え直した。
――駄目だこりゃ!親父には家族の機微なんか知ったことじゃない。中卒の親父には悩む頭なんか持ち合わせてない。俺の苦悩・葛藤なんか意に介さない。
俺は次男との確執は胸に仕舞い込むようにした。永久に…。
俺だけが勝手に思い込む弟二人との気まずさ。それは俺だけが運悪く身体障害者になってしまったことに起因する。
まだ猪町町の御堂住宅に住んでいた小学校五年生のとき、俺は10トントラックに轢かれて左足を切断した。親父は退院した俺をこう諭した。
「お前は片輪になってしもうた。この町には義足の人間なんか居らん。一人ではできんことがお前にはようけ(いっぱい)ある。大人になってからの仕事も制限されるやろう、事務職にな。お前は弟二人と仲良うくして人生生きていかなならんぞ。そうせんと将来お前を助けてくれんけな」
俺は弟に対して劣等感の塊になってしまった。
お袋は俺のランドセルを持ってくれるよう、同級生に頼んだ。まがりなりにもガキ大将だった俺の立場は木端微塵に吹き飛んだ。
今まで女の子とも気軽に話せた俺は縮こまった。小学校の先生も俺に同情して特別扱いし出し、成績が普通だった俺に重きを置く先生は居なくなり、成績優秀だった次男に期待(特に教師・西村)が集まった。
俺は世間に反抗してグレたかったが、この足ではどうしようもない。兄弟喧嘩が多くなる。
――俺は絶対親父の忠告なんか聞かねぇ!
俺はずっと次男より2・3センチ背が高かった。腰が潰れた事故の後遺症かどうか分からないが、とうとう高校のとき抜かれそのまま次男の背は180センチを超えた。でも腕力は俺の方があった。
中学のとき、テレビのチャンネルの奪い合いで喧嘩になると、俺は次男の頭をヘットロックで締め上げる。次男は盛んに抵抗して何とか抜け出すと一目散に逃げ出してこう叫ぶ。
「や~い兄ちゃん、ここまでおいでべろべろば~」
俺は凶悪な人間になりたかった。研ぎ澄まされた刃を胸に仕舞う人間になりたかった。向かい合ったら逃げ出す機会を与えず一撃で相手を倒せる拳(自信)が欲しかった。
俺はわざと予備校には行かず宅浪して苦難を求め、大学の文学部に進学し迷わず空手部の門を叩いた。拳が変形するほど巻き藁を叩き拳を鈍器に変えた。
でも悲しいかな、所詮障害者、試合で脚光を浴びることはできなかった。
――仕方ねぇ。次は社会人で勝負じゃ!
公務員にはなりたくなかった。大学の専攻も就職には不利な文学部、例え、将来職に溢れたとしても、“どぶの中這いずり回る様な生き方”(親父の言う障害者は事務職でしか生きていけないということに対する反骨心から出た考え方だった。俺には公務員も事務職に含まれる)になったしても一般企業で駆けずり回りながら働きたかった。
大学を卒業した俺は当時の職場の花形、デパートに就職することができた。ほとんど決め打ちだった。俺は何の苦労もなく入社するために障害者枠入社という掟破りの方法を取ってしまった。同期の連中は大勢の入社希望者の中から淘汰されてやっと入社できたというのに。
このことで俺は同期の連中と釣り合いが取れなくなってしまう。安易な方法で入った人間に会社は重きを置く筈がない。
売り場での研修中、燃えるような恋も経験したし上司とも衝突した。約半年間の研修を楽しみ過ぎた俺は、売り場に恋い焦がれ事務に回されることに異常な恐怖を覚えるようになった。
しかし、障害者として採用したからには会社は俺を事務に配属するのは既定事項、当初の予想通り経理に配属された。
障害者のくせに凶悪を志願する俺が耐えられるのは半年が限度、結局就職して一年ちょっとで逃げるように去った。
親父にも勘当されてしまった。
無職で約3ヶ月、汚い1DKの学生アパートで悶々と過ごす。どぶの中這いずり回るように生きて行きたいとか格好良いこと抜かしながら、職もなく毎日ぶらぶらと過ごすのが片輪の俺にとってこれほど精神を圧迫するとは思わなかった。
無職の期間、新聞屋で3日働いた。
ソープランドの呼び込み(俺にはこれが確かにどぶの中を這い回る生き方に見えた)の面接にも行った。このときの面接官が俺を怒り上げるように掛けてくれた思い遣りのある言葉は今でもはっきりと覚えている。
――九州で名の通った大学出た人間がなんでこんな場末のソープランドの面接に来たんか知らんけど、お前はまだ若いし前途有望やないか。馬鹿な考え起こすな。俺は絶対採用せんぞ。待てば必ず展望開けるちゃ、もう帰れ。
そして、何気なく新聞を見て見つけた会社が趣味と実益を享受する今の職場だった。
それから25年、俺という人格が完成するまで50年も掛かってしまった。
50歳の今の俺、信じられないくらい冴えているし頭も切れる。車も弄リ捲って思い残すことはないしオフロードレースも一応やり遂げた。
一人息子はただ勉強の仕方が分からないだけで俺とは違って五体満足だ。土方をしてでも生きていけるだろう。
それに、俺はもう達観しているから小説も書ける。弟二人に対する劣等感なんか微塵もない。