ぬいぐるみ王子と残念王子
藪が陽の光を遮断している。湿気った柔らかい地面に足を取られながら走るロウは、息も絶え絶えに叫んだ。
「どういうことだ、ルッツ!」
「どうと言われましてもねぇ。ロウ王子亡命計画が漏れていたんだとしか…ううん、何処かに問題がありましたかね?」
「そもそも、そのあからさまな作戦名から変更しろと僕は言っただろうが!」
軽い口ぶりが癪に障って首を巡らせると、手元に残った最後の臣であるルッツ・マクローニは同族を切り捨てていた。国王軍に所属する兵士である。対するルッツは階級持ちなので軍服の色は黒。握られた剣は武術大会に優勝した際国王から賜った名剣だ。すらりとした長身に金髪碧眼。黙って立っていればまるで物語の王子のように美しい男は口を開けば途端に格を下げるので、主人であるロウを差し置いて残念王子と呼ばれているらしい。ルッツはもったいぶった動きで長い足を曲げ、血飛沫の奥で硬直する男の身体を蹴り飛ばした。ロウと目が合うと、まるでティータイムのように穏やかな笑みを向けてくる。
「ほら、王子。足を止めては追いつかれますよ」
「わ、分かってる!」
時期国王の座を賭けた争いだが、流れる血のほとんどは弱き者だ。彼らを踏み台にして立った男を国王と呼ぶのは本当に正しいことなのか。疑問を抱きつつも第六王子という、王子の中でも未子の、一番立場が弱いロウに抗う術はない。
不甲斐なさから込み上げた吐き気を堪えていると、ふと風に乗って女の声が聞こえてきた。能天気に歌など歌っている。
「誰かいるぞ、ルッツ! ここは危険な事を伝えねば…っ」
「お待ちください、王子、見通しのいい道に出るのは危険です! 罠の可能性だって…!」
「罠じゃない可能性だってあるだろう!」
噛み付くように言い返したロウはルッツの制止を振り切り走り出した。躓きながら、転がるようにして駆けていく。音色に乗って届く言葉は聞いたこともない言葉の羅列だが、何処か懐かしい気もした。藪をかき分け顔を出したロウは、差し込む陽の強さに一瞬目が眩む。
「おい!」
「へ?」
下から女の声が聞こえてくる。
顔を下げたロウの瞳に映ったのは、幼子のように地面に座って本を読んでいる女であった。年はロウより上に見える。ルージュ色のワンピースと、陽に褪せた鳶色の髪に白い帽子を被っている女はそばかすの上にある緑色の瞳をじょじょに見開いた。慌てた様子で立ち上がると、膝に乗せていた犬のぬいぐるみがころりと転がり落ちる。
「え、嘘、どうしよう!?」
「ロウ王子、危ない…!」
「お、王子!?」
せわしなく驚いている女が、目を離した覚えもないのに尻を向けていた。背中に結ばれた大きなリボンが揺れている。
『失礼な女だな、尻を向けて話す奴があるか!』
憤ると、打たれたような顔で振り返る女。あんぐりと口を開いている女の影に一瞬、自分が見えた。目を疑ったロウは身を乗り出す。ロウの視線の先でロウは、身体が傾いで今にも倒れようとしていた。いくら鍛えても筋肉がつかない華奢な体も、ただでさえ幼く見えるというのに更に幼く見せる黒髪黒目も、どこからどう見てもロウそのものである。
『…僕がなぜそこに?』
指で示すと、視界の端で動く茶色いもの。
「ロウ王子!」
ルッツの声とともにロウの身体が藪の奥へと消える。同時に響く乾いた音。藪が弾け飛んで、ぎゃっと悲鳴あげた女が覆いかぶさるように倒れこんできた。
「チャッピー! 大丈夫⁉︎」
『ちゃ…? 僕はそんなふざけた名前じゃない!』
女の腕を叩くと、ロウを見下ろす女の顔がどんどん蒼白になっていく。目が泳ぎ、泡を食ったような顔をしている女の奥で、ルッツの声が切羽詰まっていた。
「王子、ご無事ですか!? 怪我はありませんか!? 王子…!」
『ルッツ、僕はここにいる! 平気だ!』
「怪我はないのに。…一体どういう事だ? 何が起きた? ロウ様! ロウ王子!」
もう一度声をあげようとしたロウの身体が、問答無用で持ち上がる。女の細腕であまりに軽々と持ち上げられたロウは自分の身に起きている事が理解出来ずに戸惑った。まるで自分を置き去りに、皆巨人になってしまったような心持ちである。女は本とハンカチ、それに鞄を引っつかむとロウを小脇に抱えたまま藪に飛び込んだ。続けざまにパンと銃声が響く。
「あの、すいません! その人…!」
剣の切っ先が喉元に触れている。女が息を呑む声が聞こえたロウは思わず叫んだ。
『止めろ、ルッツ!』
ロウの声がようやく届いたらしいルッツの目がかすかに開いた。いつも余裕綽々と構えている男にしては珍しく、いやに驚いている。ロウを見た瞳は滑るように下を向き、ロウの身体を映した。
「…これは…、一体?」
呟く声に、女の身体がびくりと震える。あの、えっとを繰り返した女は口端を引きつらせた。
「…ごめんなさい。手に入れたばかりの本が嬉しくて…誰も来ないと思ったからつい声に出して読んじゃいまして、その…」
迷うように途切れる言葉。女の指先が震えているのがロウにはなぜか分かって、動いてもないのにルッツへと近づいたロウの上で、女はすいません、と腹から叫んだ。
「王子様はこっちです!」
「…」
「……」
「………は?」
「大変申し上げにくいのですが、おそらくチャッピーと入れ替わったのではないかと…っ」
たっぷりと間を開けて、ルッツは静かに訊ねる。
「チャッピーというのは、もしかしてとは思いますがその犬のぬいぐるみのことですか?」
チャッピー。
「…そ、そうです…ね…」
犬のぬいぐるみ。
ロウの脳裏に、女の脇から転がり落ちた犬のぬいぐるみがよぎった。薄汚れた茶色い毛。やたらと眠そうに垂れ下がった瞳。犬の癖になぜか二足歩行で、万歳した両手はまんまるだった。
ロウは呼吸の仕方を忘れる。固まってしまったロウの視線の先で、愕然とした声をあげたルッツは片手で唇を覆った。小刻みに震えている。
「チャッピーに、ですか…」
言葉をなくしたように黙り込んでいたルッツは、そのままゆるゆると息をつくと、か細い声で続けた。
「………チャッピーにですかあ」
上ずる声。笑っている。剣を置いたルッツは倒れているロウを指差すと、直視出来ない様子で訊ねた。
「つまりは……その、ロウ様の中にそのチャッピーとやらが入っていることになります?」
「そうなります」
真摯な声で頷いた女に、ルッツはついに噴出した。一度堰を切ると止まらなくなったようで、ひぃひぃ言いながらロウの薄い胸板を叩いている。こいつはこういう奴だ。腹を抱えて笑うルッツを冷めた目で見ていると、彼は目元の涙をぬぐい、スッと真顔に戻った。
「それは困ったことになりましたね」
同じ口でよくもまあしゃあしゃあと。ロウの呆れた胸中を知ってか知らずか、ルッツは剣へと手を伸ばすと腰を上げた。
「…囲まれています」
「かこ…!?」
「貴方は逃げて下さい…と、いいたい所ですが…王子を連れてどこかへ行かれても困りますしねぇ。さて、どうしましょうか。必殺剣でも使いますか」
「ど、どうしましょうかと言われても…」
おろおろする女に大丈夫だと慰める訳にもいかないロウは黙り込んでいた。いくらルッツの腕が立つとは言えロウの身体だけでなく女と、大変不本意ながら彼女が抱えているぬいぐるみまで守らなければならないと言うのは少々難問だ。追っ手がこれだけとも限らない。
押し黙るロウの上で、女はそろりと口を動かした。
「あの、ようは気を引く事が出来ればいいんですよね? この森が少々傷ついたりしても、わたし怒られたりとかしませんか?」
「あはは。面白いことをいいますねぇ。今ここで捕まれば、怒られるところか死刑ですよ。首スパーン」
ルッツの親指が首の付け根を走る。戦々恐々と震える女にロウは呆れた息をついた。
『真に受けるな。首をスパーンとされるのは僕とルッツであって、君はない』
「な、なら、死んだからって枕元に立ったりしません?」
『君の枕元に立つくらいなら僕は兄上を呪う』
「良かったぁ」
『まあこの場に居る以上、無罪放免という訳にも行かないだろうが。巻き込んだのは僕だ。兄上に、君に刑を処さぬよう願い出てみよう』
慰めるような言葉になぜか女の腕が、ピクリと動いた。
「…困ります。それはとても、困ります」
かすかな声で呟いた彼女は血相をかえて、先ほどまで楽しそうに読んでいた本のページを捲り始める。ロウが口を挟む間もなく捲ってめくって、ぴたりと指を止めると、口を開いた。ライラ、の言葉から始まったのは先ほどロウが遠く聞いた異国の歌で、耳にしたルッツは弾けるように彼女の手の内にある本を見た。
「まさか、ライラの書?」
『ラ、ライラの書!? わが国の封書をなぜ君が…!』
「逃げるご準備を…!」
ロウを抱き込む力が強くなる。驚いて視線を持ち上げると、天使のような女がひとり浮かんでいた。優雅な曲線を持つ半透明の女は微笑み、桜の葉で形作られたような唇を動かす。
『アアアアアアアア―――――!』
見目の美しさには似合わぬ、金切るような叫び声をあげた。風がうねり、木々が押し倒される。男たちの悲鳴を後ろ背にして女は駆け出した。
『ルッツ!』
「ご安心ください。チャッピー様はこちらに!」
『チャッピーに様をつけるな! お前…っ、もっと他に担ぎようはなかったのか!』
こともあろうことか、ロウの華奢な身体はルッツの両腕にすっぽりと収まっている。まるで姫のような抱き方に悲鳴をあげると、ルッツは軽快に走りながら笑った。
「軽くてつい」
『僕はまだ成長期なんだ! いいか、見てろよ! 今にお前を見下ろしてやるからな!』
叫んだロウの身体が傾く。女が躓いたらしい。
『死ぬ気で走れ!』
尻を叩くように言うと、女は頷いた。
「わ、分かってます!」
『いいか、お前の事情を僕は知らないが…』
言ったロウは小さな腕を、頭の付け根に走らせる。
『捕まれば、お前も確実に首スパーンだ』
「ですよね! やっぱり!」
笑うしかないらしい。死に物狂いで走りだした女を、ここに来て初めてロウの目が映した。彼女が走るのにあわせて肩上で揃えられた茶色い髪が揺れている。こうも近くで女を見るのは母親以来で、母を思い返していると、耳元で懐かしい声が聞こえた。
ねぇ、ロウ。ライラはどう言う気持ちだったのかしら。
ねぇ、ロウ。ライラとわたしはどっちが幸せなのかしら。
ねぇ、ロウ。ライラとわたしは……どっちが、どっちが可愛そうなのかしら。
二言、三言と涙に濡れていく声。どこかがツキンと痛んだ気がして、ロウは零すように呟いた。
『ライラはどう言う気持ちだったのだろう、か…』
訊いて返事が返ってくると思っていたのだろうか、母は。ただ美しいというだけで王に献上された可愛そうな女だと、愛していない男の血が混じった息子に言って欲しかったのだろうか。
「幸せだったはずです」
上から降ってきた答えに迷いはなかった。
「わたしがそれを確かめます。ライラは――祖の魔女は幸せだったのだと、証明します」
息を切らして、頬を朱に染めて。走りながら彼女は笑った。アーモンドのような瞳が弧を描く。思わぬところからの返答に呆気に取られたまま、ロウは思い出して訊ねた。
『そういえば…君は…』
「エリス・クロウと申します」
『エ、リス…クロウ!?』
聞き覚えのある名前だ。考えていると、後ろからルッツの声が聞こえて来る。
「…墓荒らしの魔女」
『墓荒らしの魔女だと!?』
墓荒らしの魔女といえばこの国だけでなく、他所の国でもお尋ね者と聞く。こんな年が少々上くらいの娘とは思わなかったロウが唖然としていると、エリスは不満気に鼻に皺を寄せた。
「わたしは魔女じゃなくて、魔術師なんですけど…それに、荒らしてるんじゃなくて、調べてるんです」
『調べるって…じゃあ、そのライラの書は…』
途端に痛いところを突かれた顔をした。一変して目を泳がせたエリスは言葉を詰まらせる。
「これは…その、ちょっーと城から借りて来て……読んでただけというか」
『借り…!?』
「本当ですよ!? 読んだら返すつもりだったんです!」
『かえ…!? うちの城はいつから書庫になったんだ!』
「だってこうまでしないと読ませてくれないから…!」
『当たり前だろう! ライラに関する資料は全て閲覧禁止だ!』
ライラは魔女の祖であると同時に大罪者だ。彼女が書いた書は全てにおいて封じられている。この国においては封書と言ってはいるが禁書に近い。読めば大罪だ。もっとも彼女が記している言語は古のもので、魔女が廃れた今、唯一彼女の言葉を受けついた一族が処刑されたのもあり事実上読める者はいないはずだ。
『君は、一体何者なんだ?』
まるで幽霊を前にしたような気持ちになってロウが訊ねると、エリスは小さく首を傾いだ。
「…ですから、エリス・クロウ、魔術師です。貴方が入っているのがチャッピー、わたしの相棒です」
本を盗まれた王が心労から弱っているのだとか、そのせいで跡目争いが起こっているのだとか、いいから早いところチャッピーから元に戻してくれだとか、言いたいことはもろもろあったのだが、まずはじめに浮かんだ言葉を口できずに渋っていると、残念王子は爽やかに笑いながらロウの胸のうちを代弁した。
「その年でぬいぐるみが相棒って! エリスさん、きっついですね!」




