プロローグ
体は激流に翻弄されていた。
激しく流れる水と泡の音だけが耳の中に轟く。
闇に沈んだ視界に見える景色は激しく掻き回され、引き伸ばされ、何が映っているのかすら分からない。
上へ向かっているのか、下へ沈んでいるのか。
右に流されているのか、左へ引きずりこまれているのか。
何もかも分からないほど無茶苦茶に掻き回されていた。
それでも足掻き続けた。
呼吸の出来ない苦しさに気が狂いそうになりながらも。
叩き付ける水圧に手足の自由を奪われながらも。
死にたくない。
その衝動だけが体を突き動かしていた。
それを嘲笑うように、徐々に手足の力が抜けていく。
まとわりつく水の冷たさが全身の感覚を芯から凍てつかせていく。
薄れていく意識の中で、身体が眠りにつくようにと囁く。
その声は水に溶けていく砂糖のように、奈落の底へと何もかもを誘おうとしていた。
抵抗する余地を一分も与えることなく、意識が掻き消えていく。
その今際の刹那に、生存本能が絶叫を迸らせた。
心の奥底まで凍り付きそうな鮮烈な感情が、衝撃のように全身を貫く。
途方もなく巨大で深く暗い何かへと引き摺り込まれていく事への、果てしない恐怖を覚えた。
僅かに残った意思と本能の欠片の、最後の足掻きだった。
最後の一呼吸が濁流へと吐き出される中、その声は泡のように闇の中へと消えて行こうとしていた。
「――かはっ!」
久澄 聖人は空気を食らいつくように跳ね起きた。
肩で息をしながら、脂汗でべっとりと濡れた顔を手で拭う。
薄暗い自室の中を無意識に目を凝らしてゆっくりと見渡す。
それからちゃぶ台の上に置かれた時計に目をやる。
ウトウトしていた時間から三十分も経っていなかった。
「……チッ!」
忌々し気に舌打ちをする。
眠りにつくと必ず悪夢に苛まれて飛び起きてしまう。
濁流に溺れ続けるだけの決まった内容だった。
もう何年もその状態が続いていた。
まともに夜を寝れた試しなどない。
時刻はまだ午後八時前。
夜は始まったばかりだった。
茨で締め付けられるような頭痛と目眩に顔をしかめながら、部屋の隅に寄りかかっていた聖人が立ち上がる。
汗で湿った学生服を脱ぎ捨て、私服に着替える。
上下とも深いネイビーで統一され、薄暗い部屋なかでも半ば暗闇に溶け込んでいた。
扉を開いて、玄関へと続く廊下へと出る。
寿命が尽きた蛍光灯しかない廊下は、聖人の部屋と同じく薄暗い。
その脇に中身の入ったゴミ袋や酒瓶、ビールなどの空き缶が無造作に転がっていた。
壁はヒビだらけで、所々に大きな穴が開いている。
玄関とは反対側の奥の部屋、リビングへの扉が僅かに開いていて、淡い光と控えめな雑音が聞こえてきていた。
おそらくテレビをつけっぱなしのまま、父親が息をひそめているのだろう。
聖人は関心を示さないように玄関へと歩いて行く。
ここは自分の家であって、他人の家以上に居心地の悪い場所だ。
思い出したくもない思い出が、汚物のように染み付いているからだ。
なによりも、同じ人間とも思いたくない父親という名の塵屑と同じ場所にいる事が吐き気を催すほど忌々しかった。
速足で廊下を通り抜けると、素早く靴を履いて玄関から飛び出した。